森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」: 第14回 群読版ロレンス、 ストーリーとその解体、 ジョン・バーガー『G』、 時里二郎『名井島』、 自由と他者
from M to Y
昨年末は時間を作ってお会いいただき、ありがとうございました。横浜でのお茶会、楽しかったです。あの時は風邪を召されていましたが、今は回復なさったでしょうか? 四元さんとお会いする時はいつも緊張してしまってしどろもどろになってしまうのですが、私は『前立腺歌日記』の感想や、年明けに公演がおこなわれる「群読版ロレンス」の話などを拙くもお話ししたと記憶しています。そして、「群読版ロレンス」の公演が、この往復書簡の区切りとなるだろう、とご相談もしましたね。
その「群読版ロレンス」の公演、1月12日に無事終わりました。その感想を書きたいと思います。…と言っておきながらさっそく前言を翻してしまうことになりそうなのですが、実は私、いまだに実際の舞台がどのようなものであったのか、あまりよくわかっていないのです。ということで、順を追って説明させてください。その説明が「メイキングオブ『群読版ロレンス』」、あるいは「『群読版ロレンス』制作秘話」のようなものになるかもしれません。
合唱とピアノのために作られた組曲を、役者の群読を加え全体の構成を解体再構成して上演する、というのが今回の試みの当初の計画でした。とはいえ「解体再構成」をあれこれ試しながら作っていくというのは、楽譜の読めない役者側にも、楽譜通りに歌えない合唱団側にも負担が大きいものでしたので、まずは大枠を決定しようということになりました。演出家が原曲楽譜のデジダルデータをもとに新しい楽譜を作り、私は音楽だけではできないことをするため、さらに解体を押し進めた指示書のようなものを作り、演出家がそれをまた楽譜に書き起こして、それをもとに練習をしていくことになりました(ここまでは前便でお話しましたね)。私はピアニストでもあったので合唱団の練習にずっと参加していましたが、役者の稽古に参加していた演出家は、別途楽譜と指示書から役者の朗読部分を抜き出した台本も作っていたようです。
合唱団員は、というか楽譜に書かれた音楽に馴染んでいる(アマチュアの)音楽家は、楽譜通りに演奏することに慣れているので、「楽譜にはこう書かれていますが実際にはずらして歌ってください」と言った指示には相当難儀していたようです。かなり公演が近づいた段階でようやく音が形になり、そこから駆け足で役者との合同練習を重ねました。合唱団につきっきりだった私がはじめて役者の方と合同練習をしたときの驚きをよく覚えています。役者が作り上げていたのは朗読というよりは「お芝居」だったからです。私はすっかり多少立ち位置を変える程度で、あとは詩を読み上げるだけのパフォーマンスが群読なのだろうと思っていましたが、パントマイムや小道具を使った演出などを用いて、ひと繋がりの「物語」を舞台上に現出させようとしているようでした。
私にはここは悩ましい点でした。もともと原曲の『さよなら、ロレンス』は、足を踏み入れて(「受付」)、自らを鼓舞するが(「意志決定」)、混乱し(「労務管理」)崩壊する(「市場崩壊」)といったゆるやかなストーリー性を持っていたのですが、私としては、今回の再構成版ではそのストーリー性を(観客が混乱しない程度に)もう少しゆるめようと思っていたからです。
横浜でお会いした際、四元さんは「歌」の部分が息継ぎとなって『前立腺歌日記』という小説を書くことができた、とおっしゃっていましたね。「群読版ロレンス」では、逆に歌と群読が互いの息継ぎポイントとして失効することで、もっと「溺れた」感じを出してもよいのでは、と私は思っていました。ただ、どうも歌い手も演じ手もストーリー性があると取り組みやすいようです。なるべくピアノパートを言葉に抵抗する楔のように各所に打ち込むことで、ストーリー性とその解体のぎりぎりのところを狙おうというのが私の立ち位置になりました。
その他、いくつかの要因が重なりました。役者の演出は演出家がおこなうのですが、歌い手の指導は通常の合唱団の練習と同じく指揮者がおこないます。私はピアニストでしたので、演出をする側というよりはされる側、指示するというよりは指示される側の人間。誰かにかわりにピアノを弾いてもらって聞き役に徹することもできず(楽譜通りにでなく弾かなければならないので、アイディアを出した私が練習でも演奏し続けるほかないのです)、基本的には(「共同制作者」などという大それたものではなく)プレイヤーとして練習にも本番にも向き合った、というのが正直なところです。また、舞台の空間構成上、舞台中央の一番奥に陣取って(客席に向かって)ピアノを弾いていたので、役者や合唱団員の背中しか見えず、客席から見て何が起こっているのかはまったくわかりません。
