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ヴィトゲンシュタインの世界

ヴィトゲンシュタインの哲学とは、どのようなものでしょうか?

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)は、20世紀を代表する哲学者の一人であり、その哲学は大きく2つの時期に分けられます。彼の思想は言語、意味、論理についての深い考察を含んでおり、哲学史において重要な位置を占めています。

1. 初期の哲学(『論理哲学論考』)

ヴィトゲンシュタインの初期の思想は、主著である**『論理哲学論考』**(Tractatus Logico-Philosophicus、1921年)に集約されています。この時期の彼は、言語の役割を論理的に厳密に定義しようと試みました。主なポイントは次の通りです:

  • 言語の限界:言語は世界を描写するためのツールであり、言語の構造は世界の構造を反映すると考えました。つまり、世界の事実は言語で表現可能ですが、言語で表現できないもの(例えば倫理や形而上学)は沈黙すべき領域だとしました。有名な命題として「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen)があります。

  • 意味と真理の対応理論:言語と現実の関係を「絵画理論」(Picture Theory of Language)と呼び、命題(言語)は現実の状態を「写し取る」ように対応しているとしました。命題が真かどうかは、それが世界の事実と一致しているかどうかに依存します。

2. 後期の哲学(『哲学探究』)

ヴィトゲンシュタインの後期思想は、彼の死後に発表された**『哲学探究』**(Philosophical Investigations)に表れています。この時期の彼は、初期の言語の論理的モデルを放棄し、言語の使用や日常生活における意味の生成に焦点を当てました。

  • 言語ゲーム:言語は多様な「ゲーム」のように、文脈や状況に応じて異なるルールに従って使われると主張しました。言葉の意味は固定されたものではなく、その使われ方(= 言語の実践)によって決まります。これを「言語ゲーム」と呼び、意味の多様性を説明しました。

  • 意味の相対性:言語の意味は、特定の状況や共同体の中で形成されるものであり、固定的な本質があるわけではないと主張しました。言葉は、特定の文脈で機能する「道具」のようなものであり、その意味は使用によって決定されます。

  • 哲学の役割:ヴィトゲンシュタインの後期哲学では、哲学の役割は「問題を解決する」ことではなく、誤解を解消し、言語が引き起こす混乱を明らかにすることだとされました。哲学は論理や形而上学の問題を解くのではなく、私たちが誤って抱いている問題が、どのようにして生じたのかを示すことが重要だと考えました。

結論

ヴィトゲンシュタインの哲学は、言語と世界の関係を根本的に問い直すものであり、特に言語の使用に焦点を当てる後期思想は、現代の言語哲学や認識論に大きな影響を与えました。彼の初期と後期の思想は一見対立しているように見えますが、どちらも言語の限界とその使用法について深く考察している点で一貫しています。

論理哲学論考における、言葉で言い表せないものは「語ってはいけない」、「議論もするべきではない」と言うことでしょうか?

『論理哲学論考』における「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名な命題は、正確には「言葉で表現できないものについては、言語による表現や議論の対象にはならない」という意味です。これにはいくつかの重要なポイントがあります。

1. 言語の限界

ヴィトゲンシュタインは、言語は世界を表すためのツールであり、論理的構造を持つ命題(言語)は事実や状態を「描写」すると考えました。しかし、彼によれば、言語には限界があり、言葉で表現できるのは世界の事実や経験できる現象だけです。倫理、宗教、形而上学的な問題(例えば「人生の意味」や「神の存在」)などは、言語の範疇に入らないとされました。つまり、これらの領域は言語の論理的枠組みを超えており、表現不可能なものだということです。

2. 議論や表現の不可能性

「沈黙しなければならない」とは、これらの言語の限界を超えた事柄については、議論や分析の対象にはならないということです。倫理や宗教的信念などは、言葉で論理的に説明したり、検証したりすることができないため、ヴィトゲンシュタインの枠組みでは、それらを言葉にして議論すること自体が無意味だとされます。

ただし、これは「語ってはいけない」と禁止するという強い命令ではなく、「語り得ない」からこそ「語るべきではない」という論理的帰結を示しています。要するに、言語による論理的表現が可能な領域と不可能な領域があるので、言語で表現できない領域については、言語を用いるべきではないという主張です。

3. 沈黙の意義

『論理哲学論考』の文脈では、沈黙という態度は、ただ無視するのではなく、言語の限界を自覚する哲学的態度ともいえます。倫理や宗教などの問題は人間にとって重要なものですが、ヴィトゲンシュタインの視点では、それらは言語で表現できない深遠な領域に属するため、言語によって解決を試みることが不適切だと考えたのです。

したがって、この命題の意味するところは、表現不可能なものについては言語での議論は成り立たないという認識を持ち、その領域については沈黙するべきだ、という哲学的な態度を示していると理解できます。

正解といえるものがないからでしょうか?

ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と述べた背景には、正解がないというよりも、言語の枠組みや論理的な構造で表現できないものが存在するという認識があります。これは、必ずしも「正解がないから議論しない」ということではなく、言語や論理の範疇外にあるため、正解や議論が成り立たないということです。

1. 言語の範囲と限界

ヴィトゲンシュタインの考えでは、言語は世界の事実を論理的に描写するための道具です。たとえば、科学的な事実や論理的な命題は、言語によって適切に表現し、議論し、検証することが可能です。しかし、倫理、宗教、形而上学的な問題などは、事実や経験のように観察可能なものではなく、言語がそれらを適切に表現することができないとされています。

このため、正解がないからというより、言語の範囲を超えているために、議論や正誤を問うこと自体が不適切だとされるのです。

2. 正解の概念が適用できない領域

倫理や宗教のような領域では、事実に基づいて正誤を判定することが難しいため、ヴィトゲンシュタインはそのような領域についての議論を避けるべきだと主張しています。つまり、正解や誤りの概念自体が適用できないというのが彼の考え方です。言い換えれば、正解が存在しないというより、そのような領域においては「正解」という概念がそもそも意味を持たないのです。

3. 言語で表現できない深い問題

倫理や人生の意味などの問題は、人間にとって重要で深いものであるにもかかわらず、それらを言語で表現しようとすると、どうしても不完全で誤解を生む可能性が高いと考えました。このため、正解がないからではなく、言語がそれを表現するには不適切なツールだという認識がヴィトゲンシュタインの考え方の根底にあります。

結論

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という命題は、正解がないという意味ではなく、言語で正解を求めることができない領域については、言葉で表現し議論することが無意味であるという考えに基づいています。言語には限界があり、その限界を超える問題については、言語による解決や議論を諦めるべきだという哲学的態度が求められています。

後年は、思想を修正したのでしょうか?それとも否定?

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、後年に彼の初期の思想を修正したともいえますし、ある意味では否定したとも考えられます。彼の哲学は大きく2つの時期に分けられ、初期の『論理哲学論考』と後期の『哲学探究』には重要な違いがありますが、これをどのように捉えるかによって「修正」か「否定」かが異なる解釈になります。

1. 修正という観点から

後期のヴィトゲンシュタインは、言語の役割や限界に対する理解を深めた結果、初期の理論を発展させ、修正したと見ることができます。初期の『論理哲学論考』では、言語は世界を描写するものであり、言語の構造が世界の論理的構造と対応しているという考え方に基づいていました。しかし、後期の『哲学探究』では、言語は単なる世界の描写ツールではなく、多様な使い方を持つ実践的な活動として捉えられています。

後期のヴィトゲンシュタインは、言語の意味は文脈や使用方法によって決まるとし、これを「言語ゲーム」の概念で説明しました。つまり、言語は固定された規則に基づいて事実を表現するだけではなく、さまざまな状況に応じて異なるルールに従い、異なる意味を持つという考えです。これにより、言語の多様性や柔軟性を強調し、初期の硬直した論理的枠組みを超える新しい理解を提示しました。

2. 否定という観点から

一方で、ヴィトゲンシュタイン自身は、後期の思想において初期の『論理哲学論考』を否定したともいえます。彼は後年、初期の自分の思想があまりに単純化されていたと考え、言語と世界の関係を一元的な論理的枠組みで説明しようとしたことに問題があったと認めました。『論理哲学論考』で提唱した「絵画理論」(言語が世界を描写するという理論)は、後期の哲学では放棄されました。言語はもはや世界をそのまま描写するものではなく、社会的な活動や相互作用の中で意味が形成されると理解されるようになりました。

