スキゾイド気質は平和主義者のそれであると宣いたい
わたしはそう思うのだ。
スキゾイド的な生き物である私は、他者に期待もしないし他者からの賞賛を求めない。
他人のどんな過去を聞いても「ひく」事がないし、どんな自慢を聞いても「はーすごいですね」としか感じない。
自分と他人を比べることは愚かで、自分の物差しで他人を測ってやれはみ出している、こいつは社会不適合者だと決めつけることも同様だ。
他人に承認されない事はとても楽である。あまり理解されないが、私は透明な存在でいたい。
過去に本を書いたり電子書籍を出したりしたが、すべての名義が別である。
私にとって作品は、その中身の出来が重要であって、作家名なぞはただのラベルにすぎない。
中身が美味しければどんなラベルであるかは関係ない。
私にとっての名前はその程度なのである。
クリエイティブな仲間と知り合い、たまに創作物の話をするとどうにも上述の事が理解されない。
良いものを作りたいのは皆おなじなのだが、彼らの多くは
「良いものを作る=売れる=認知される=お金を稼ぎ=人気者になる」
という理想がある。間違ってはいない。
だが私は「良いものを作る」しか考えない。
だから彼らとはお互い思い思いのクリエイティブを頑張る知人でありつつも、大きな乖離があって分かり合うことができない。
私は自分の作品が、自分の生きているときから亡き後まで特に売れもせず、知る人ぞ知る隠れた嗜みになるのが一番いいと思う。
作者を調べても検索に出てこない、この人の作品が気に入った他にないのかと探しても見つからない。
そういう、見つけた人にだけできる宝探しのような匿名の人でいたいのだ。
私は自分が優れているとアピールすることはない。
どちらかといえば、出来損ないアピールをしがちである。
他人に承認されない事が気楽で、誰かに認められるために誰かを蹴落とすことに虚無を感じるからだ。
自分が自分がという自己アピールは争いを生む。
誰が正しい俺が正しい私が正しい、正義のぶつかり合いは争いに帰結する。
そういう主張のぶつかりは、私にとってどうでもいい。
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