学校の勉強を権利と思えないのはなぜか
※ここでの考察は、内田樹さんの著書「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」(2013)発行:講談社の一部を取り上げ参考にしている(と言うより言い方を変えて言っているだけかも)。
私は「なぜ勉強をするのか?」という問いがなぜ湧き上がってくるのかを知りたい。
この問いは、「なぜ多くの子どもたちにとって勉強は権利ではなく義務として捉えられるのか」と言う問いに置き換えられると思う。
この問いを考える糸口としてさらに逆に考えて、「なぜ世界には勉強することを権利と
して喜んで勉強する子どもがいるのか」と言う問いにもできると思う。
まず勉強する機会を奪われている子どもたちを想像してみる。
勉強する機会を構造的に奪われている子どもの日常とは「労働」であると言える。
貧しい生活のなか、親は長時間過酷な労働をせざるを得ない。
親が長時間いない家庭での労働は子どもが引き受ける。
食事の準備、水汲み、洗濯、育児などがあると想像する。
この状態は思想家の内田樹さんの言葉をお借りすると「子どもの社会的活動への参加は、まず労働主体として自分を立ち上げる」(「下流志向」p.75)状態である。
すごく無理矢理言い換えさせてもらうと他者に「貢献」することが自分の存在価値を担保すると言いうことだと思う。
そう考えると、自分の能力を向上させることができればさらに違う「貢献」ができると感じるのではないだろうか。
こういった環境であると、勉強という機会は子どもたちにとって新しい知見をもたらし今よりもっと広く世界に「貢献」する足がかりとなり自分の存在価値を高めることができると感じるのでないだろうか?こう考えると、純粋に勉強を権利として捉えることができる気持ちも理解できそうだ。
それでは逆に、日本のような経済的に成熟した社会ではどうだろうか?
同じく内田樹さんの言葉をお借りすると「子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している」(「下流志向」p,75)状態と言えます。
つまり「消費」することが自分の存在価値を担保するという感覚です。
「消費主体」になってしまうということは、「労働主体」としては自己を確立できない社会ということになる。
現代の日本では幼児や少年に任せるような「労働」はほぼないと言って良いと思う。
内田樹さんは著書「下流志向」のなかで「むしろ今の子どもに求められているのは、「何もしないこと」です」(p,80)と言っている。
確かに、未就学児に皿洗いなんかをさせたら割らないかハラハラするし自分でやった方が正確で速い。何もしないでいてくれる方が助かる。
つまり、自分の意志で積極的に参加することが許されない状況である。
そんな時、ものを購入するという行為だけは「子どもであること」が関係なしに取引が成立する。(酒などは論外だが、うまい棒が大人じゃないと購入できないなんてことはない)
スマホなどのデジタルデバイス上の行為もその延長線上にあると考えられる。
そうすると、子どもは「消費する」という行為においては比較的自分の意志が通ることを学習し「消費」を通して自分の意志を示し自己を確立していく。
「消費」の本質は「等価交換」でると内田樹さんは「下流志向」で言う。
「等価交換」は「等価」でないといけないから構造上「すでに価値の分かっているもの」しかやり取りされない。
(コンビニでよく分からないものを買わないというように、その価値のわかる弁当や洗剤や雑誌しか買わない)
問題は、「消費」という仕方で自分の存在意義を確立してきた子どもにとって教育というものが与えられた場合だ。
おそらく、「労働主体」の子どもが「教育は成長するための権利」として受容することに対して「消費主体」の子どもは「教育を選ぶ権利」があるとして受容すると考える。
もう少し噛み砕いていく。内田樹さんの考えでは、教室でじっと話を聞くと言う苦しさを「貨幣」として支払う代わりに「教育」を受け取ると言う感覚に子どもはあると言う。つまり、少なくとも教室でも(貨幣が存在しなくても)取引は成立している(と子どもは無意識で感じている)。
買うか、買わないかの権利は自分にある(選ぶ権利がある)と感じていつつも、買いたくないものを無理矢理買わされていると思うから義務に感じてしまう。
子どもの感覚からいうと、商品を「押し売り」されているような状態だ。だから、「なんで勉強するんですか?」と聞いてくる。
(あなたはこのツボを買うべきだ!!って言われたら「なんで!!?」って思うのと同じ)
もう一つ「消費」の特徴がある。それは「時間差が可能な限りない、または無時間であることが理想」であることだ。
レジで商品を出してお金を払って、「明日郵送します」って言われたら「今よこせよ!!」と思いますよね。
これを勉強に当てはめると「すぐ役立つ知識をください」になる。
しかし、勉強と言うものの本質は「意味が遅れてやってくる(必ず時間の経過が必要)」のはず。(これも考察を書こうとしたらかなり長くなるから別の機会で)
つまり、勉強の本質と消費の本質は反対の性質をもつ。
まとめると
なぜ「なぜ勉強するのか」と言う問いが出てくるのかというと
①子どもは「消費主体」であるが故に、勉強を純粋に自己の成長と関連づけることができず押し売りされている商品のように感じている。
②子どもが「消費主体」であるが故に、知識の価値を「実際に役立つか、すぐに役立つか」で判断する。この感覚が本来の学習に必要な姿勢の真逆の姿勢を取とらせてしまっている。
※この2点は子どもだけではない、私もだけど、、、
この2点により、子供からしたら「なぜ勉強するのか」は「なんでそのツボを買わないといけないんですか?」くらい当たり前の問いとして出てくると言うことである。
ここで取り上げた内容は「下流志向」のほんの一部です。この本は、私も何度も読み返している本です。お子さんがおられる方、教育に携わる方は読む価値アリだと思います!!