見出し画像

挑戦して悔いる人生のほうがかっこいい

宙ぶらりん男、次の挑戦ー地に足はつくのか、つかないのかー

近況と雑感Ⅰ

 半年の留学は終わった。これは間違いなく私がやりたかったことであり、死ぬまでにできたことに満足している。俺は一体どれだけ馬鹿なのかと思い詰めることもあったがしかし、予定どうり持ち前の禁欲主義(ケチさ)と、貴重な日々を味わうバランスが取れたのではないかと振り返って思う。若気の至りや若者のいい意味で向こうみずなところは経験することなく年を重ねてきてしまったが、すべてはあの半年のためだったのだろう。
 さて、帰ってきて特大のヘルペスが私の外見をアナゴさんにしたり、花粉症がついに発症したのに気づかず目と鼻の調子がずっと悪いのを言い訳にうだうだしているうちに帰国から一月が経った。もうなにをして食っていくつもりなのか、地に足つけて考えねばならない齢である。

近況と雑感Ⅱ

 帰国後あいさつ回りで親戚に会ったときに感じたのは、やはり海外に興味をもち、実行にまで移すことが許されるのはとてつもなく恵まれたことだということである。私のいとこたちは全員女子なのだが、資格を取るために学校へ行くことを検討したり、行っていたり、すでに卒業して資格をそつなくとり、働いているものもいる。彼女ら自身も、またその親も、誰一人として海外に興味はない。むしろ逆に、そういった可能性の芽をなるべく娘から排除するべく叔母たちが動いているのだということをまざまざと見せつけられた。彼女たちに悪意はないのかもしれないが、私の見聞録は必要とされなかったし、わざわざ北米に行ってさっき帰ってきた人の前で、その人がやってきたことを婉曲ではあれ全否定しなくてもいいのにな。と、「なんだかなあ」が募った会であった。
 渡航前の記事で私は、自身の好奇心に反して実生活における海外との接点のなさを嘆いている旨のことを書いたが、それでも「行かせてくれた」ということにもっと感謝せねばならないだろう。欲しがればきりがないし、私は残念ながら、貴族や資本家の子どもに生まれてなんぼのものばかり欲しがる強欲な奴だ。履いている下駄に気づこうともしない、はたまた開き直ったり、理想と自身のギャップで足元の見えていないクズにならないよう、今後も謙虚に生きていこう。より具体的には、もっと風呂洗いと掃除、洗濯、米の精米と炊飯、料理をしていこう。(今できる恩返しのスケールが小さくて申し訳ない、、、) 

カナダ、トロントへ行った総括

良かったぞ、トロント

 最初の記事を読んだひとには分かっていることかもしれないが、私は4つの目標を掲げて渡航した。それは以下のようなものであった。これを一つ一つ振り返っていきたい。

①マイノリティとしての自身や周囲の外国人の扱われ方を感じ取る。

 あの街では、マジョリティを見かけで探すことはとても困難だ。宗教的な見た目も、人種も、イデオロギーも世界各地から混ざり込み、一つの多文化共生の在り方を見せつけられた。ただひとつ欠けていたのは先住民たちの姿であり、彼らのアートや文化的に重要な土地は最大限敬意を払われているように思われたが、生活している彼らを見ることはほとんどなかった。
 肌の色に基づく差別は意味を成さないほどにホワイトカラーにもブルーカラーにも、ホームレスの人々の間にも多様性がみられ、これを達成したカナダ人には敬意がわいた。公共の場で見回せばあらゆるルーツの人がいるというのは私の信念において望ましく、またそのような社会は実現可能であるということを教えられた。
 具体的に見えた政府のたゆまぬ努力として、移民のハードルの相対的な低さと、図書館の、英語運用能力の向上のための豊富な「第二外国語としての英語」の棚たち書籍たちや、イベント、サービスがある。国家としてのよそ者や社会的弱者への寛容さがありありと映しだされており、予算がそういった分野にきちんとたくさん分配されているのだろうなと滞在中いくどとなく思った。
 ウクライナ移民の多さも反映して、ウクライナの国旗は乗用車から公的施設まであらゆるところで見たし、主要地下鉄駅の上の大きな交差点では毎日国旗をもって反戦を訴えている人がいて、日常に、はるか遠くの東欧の戦争がつながってくる感覚がよかった。

