デュシャンとポロック vs ケージ

おことわり:最近知って感じた内容を書いていますので、いち素人の感想としてお読みください。その道に詳しい者ではありませんし出典もほとんど覚えてません。解釈違いとかご意見ありましたら是非教えてください。

2人の芸術家と、作曲家についてです

ちょっと前に、絵画や現代アートに興味を持った時期があり、近場の美術館を巡ったり、本を読んだりしていた。その中でデュシャンとポロックという2人の芸術家について知り、「だとしたらジョン・ケージが凄いな」と思ったのでここに書こうと思う。

デュシャン

 1人目、マルセル・デュシャンとは、美術の授業をちゃんと受けていた人なら多分見覚えのある、あの便器の人だ。個人的にはデュシャンは本当にすごい人(特に大ガラス)だと思っているが、本筋ではないので割愛する。
 重要なのは、この人が生み出したレディメイドという概念である。簡単にいうと既製品という意味で、芸術家が作ったものではないということだ。ふつうに考えて芸術というのは芸術家の内面を表現するために何かを「作る」ものだが、デュシャンは「作らなくても」内面を表現できると言い出したのだ。
 なので、あの有名な便器(正しくは「泉」)は、便器を置いて泉と名付けたことでなにかしらを想起させることを試みたのが凄いのではなく(すごいが、)、どちらかというとそれを表現するにあたっての便器をデュシャンが「作らなかった」ことが凄いのだ。実際にその目論見は成功している。既製品だからこそ、むしろリアリティをもって想起されうる。すごい人である。

ポロック

 2人目、ジャクソン・ポロックは、シンプルに画家だ。デュシャンのようにモノをいろいろ使うわけではない。ジャンルとしてはアクションペインティングと呼ばれる、体をいっぱいに使ってでかい絵を「描く」という流派の人らしい。
 この人がそのアクションペインティングで何をやりたいかというと、「描いた」だけのものを作ろうとしたらしい。どこかで聞いた素晴らしい例えを引用させて頂くが、「紙にペンでリンゴを書いて見せると、それはリンゴだと答えると思うが、実際は紙についたインクなのだ」ということだ。ポロックは、「キャンバスについた絵具」以外の何物でもないものを作ろうとした。

この二人を並べてみると、デュシャンは「作っていないもの」を使って「表現」を試み、ポロックは「作ったもの」で「何も表現しない」ことを試みたという風に、対称的に見ることが出来た。すごく面白い。

ジョン・ケージの「0:00」

 「0:00」は、奏者が何かをすればいい作品である。何かとは日常の中で繰り返される行為のことで、特に音楽的な指定はない。加えて「奏者は観客に無頓着であること」という条件があるため日用品を用いた即興演奏とも見なせない。そしてタイトルにあるように、その行為をしている時間の長さも実質的には問われない。何かをある瞬間にしさえすればいいことになる。
 これがなぜ作品として成立しているかというとそれは単にケージがこの作品を「書いた」からだ。(ケージは無音や環境音についての興味からこの『作品』を書いたらしい。個人的にはわざわざ作品として額に入れてしまう方が観念としては騒がしい気がしているが、これは好みの問題だと思う。)
 ケージの試みを先の二人と対比する形で言ってみれば、「作られていない」かつ「何も表現していない」ものを「作った」ということになると思う。とすると、「作った」の定義はさておき、デュシャンとポロックのやったことを同時にやろうとしたということになる。すごい人である。

注:調べてみるとケージはデュシャンを尊敬していたらしい。音楽に偶然性を取り込む試みもデュシャンが先に行っていたらしい。すごい人である。 

音楽以外の形式で「0:00」を考えてみると

 「0:00」が作品として成立しているのは、作曲家という表現者の「楽譜は作るけども実際に表現して観客にとどけるのは演奏者がやる」という微妙な立ち位置による部分が大きいのではないかと思う。そう考えると、例えば演劇などで、上演場所と時間、内容を指定しないというような作品は存在出来る気がする。そうすればあとは、何をもってそれを作品と呼んでいいかという問題になる。

作品とは何か

 日常から任意のシーンを切り取って自分がそれに署名しても、それは自分にとっての作品にしかならない。逆に、だれも署名していない自然物でも作品のように感じられることは多々ある。また、誰かの作品であってもそれが意図しない形で作品のように扱われることもよくあると思う。なので、どちらかというと作品は鑑賞者が定義すると考えた方がいいのかもしれない。
 その上で、創作をするものの一人としては、自分が見出したもの、表現したものには自分の署名があってほしいと思う。ここは芸術家の限界の一つかもしれないと思った。つまり、芸術家として芸術をしようとしている限り、自分がそこに署名するということから逃れられない。そして、誰にも意図されなかったものを自分の作品とすることは出来ないということなのだろう。
 また、鑑賞者による表出(解釈と呼んでもいいのかも)も作品とみなせると思う。というより、むしろ解釈こそ根本的に作品なのかもしれない。いわゆる作品というのは「創作者によって解釈されたもの」であり、創作者は大体の場合それを自分で作るということなのではないかと思う。

まとめ

 デュシャンとポロックにケージを向かい合わせて色々考えた挙句、作品とは何かについての考え方を1つ見出した。また何か考えたら加筆するかもしれない。尚、僕は音楽を「作って」「表現して」「署名したい」側の人間です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?