ということで、どんな舞台公演になったかは観客の感想から想像するしかないのですが、少なくとも『さよなら、ロレンス』を実際に歌ったり楽譜を読み込んだことのある人にとっては、原曲とは異なる音楽上のたくさんのアイディアを楽しんでいただけたようです。また、役者の語りが持つ固有の説得性を感じ、歌い手として刺激になった、という(出演したのとは別の団の)合唱団員の意見もいただきました。
チラシにまで大きく(共同制作者として)名前を記載していただいたのに全体を見渡すこともせず、ピアノばかりを一心不乱に弾いていることで役者陣や合唱団員、そしてなにより演出家には迷惑をおかけしましたが、しかし私としてはそれゆえに非常に勉強になることもありました。それは、表情や動きを一切排した、純粋な歌と語りの魅力です。なにせ出演者の背中しか見えませんので、頼りになるのは指揮を除けば聞こえてくる音のみです。「群読版ロレンス」では中心とはならなかった面白い鉱脈をここに見つけた気がして、すなわち、もっとミニマルな要素による歌と語りのクロスオーバーの魅力がまだまだ掘り出せるような気がして、これを実作に活かしたいと思いました。
私の次の作品は、この鉱脈を掘るものになったと思います。少しだけわがままを言って、演奏のあり方もなるべくさまざまな演出を排した初演にしてもらおうと思っています。今から初演が楽しみです。
ひとつの作品が次の作品を生み出す、その連続性が創作を続けることの魅力だとすれば、とても大きなスプリングボードとなった点において今回の「群読版ロレンス」は私にとって大変貴重な体験になりました。音声か映像か、いずれかの形態で四元さんにもお見せできればと思っています。
他方で宿題として残っているのが、「人間臭さ」を排した楽曲の作成です。四元さんのAI詩と童謡のお話を読み、その困難さに眩暈がしてきました。今回の「群読版ロレンス」でも役者が機械を模した動きをするシーンがあったのですが、やっぱりそれは大変に「人間臭い」。歌は言わずもがなでしょう。どうやったらそもそも「人間臭さ」の脱臭などということができるのか、まだまだ実験と考察が足りないようです。
と言いつつ、もしかしたら、「人間臭さ」を排するには、逆のアプローチが必要なのかもしれないと思うところもあるのです。この一週間くらい論文を書くためにジュディス・バトラーの著作を読み返していたのですが、その中に機械の作動音を自分を呼ぶ声と勘違いしてしまうという例がありました。ここでは機械が「人間臭い」のではなく、人間が勝手に機械に「人間臭さ」を読み取ってしまっている。私は、このような事態をこの例を超えて一般化したい欲望に駆られます。すなわち、「人間臭さ」を排するためのもっとも確実な方法は、「人間臭さ」を読み込む「人間」であることを私たちがやめてしまうことだ…乱暴ではありますが、「人間臭さ」を対象に宿る性質と捉えることを適切に疑うことが、「人間臭さ」を排した作品を作る近道ではないのか、そんな直感が私にはあります。
「人間臭さ」をそこに見てとるとは、そこにもっともわかりやすい形で「他者」を見てとる、ということにほかならないですね。ということで、四元さんからの問いかけに答えたいと思います。四元さんの問いはこうでした。「肉体を伴う個がなくなっても愛することはできるのでしょうか?」。この問いに対する私の答えはこうです。「肉体を伴わなくても個があれば愛することはできるが、個がなければ愛することはできない」。1と0で構成された機械仕掛けの世界の中に愛があってもおかしくないが、それは機械仕掛けの世界が「個」などという制度を後生大事に守っている限りにおいてである、と私には思えます。だから、私にとってはトロンは愛の観念など持たないはずだと思われるのです。直感に直感を重ねてさらに言ってしまうならば、こうも思うのです。「愛なき世界のトロンが、そもそも詩を書こうと思うのだろうか?」