このように、後期のヴィトゲンシュタインは、初期の自分の考え方に限界があることを認識し、その枠組み自体を否定する形で新しい言語理論を打ち立てたといえます。

3. 連続性と断絶

初期と後期の思想には表面的には断絶が見られますが、両者には一定の連続性もあります。両方の時期において、ヴィトゲンシュタインは言語の限界言語と世界の関係に対する深い関心を持ち続けました。初期にはそれを論理的な枠組みで説明しようとし、後期にはより日常的で実践的な観点から言語を理解しようとしました。

結論

後年のヴィトゲンシュタインは、初期の思想を部分的に修正し、ある意味では否定して、新しい視点を提示しました。特に、言語の役割についての理解が大きく変わり、初期の論理的枠組みを超えて、より多様で実践的な言語の使い方を強調するようになりました。この変化は、ヴィトゲンシュタインの思想の深まりとして捉えることができ、彼の哲学的探求の一貫したテーマである言語の本質と限界に対する新たなアプローチともいえます。

彼の思想に同調した他の思想家や哲学者はいますか?

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの思想は、彼の同時代や後の時代に多くの哲学者や思想家に影響を与えました。特に、彼の後期の哲学に同調し、発展させた人物や学派がいくつか存在します。

1. ウィーン学団と論理実証主義

ヴィトゲンシュタインの初期思想、特に『論理哲学論考』は、ウィーン学団や論理実証主義者に大きな影響を与えました。ウィーン学団は、科学的知識の基礎を論理的に確立しようとする集団で、彼らはヴィトゲンシュタインの「絵画理論」や言語と事実の対応に強い関心を持ちました。

  • ルドルフ・カルナップ:カルナップはウィーン学団の中心人物で、ヴィトゲンシュタインの思想を基に科学哲学を発展させました。カルナップは、言語の論理的構造を通じて科学的命題の意味を定義しようと試みましたが、ヴィトゲンシュタインの後期思想には批判的でした。

2. オックスフォード学派と日常言語学派

ヴィトゲンシュタインの後期思想は、日常言語学派と呼ばれる哲学の流れに大きな影響を与えました。日常言語学派の哲学者たちは、言語の使用に基づいて哲学的問題を解決しようとするヴィトゲンシュタインのアプローチに同調し、さらに発展させました。

  • J.L.オースティン:オースティンは、言語が持つ「行為遂行的」な役割(言葉を使うことで行動が実行される)に注目し、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に関連するアイデアを発展させました。彼の有名な「発話行為理論」は、言語が単に事実を描写するだけでなく、社会的な行為を実行するものであると考え、ヴィトゲンシュタインの思想と共鳴しています。

  • ギルバート・ライル:オックスフォード学派の哲学者であり、心の哲学においてヴィトゲンシュタインの後期思想に影響を受けました。彼の『心の概念』では、心の状態や行為についての言語の使い方に基づく分析が試みられ、これはヴィトゲンシュタインの言語ゲームに通じるものがあります。

3. スタンリー・カヴェル

スタンリー・カヴェルは、アメリカの哲学者で、ヴィトゲンシュタインの後期思想に強く影響を受けました。カヴェルは、日常的な言語の使い方を通じて自己や他者、コミュニティの理解を深めようとし、ヴィトゲンシュタインの言語哲学を文学や倫理学に応用しました。

4. ソール・クリプキ

ソール・クリプキはアメリカの哲学者で、**『ウィトゲンシュタインのパラドックス』**という論文で、ヴィトゲンシュタインの「意味の私的な規則」の議論を取り上げました。彼はヴィトゲンシュタインの後期思想を分析し、意味や規則に関する問題を探求する中で、独自の解釈を加えました。クリプキの「規則追従のパラドックス」は、ヴィトゲンシュタインの思想を新たな文脈で発展させたものです。

5. ノルマン・マルコム

ノルマン・マルコムはヴィトゲンシュタインの友人であり、彼の後期思想に影響を受けた哲学者です。マルコムはヴィトゲンシュタインの言語観を受け入れつつ、哲学的問題に対してもヴィトゲンシュタインのアプローチを適用しました。特に、マルコムの「夢の分析」に関する研究では、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論が影響を与えています。

