アメリカから名古屋へ
米国駐在も約7年になった。希望して行った米国駐在だったし、仕事もプライベートも充実していた。子供達もアメリカの社会、学校生活にもすっかり馴染んではいるものの、日本語も危うくなっているし、今後日本人として、日本の社会で生活できるようになるのか不安もあった。そろそろ両親の事も心配になってきた事もあり、そろそろ日本に帰任する事も考え、会社にも意向を伝えていた。
そんな時、帰任・異動の辞令がでた。「財団法人日本国際博覧会協会への出向を命ず」。入社以来食料畑を歩み、米国でも食料部門のマネージャーだったので食料本部のどこかに帰れるものと思っていたので、まったく予想外の辞令だった。
しばらく米国に居たので、そもそも日本で万博を開催する予定がある事も知らなかったし、万博といってもピンと来なかった。また名古屋も一度も足を踏み入れた事がなく、「相場が一番安い場所。売れない在庫を叩き売る場所」「都会だけど実態は田舎」というイメージしかなかった。
辞令が出てたら早速「2005年愛知万博」と「名古屋」についてあれこれ調べ始めた。愛知での万博開催に賛否が分かれており、反対勢力も強い事、トヨタグループが中核となって開催の後押しをしている事、開催場所の長久手町は結構名古屋から離れている等々。シベリア凍土の下にあると思われるマンモスを展示の目玉とすべく万博で調査団を派遣し発掘調査を行っているとの事で、私はこのミッションに参加する為に出向するのかとも思えた。と言うのも私はロシア語も堪能だし、ロシア水産物の買付けでロシア極東の都市は殆ど回っているので、ロシア極東の地の利については精通している自負があった。
同じ駐在地にいる他社の駐在員に異動の挨拶回りに行ったが、その時北野アメリカの所長からは彼の体験談を聞いて大いに参考になった。北野アメリカはスキーのジャンプやノルデイック競技で多くの選手を輩出する北野建設のアメリカ法人で彼は長野オリンピック開催の為の運営母体に出向していたとの事。官民も交わり、いろんな企業出身の人達と「オリンピックの成功」という共通の目的の為に同じ職場で働くという経験は非常に貴重だったとの事で、万博協会でもきっといい経験ができるのではという話をされた。それを聞いて万博での仕事への期待も膨らんだ。
名古屋についても全く知識無く、いろいろ情報を集めていたが、ついでに家ではツボイノリオの「やっとかめ、名古屋はええで」という名古屋を特徴を挙げ、自嘲した唄を流していたので、息子はすっかり同じツボイノリオが歌っている「金太の大冒険」にすっかり嵌っていた。