まるで「個」なんてなくなってしまえ、と言わんばかりの乱暴な物言いをしてしまいましたが、実際の私の心持ちは全く逆です。すなわち私は「個」を前提としているし、「他者」を強く前提としている。この往復書簡を通じて私は四元さんと自分に似たところがあると僭越ながら何度も感じたことがあったのですが、最大の明確な差異は、四元さんが個を溶解しようとするその地点においては私は強く「個」にこだわり、「他者」の存在に希望を見出しているという点だと思えます。社会学者の立岩真也さんが「ただ他者が存在することの快」という表現を用いていますが、私もこの「快」にすっかり身を委ねているようです。私は、私自身が思っている以上に「愛」の人、なのかもしれません。
この往復書簡では、四元さんの胸を借りて私はいつも乱暴なことばかり書いてきたような気がします。四元さんにはこの往復書簡は、あるいは私の書く文章はどのようなものに見えていましたか? ぜひお聞かせいただければ幸いです。
2019年1月19日
下北沢のカフェにて、スティングが歌うダウランドの歌曲を聴きながら
From Y to M
「混声合唱とピアノ、群読のための《さよなら、ロレンス》」YouTubeで観ました。いやあ、思っていた以上に面白かった!たしかに芝居に近いけど、やっぱりミュージカルやオペラとも違って、歌と朗読という異質なふたつの声が混ざり合った一種独特の世界を作り出していますね。
https://www.youtube.com/watch?v=Lof8OcFVVIw&t=12s
「歌と朗読」というのを、「詩と散文」と言い換えたら、そのまま『前立腺歌日記』にも通じる面白さかも。合唱だけだと、歌声は手の届かない空の高みに浮かんでいるようだけれど、そこに「群読」と称する朗読や動きが加わると、無理やり地上へ引きずり降ろされてくる感じ?「群読」の方は音楽の呪縛を逃れて演劇と化し、そのまま現実のなかへ走り出してゆきたそう。でも「歌」がそれを許さない。「歌」は再びすべてを包みこんで、頭上に広がる空へ舞い上がろうと翼を広げます。観ている方は、その拮抗の縺れ合いに巻き込まれて、地べたに這いつくばったかと思うと、次の瞬間には雲の淵から(天使たちとともに)外界を見下ろすようでもあり。その危なっかしい垂直運動が、どこか擽ったく、これまで観たことのない不思議な光景を垣間見せてくれます。
もしかしたらこれって、日本の歌日記や歌物語の世界だけではなく、役者の演技とコロスの合唱が入り混じったギリシャ悲劇にも通じるものなのでしょうか?「群読版 ロレンス」を作り上げてゆく過程でギリシャ悲劇を意識したことはありましたか?
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横浜で森山さんとお会いしたのは大晦日の前日でしたが、それに先立つ一週間、僕は三人の方とトークイベントをしていました。最初は東京で小池昌代さんと、次は福岡で岡田利規さんと、最後は神戸で疋田龍乃介さんと、それぞれ『前立腺歌日記』を前に話相手になっていただいたのです。
この三人に共通するのは、肩書が一言では済まないという点。小池さんは「詩人・小説家」、岡田さんは「劇作家・小説家」、そして疋田さんは「詩人・落語家」。疋田さんなんか名前までふたつあって、落語家とのときは「笑福亭智丸」を名乗ってますからね。さらに言えば、三人とも、二つの世界を器用に使い分けるというより、むしろ対立する二つの要素を、自分のなかで一つに融合することを目指している――僕の眼にはそんな風に映っています。
つまり創作原理の中心に、「詩と散文」的な二項対立のダイナミズムを抱えている人たちです。そこに僕はシンパシーを覚えて対談をお願いしたわけですが、考えてみれば森山さんだってそうですよね。作曲家にして社会学者。「詩と散文」という対立軸は、この往復書簡でぼくらが語り合ってきたさまざまな話題とも響き合っています。「歌と言葉」「声と文字」「個人と社会」「無意識と意識」、そして前回の森山さんからの手紙でも触れられた「自と他」。
僕が長年拘りつつも、乱暴にも一口で「詩と散文」と呼んできたものは、実は人類にとっての根源的な原理だったのかもしれません。そんなことを考えていると、John Bergerの『G』という本(これもまた詩と散文が入り混じった不思議な書物です)のなかに次の一節を見つけました。
Poems, even when narrative, do not resemble sotries. All stories are about battles, of one kind or another, which end in victory and defeat. Everything moves towards the end, when the outcome will be known.