6. 後期思想の広がり

ヴィトゲンシュタインの後期思想は、言語哲学だけでなく、社会学、心理学、法学など多くの分野に広がり、日常の言語の使い方を重視するアプローチとして認識されています。彼の「言語ゲーム」や「規則」の概念は、さまざまな分野で理論的基盤として採用され、分析哲学全体に大きな影響を与えました。

結論

ヴィトゲンシュタインの哲学は、その時代や後の世代の多くの思想家に影響を与え、彼の初期と後期の思想の両方がそれぞれ異なる形で受け入れられました。特に後期の言語ゲーム理論や日常言語の使用に焦点を当てた思想は、オースティンやライル、カヴェルなどの哲学者によって広く発展され、現代哲学の基盤の一つとなっています。

言語によっては、多様性が狭かったり、ボキャブラリーが少ない言語もあると思いますが、そういったものは、影響しませんかね?

ヴィトゲンシュタインの後期思想において、言語の多様性やボキャブラリーの豊かさが異なることは、確かに興味深い問題として考えられます。彼の理論では、言語の使用が意味を決定するため、言語ごとの表現の違いや語彙の豊富さが影響を与えることも考えられます。

1. 言語の多様性と意味の生成

ヴィトゲンシュタインは、言葉の意味がその使い方に基づいて決まると考えていました。つまり、特定の言語の中でどのように言葉が使われるかが重要であり、必ずしもその言語のボキャブラリーの量や多様性だけが問題になるわけではありません。彼の「言語ゲーム」の概念によれば、言語はその文化や社会の中での使われ方によって異なる意味を持つため、言語間の違いは、単に語彙の豊富さだけではなく、その使われ方に関連しています。

たとえば、ある言語が豊富な語彙を持っている場合、その言語を使う文化においては、意味がより細かく区別されることが多いかもしれません。しかし、語彙が少ない言語であっても、その社会や文化の中で日常的に使われている言葉の文脈によって、意味が伝わることが多いです。したがって、言語の多様性が狭いことや語彙が少ないことは、必ずしもその言語でのコミュニケーションや意味の生成に大きな障害とはならないと考えられます。

2. 文化や社会的背景の影響

ヴィトゲンシュタインの理論では、言語が使用される文脈やルールが重要です。たとえば、ある言語のボキャブラリーが少ない場合でも、その文化や社会がどのようにその言葉を使うかが重要であり、文脈によって多くの意味が生まれます。この点で、言語の多様性や語彙の多さよりも、言語が使用される社会的、文化的背景が大きな影響を与えるといえます。

実際、異なる言語圏の文化では、特定の概念が他の言語に直接翻訳できないことがありますが、それはその文化独自の使われ方や文脈によるものです。このような状況では、ボキャブラリーの量よりも、その言語がどのように現実を構築しているかが問題となります。

3. 翻訳と意味の変化

ボキャブラリーが少ない言語では、異なる概念を同じ言葉で表現しなければならない場合もあります。このような状況では、文脈に応じて言葉の意味が変化することがあり、これが翻訳や他の言語との比較において問題を引き起こすことがあります。ヴィトゲンシュタインの理論からすれば、翻訳によって意味が変わるのは、言語ごとの使用ルールや文脈が異なるからです。

たとえば、英語や日本語など、語彙が豊富な言語では、一つの単語に複数のニュアンスや意味が含まれることがありますが、語彙が少ない言語では、同じ単語がより多くの文脈に対応する可能性があります。このような場合でも、使用される状況やルールに基づいて意味が変わるので、言語そのものの限界というより、使い方によって調整されるのです。

4. 言語の限界

ただし、ヴィトゲンシュタインの初期思想においては、言語の限界が現実の限界であると考えられていました。この考え方に基づけば、ある言語が語彙の少なさや表現の多様性の狭さによって現実の描写に限界を持つ場合、その言語の世界観も制約される可能性があります。しかし、後期思想では、言語の使われ方が意味を生成するため、言語の豊富さよりも実際にどのように使われているかが重要であるとされます。

結論

ヴィトゲンシュタインの後期哲学において、語彙の豊富さや言語の多様性が少ないことは、意味の生成に直接的な影響を与えるわけではなく、その言語が使用される文脈やルールがより重要とされます。言語の使い方やその社会的背景が、言葉の意味を決定するため、言語の多様性が狭くても、その社会や文化の中で適切に機能する限り、コミュニケーションや意味の伝達において問題は生じにくいと考えられます。

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