寺田寅彦の随筆を読む① 読書ノート#16
<著作名>数学と語学・科学者とあたま <著者>寺田寅彦 <レーベル>kindle
寺田寅彦という科学者をご存知だろうか。寺田寅彦は、夏目漱石の友人として知られている。漱石の「吾輩は猫である」の水島寒月のモデルとしても知られている。また、「天災は忘れた頃にやってくる」と発言した人として有名である。
実は、寺田さんの随筆は科学好きにはたまらないほど興味深い。今後も何作品か読んでいくつもりだ。著作権が切れ、青空文庫で読むことができる。非常に短いので、読みやすい。
今日は2作品読んだ。
<数学と語学>
私は大学で英語を学ぶのだが、そもそも英語に興味を持ち始めたのは高校生になってからだ。関正生先生という先生に出会ってからだ。関先生はよく授業の中で、数学はやっておけと繰り返しおっしゃていたのを「数学と語学」を読んで思い出した。
寺田氏がこの随筆を書いたのは、数学を苦手とし語学を得意とする者、数学を得意とし語学を苦手とする者へどちらも同じ性質のものであるのを想起させるためだと言及している。
しかし、この作品から得ることの出来る教訓として、想起させるのみならず、「その好きなものに対する方法を利用してそのきらいなものを征服する道程」を見つけ出し自分の中でものにすることが一番重要かと思われる。
そこから見出せるのは、「何度も繰り返しやり、そのことに身をひたす」ことだろうか。
語学を修得するにまず単語を覚え文法を覚えなければならない。しかしただそれを一通り理解し暗記しただけでは自分で話す事もできなければ文章も書けない。長い修練によってそれをすっかり体得した上で、始めて自分自身の考えを運ぶ道具にする事ができる。
数学も英語も長い修練と忍耐が大切なのだと教わった。
以下、私の心に残った箇所を引用しておく。
・数学も実はやはり一種の語学のようなものである
・言語はわれわれの話をするための道具であるが、またむしろ考えるための道具である。言語なしに「考える」ことはできそうもない。
・数学の学習と語学の学習とは方法の上でかなり 似通った 要訣 があるようである。
・飽きずに急がずに長く時間をかける事が、少なくとも「必要条件」の一つである。
・あらゆる自然科学は結局記載の学問である。数学的解析は実にその数学的記載に使われるもっとも便利な国語である。しかしこの言語では記載されなくても他の言語で記載さるべき興味ある有益なる現象は数限りもなくある。 あまり道具を尊重し過ぎて本然の目的を忘れるのは有りがちな事であるから、これもよく考えてみなければならない。
<科学者とあたま>
科学者は頭が良いと同時に悪くなくてはいけないという無茶ぶり。作品中には、科学だけではなく、全ての学問や研究に通じるような箇所があった。
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常 茶飯事 の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその 闡明 に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要 必須 なことである。
当たり前だと思われていることでも、疑ってその謎を解くために頭を使えということか。
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。
自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の 扉 を開いて見せるからである。
科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる 迂愚者 の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。