詩は、たとえ物語性を持つものでも、ストーリーとは異なる。ストーリーはなべて戦いである。そこには常に勝利か敗北の結末しかない。すべては終わりへ向って前進してゆき、最後に結末が明かされるのだ。
Poems, regardless of any outcome, cross the battlefields, tending the wounded. Listening to the wild monologues of the triumphant or the fearful. They bring a kind of peace. Not by anaesthesia or easy reassurance, but by recognition and the promise that what has been experienced cannot disappear as if it had never been. Yet the promise is not of a monument. (Who, still on a battlefield, wants monuments?) The promise is that language has acknowledged, has given shelter, to the experience which demanded, which cried out.
詩は、結末がどうであれ、戦場を横切り、負傷者を手当する。勝ち誇った者の、また怯える者の、苛烈なモノローグに耳を澄ます。詩とはある種の安らぎをもたらすものだ。それも麻酔や気慰めによってではなく、体験された事柄は、決して消え去りはしないと気づかせ、約束することによって。それは銅像を建てるという類いの約束ではない。(一体誰が、戦場にいながら銅像を欲しがるだろうか?)そうではなく、言葉が、体験を受け止め、護ってみせるという約束だ。体験はそれを求めて、叫びをあげているのだから。
ジョン・バーガーは別の著作のなかでは写真と映画を比較して、映画は常に先へ進んで未来を覗き込もうとするが、写真は逆に過去を振り返って、そこで起こったことを証言する芸術であると書いています。だから写真をつなぎ合わせても決して映画にはならない。もしも「写真小説」を作るとするなら、それはストーリーを絵解きする紙芝居的なものであってはならず、ひとつの経験を多角的に照射することを目指すべきだとも。以前から僕は自分が写真は撮れるのに、ビデオを撮るのが苦手なことを不思議に思っていて、詩を書くことは好きなのに小説は書けないということと重ね合わせていたので、なるほどと膝を打つ思いでした。
「群読版 ロレンス」で森山さんが目指された「ストーリー性とその解体のぎりぎりのところ」ということを、僕は『小説』という詩集(2017年思潮社)で試みた気がします。『前立腺歌日記』では、詩と散文を融合させることで、逆にストーリー性の方へ振れましたが。果たして次はどんなところへ行けばいいのか、詩と散文の狭間でいまは思案に暮れているところです。
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前便のお手紙の「人間臭さを排した楽曲」という一節を読んで、一冊の詩集を思い浮かべました。時里二郎さんの『名井島』です。昨秋刊行され、今年に入ってから二つの文学賞を続けて受賞されたので、あるいはもうご存知でしょうか。
不具合を起こしたアンドロイドたちがリハビリを行うサナトリウムの話なんです。その背後には、人類の文明を破滅させた《言語構造体》なるものや、未来の文明を引き継いだ人工知能が、人類の秘密を解明するために過去(すなわち私達の現代)へ放った《コトグラ》(という言葉の格納庫)などをめぐる、壮大なSF的ストーリーが設定されています。詩集『名井島』は、そのストーリーを縦に辿るのではなく、むしろ解体させ、バーガーの言葉を借りるなら「戦場を横切るように」展開してゆくのですが。
そこに《伯母》と呼ばれるヒューマノイドが登場します。以下は詩集の終わり近くの一節、小説ならば「ネタバレ注意」の警告が要るところですが、筋を追うのではない詩集にその必要はないでしょう。
《伯母》によると、不具合を抱えたアンドロイドのサナトリウムを作ることこそが、名井島のほんとうの目的なのだという。《伯母》は、帰島した言語系アンドロイドのリハビリをとおして、その不具合に潜んでいるヒト言語を包むあいまいな負荷をとりだすことに執心しているのだと。
