「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」(紀貫之『古今和歌集』あるいは、坂本龍一さんによって解き放たれた五感)
この夏(2022年)、斎藤真理子さんの「韓国文学の中心にあるもの」ではじめて知った1948年済州島での大量虐殺事件(済州4.3事件)。その事件をテーマにした映画「スープとイデオロギー」をYCAMにて鑑賞。
その凄惨な体験を生きながらえるも、戦後、国家とイデオロギーに分断された大阪のある家族の物語を長女であるヤン・ヨンヒ監督が、ホームビデオで記録した作品。生者にも死者にも均等に刻一刻、過ぎゆく時の流れ。否応なく消えゆく記憶。遺されたものは、すべての悲しみを鶏一匹まるごと煮込んだ先祖伝統のスープに溶け込ませる。光と影のコントラストが印象的な作品だった。
昼食は、湯田温泉駅前の「ひにけに珈琲」にてランチプレート。「ひにけに」とは、万葉集にある言葉で「日々移ろいゆく、日ましに」といった意味らしい。
食後は、坂本龍一さんと高谷史郎さんのコラボレーションによる期間限定のインスタレーションを順にまわる。まずは、山口駅前のYCAMサテライト会場の”water state”。空間の中央に設置された四角い水面とサウンドが連動する。刻一刻と変化する水面は、外界環境に密接に影響を受ける人間の内面を象徴するかのようだ。
雪舟庭のある常栄寺で体験した”Forest Symphony”には深い感銘を受けた。
世界の樹木を流れる生体電位のデーターを2013年にYCAMでの坂本龍一さんが音に再構築したサウンドが、寺の本堂に静かに流れる。流転する時間。長い縁側に一歩踏み出すと、三方山に囲まれた小さな庭に虫や鳥の声が反響していることに気づく。21世紀の坂本龍一さんが、15世紀の雪舟が設計した「サウンドスケープ」の世界に私たちを誘う。
3年前に訪れた、デンマーク、コペンハーゲン郊外の「ルイジアナ美術館」で体験した時間と空間にそっくりだ。そこでは、来場者は、緑の芝生の丘に寝そべったり、コーヒーを飲みながら正面のバルト海をみつめる。打ち寄せる静かなさざ波音と森を流れる梢の音、海に飛び込む子供たちの歓声。1950年代に世界一美しいと言われるこの美術館を設計したヨルゲン・ボーとヴィルヘルム・ヴォラートは、日本の中世の造園家であり画家であった雪舟を知っていたのだと、確信した。
帰宅後は、若松英輔さんのオンライン講座、茨木のり子「詩のこころを読む」の最終回。今日の一日を象徴するような詩に巡り会えた。谷川俊太郎さんが画家のパウルクレーに捧げた詩。以下に抜粋する。
愛 谷川俊太郎 PaulKlee に
いつまでも
そんなにいつまでも
むすばれているのだどこまでも
そんなにどこまでもむすばれているのだ
弱いもののために
愛し合いながらもたちきられているもの
ひとりで生きているもののために
いつまでも
そんなにいつまでも終わらない歌が要るのだ
天と地をあらそわせないために
たちきられたものをもとのつながりに戻すため
ひとりの心をひとびととの心に
塹壕を古い村々に
空を無知な鳥たちに
お伽噺を小さな子らに
蜜を勤勉な蜂たちに
世界を名づけられぬものにかえすため
どこまでも
そんなにどこまでもむすばれている
まるで自ら終わろうとしているように
まるで自ら全いものになろうとするように
神の設計図のようにどこまでも
そんなにいつまでも完成しようとしている
すべてをむすぶために
たちきられているものはひとつもないように
すべてがひとつの名のもとに生き続けられるように
樹がきこりと
少女が血と
窓が恋と
歌がもうひとつの歌と
あらそうことのないように
生きるのに不要なもののひとつもないように
そんなに豊かに
そんなにいつまでもひろがっていくイマージュがある
世界に自らを真似させようと
やさしい目差しでさし招くイマージュがある