どうする家康的な生き方
徳川家康は天下を統一してその後260年も続いた政権を打ち立てたからこそ、僕らは「どうする家康」を安心して見ていられるのですが、そうでなければ、あの乱世の生き様は耐えられないですよね。怖くて。
とはいえ、家康のまわりで多くの人が悲惨な目に遭っているから、その意味では、家康が生き延びても諸手を挙げて喜べるようなドラマではありません。
どうする家康を自分に当てはめてどうする?
というわけで「どうする家康」を自分に当てはめて、この令和の乱世をどう生き延びたらよいか考えてみます。
家康 → 自分の中の希望(期待)と不安
家臣 → 自分への問いかけ・叱咤激励・可能性
戦国大名たち → 世の中・不可抗力・自然現象
考えただけでも死にそうになりますが。
果たして、あの頃の家康に勝算はあったのでしょうか?
そして、今の自分に勝算はあるのでしょうか?
無いですね。きっと無いです。
AIに尋ねても、確かな答えは出てきません。
じゃあなぜ生きられるのか?
なぜ不安に押しつぶされて死んでしまわないのか?
失敗して野花の肥やしにならないのか?(肥やしになるならまだ報われるというもの)
やることしか考えない
柳生の人が言ってましたね。たしか。
僕らは、やることしか考えないと。
そうなんですよね。
できるか?できないか?と問われても、はっきり出来るとも出来ないとも言えません。冷静に、客観的になればなるほど、
「出来るかもしれないし、出来ないかもしれない」
っていう答えしか浮かばないはずです。
そんな簡単に判断つくようなことなら、もうすでにやってます。
すでに生きてるか死んでます。
判断できないことがほとんど
世の中には、判断つきかねることがほとんどです。
先を見通して、それが必ずできるという確証を常に持って生きているわけではありません。
たとえば秘境の温泉に行くのに、明日家を出て、明後日か明々後日に温泉に着けるのか?
そこで露天風呂に浸かって「ふぅー!」って言えるのか?
真剣に考えたら、イエスかもしれないしノーかもしれないですよね。
でも、実際にはそんなことで誰も悩まないし、実際、行けちゃうんですよ。
行けないことなんて、10回に1回ぐらいしか無いかもしれない。
僕は昔、スキーによく行きましたが、行けなかった、滑れなかった、宿に泊まれなかったっていうことは、ほとんど無かったです。
1回ぐらいかな?「きょうは雪がないなー」って言って仲間と田舎の遊園地で遊んで帰ってきたことがあった程度です。
猛吹雪でドカ雪の日だって、帰りに高速でスピンしても、帰ってこれました。
駿府に帰りてぇー!
家康だってそんなに周到に考えていたわけでもなくて、「駿府に帰りてぇー!」とか言ってたわけですよ。
家臣を置いといても、帰りたかったらしいし、家臣が立ちふさがれば、斬殺してでも駿府に帰りたかったのですよね。
でも、最終的には、家康は駿府の墓で眠っています。(という説)
言ったとおりになっているんです。
だから僕は悟りました。
僕もこれから毎日「駿府に帰りてぇー」って思うことにします。
そうしたら絶対、駿府に帰れるから。
そのために、やることしか考えない。
どうやったら生き延びられるか、前に進むことしか考えないことにします。