この「不具合」は、《ヒト言語系アンドロイド》に、原型となるヒトの記憶の残滓を呼び覚まさせることによって生じるものです。「ヒト言語を包むあいまいな負荷」とは、言葉に纏わりついている記憶や感情、すなわち「人間臭さ」そのものなのです。それがこの作品では「詩」の喩になっています。時に月光を浴びる茸から立ち昇る胞子のイメージに重ねられ、時に「瘴気」と呼ばれながら。
論理や知性から逸脱する「人間臭さ」にこそ詩が潜んでいるというのは、古典的な詩観でしょうね。実際、作品の中核には後鳥羽院の御製の歌や藤原定家の歌論(とっても作者の捏造ですが)が置かれていますし、和歌の世界に西洋の「ポエジー」が混入して近代詩が誕生したということも重要なモチーフになっています。でもそういう「人間臭さ」を取り扱う『名井島』という作品そのものは、ほとんど機械だけの世界であり、これまでに僕が読んだ「現代詩」のなかでももっとも過激に先端的なものなのです。もしも森山さんがこの作品をさらに解体し、演技を排した歌と語りだけのミニマルな音楽に仕立て上げたら……そう考えるとちょっとわくわくします。
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エミリー・ディキンソン、ガートルード・スタイン、フランク・オハラ。この三人の詩人に共通するものは何だと思われますか? 正解は、「AIと詩に関する記事に登場する常連たち」。ディキンソンの詩は、マイクロソフト社が開発中のAI詩ジェネレーターが再現を試みているらしいし、スタインとオハラの詩は、しばしばチューリング・テストに用いられます。テキストだけを読んで、それがAIによるものなのか、それとも人間が書いたものなのかを当てるテストですね。彼らの作品は時にAIが書いた詩よりも機械的・無機的に見えることがあるからです。つまり「人間臭さ」が薄い。その一方で、はっきりとしたスタイルがあって、アルゴリズム化するのが比較的容易だということもあるのでしょう。
あともう一つ、共通項があるんです。三人とも僕が大好きな詩人だということ。僕は彼らの「人間臭くない」部分に憧れているのかもしれませんね。感覚的な言い方をするなら、ベトつかず、乾いているところ?
そういえば彼らの詩に直接的な「他者」の影は希薄です。スタインなんかそもそも「私」すらいなくて、釦や料理が語っていますからね。ディキンソンとオハラは逆にいつも「私」が語り手だけれど、その「私」は彼らの生身の「自分」とは明らかに別物です。「私性」が予め排除されている「私」とでも言おうか。むしろ生(なま)の自分から逃れるためにこそ詩を書いたんじゃないか、という気もしてきます。
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「四元さんが個を溶解しようとするその地点においては私は強く『個』にこだわり、『他者』の存在に希望を見出している」という森山さんのご指摘、とても興味深く受け取りました。
僕は自分が一人っ子で、自意識が強く、他者と距離を取ろうとするところがあると感じているんです。たまに帰国すると、日本社会の集団性の強さと個々の主体性の欠如に辟易することがあります。逆にドイツへ戻ってくると、「我」と「汝」が厳しく分かたれ、三人称的な掟に支配された人間社会の在り方にほっとしたり。でもその一方で、あるいはそれだからこそ、ココロの深いところで個の溶解を夢見ているのでしょうか。
「個」を溶解し「他」とひとつになろうという欲望が、「肉体を持つ」もうひとりの人間に向けられるとき、それを愛と呼べるのかどうか、僕にはよく分かりません。むしろエロスと呼びたい気もします。でも「個の溶解」という森山さんの言葉から咄嗟に僕が思い浮かべた「他者」は、人ではなく、なぜか星雲のイメージでした。そこには音楽の響きが漂っているようでもあります。詩を書いているとき、僕が目指しているのは、そこへ自分を解き放つことではないか。宇宙的で、根源的で、母親の胎内にも、黄泉の地底にも通じている場所。言葉のサーフボードに乗って、そういう場所へ向かうとき、僕の感じているのは確かに「快」ではありますが、もはやエロスですらないようです。その向こうに(ベアトリーチェに導かれたダンテの辿り着いたような)「愛」に満ちた天空があることを予感しつつ、けれど現身のままでそこへ行くことは出来ないと知りながら……
結局のところ、僕はドイツという厳格で父性的な社会に暮らしながら、空を見上げて優しい母性に抱かれることを夢見ているだけなのでしょうか。そう言えば『名井島』で、未来から現在に向かって「謎に包まれた《言語構造物》の調査を目的に」放出された人工知能は《母型》と呼ばれているのです。
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「群読版ロレンス」に戻りましょう。
僕があれらの詩(『笑うバグ』収)を書いたのは1980年代後半のことでした。マネーゲーム真っ盛りの米国で経営学を学びながら、海の向こうの日本を金融や会計などの概念を用いて戯画化したのですが、その時すでに、僕は日本社会を覆う《システム》と、そこからの脱出を試みる《個》という対立を意識していました。あるいはそれを現実のレベルで実行するためにこそ、二十代半ばで日本を出たのかもしれません。
その直後にベルリンの壁が崩れたわけですが、実はシステムによる個の支配という現象は、高度成長期の日本に限ったものではなく、冷戦終結以降すべての国家で多かれ少なかれ起こっていた――そう気づいたのは、さらに十年以上経って、ヨーロッパ各地(とりわけ東欧の旧社会主義諸国)を詩祭で訪れるようになってからのことです。
それからまた月日は流れ、今や『笑うバグ』は三十年前(!)の作品となったわけですが、YouTubeで「群読版ロレンス」を観ていると、ちっともそんな風に思えない。舞台の上でうごめく若者たちの肉体から、生々しい叫び声が聴こえてくるかのようです。システムの網の目のなかで藻掻きながら、自由を求める「人間臭い」叫び……。作品のなかで演技として叫んでいるというより、現実を生きる若者たちが、作品を演じることによって、束の間システムから逃れようとしているかのような印象を受けるのです。
自分の詩が陳腐化していないと感じるのは嬉しいけれど、その理由がシステムの呪縛が解かれず、むしろひどくなっているからかと思うと複雑な気持ちになります。
振り返ってみれば、この往復書簡でも、時々の話題の背後には一貫して《自由》の問題が横たわっていたように思えます。個と集団や私と公の関係をめぐって、時に創作の過程を通し、時には現実生活のレベルで、天皇制の問題なんかにも触れながら。それを思うと、そもそもの事の発端として、森山さんが僕の作品のなかから、『笑うバグ』や「旗」を選んで曲をつけて下さったことが、改めて腑に落ちます。
そういえば「群読版 ロレンス」に続いて、「旗」の群読版もYouTubeにアップされたのでしたね。こちらは、題材がわずか12行の短詩であるせいか、演劇の要素が抑えられている印象でした。もっとも元の作品の方には、詩の前に散文のエッセイが付いていて(『現代ニッポン詩日記』収)、9.11以降の米国のナショナリズムを引き合いに出しながら、暗に日本の公立学校における国旗掲揚・国歌斉唱問題を批判しています。次にこの作品を「群読化」する機会があれば、このエッセイも取り込み、ついでに舞台の背後に風に翻る日の丸の旗を映し出したり、国歌斉唱を強要すべく教師たちの口元をビデオで撮影する人物なども配してみたら面白いだろう、と勝手な夢想に耽っていました。
ちょうど手元に届いた雑誌『群像』3月号で、社会学者の大澤真幸さんと哲学者の國分功一郎さんが「自由・中動態・責任」と題した対談をしています。気になった箇所を書き出してみると、
選択には実は、これしかないものを選んでいるという必然性が伴っており、その必然性を引き受ける形で選択がなされたとき、我々は自由な選択をしていると感じられる。
私が何であるかということの必然性は、〈私〉自身によっては選択することが出来ない。それは、〈私〉に外在する超越論的な他者によって、まずは選択されなくてはならないのである。
選べない主体になること、選べない自分を引き受けることによって自由になる。
自由の在り処は他者との関係です。
おや、ここでもまた「他者」が出てきました。「他者」は社会学や哲学の、ひいては地上に生きる人間にとっての、宿命的な課題なのでしょう。詩は、片足を地上につけながらも、もう片方の爪先を、自他の彼岸へと踏み出そうとしています。
2019年3月2日
謝肉祭を控えたミュンヘンにて