 余談で、性的マイノリティの社会への溶け込み具合への感想を付け加えると、世界最大規模のPride イベントの期間であった6月には、街中のあらゆる施設がLGBTQ+アライであることを建物の外面で表明していたのは素晴らしかった。小学校やキリスト教会も虹色のフラグを掲げており、議論が相当市民の間で進んでいるのだろうなと感じた。 

②クラシックロック、ハードコアパンク好きの友人を作る

 もっとライブに行くべきだったのかもしれないというのは一つの後悔である。(プロのコンサートに行ったのは計4回)いまのカナダの音楽産業はロックダウンによる禁止から急激に揺り戻しが起こっている最中であり、多くの北米ツアーをする著名ミュージシャンはトロントでも演奏をした。
 しかし、問題だったのはチケットの高騰である。円安とのダブルパンチで、私もポンポン行けるわけがないし、友人を誘うのはなおさら気が引けた。残念なほどロックファンがいなかったことは脇におくとしてもだ。
 だが、Built To Spill (俺の中ではBTSと言えばこれである)のライブでは隣に立っていた元バンドマンのカナダ人のおっちゃんとえんえんとしゃべって名刺をもらい、インスタ(始めててよかった)でやりとりできたので、達成できたとしよう。

③国際的に有効な英語の試験で、使い物になる点数を取れるまでの道のりを  想像できるようになる

 基本的にガリ勉になっていたのはIELTSのためであったが、高めのハードルを設定して、低いほうの現実的なハードルは超えられた、というところで終わった。あと一歩、そのために時間を使いたいが、そううまくいくのかどうかかなり怪しいし、一旦試験のための英語から離れてもっと手広く勉強をすることが遠回りに目標達成になるということも薄々感じており、そっちをやっている。私の忌み嫌う、「遊んできただけの人」にならないようにはできた自信があるので、まあ良しとしよう。

④日本を相対化する視点を自身の主観的経験として持つ

 日本との違いを感じたことを①で既出のものを除き3点に絞って述べると、気候が違う、公共交通機関が違う、コロナ対応が違う、というところになる。
 気候に関しては、春夏秋トロントはすこぶる過ごしやすかった。なんでヘッドホンの需要が北米やヨーロッパの主要都市で高いのか甚だ疑問だったが、そら「寒いから耳当て欲しいなー」「音楽聴きたいなー(トロントでは地下鉄は圏外になるのでネットが死ぬ)」とくれば、最適解はおのずとヘッドホンになるだろうという気づきも得た。郊外の空気のきれいさと朝の爽やかさは例えようがなく完璧であり、アジアの夏の湿度、温度は高すぎることをはじめて理解した。
 反論は受け付けないが、公共交通機関について文句をいくらか言わせてもらうと、アメリカもトロントも、公共交通機関の座席がチープすぎて苦痛。なんで日本の方が座席が広くてフカフカなの?これらを採用した公共交通機関の会社にはアホしかいないの?韓国は地下鉄で、駅だけじゃなく乗っている間も無料Wi-Fi使えるよ?技術絶対あるのになんでしないの?無賃乗車して危ないことする人、多くない?えぐい話聞いたし、見たよ?ホームドアの設置とかの対策、絶対今すぐとったほうがいいのになぜとらないの?というところで勘弁してやろう。ほんとは言いたいことがもっともっとある。
 コロナ対応に関しては、ロックダウンの段階的緩和とぶり返し、安定の中で生きた体感として、バランスのよさが際立っていたように思う。それは私のよそ者属性がそう勘違いさせたのかもしれないが、外食含む娯楽、観光、日常生活すべてにおいて、対処がいき過ぎず早すぎず、絶妙だった。日本ではいまだどこにいても何をするにしても、家を一歩でればマスクをしないといけない空気がある。みんなが空気で動いている。それが家にいる理由の2割を占めている。(3割が目的地が遠い、4割が外暑すぎ、1割は猫)

知ったかぶりアメリカ合衆国

資本主義の極北にして、手本にするには異常な点だらけの国

 シカゴとニューヨークは、かっこよかった。トロントは自然と大都市のバランスがとれた住みやすい街であったが、それはつまり、極端さが生むエクストリームな見どころが薄い、相対的にぬるい街であることも意味する。この点、アメリカの大都市はネタに事欠かなかった。極端がゆえに手の施しようがない大きな問題点を抱えていることは訪れる前から知っていたが、よそ者からすればそれもまた興味深かった。梅田や難波を歩いても、あの高揚や殺伐さを感じることはない。それはやはり、街の雰囲気が違うことが原因だと考えられる。つらつらと「ニューヨークはさ、○○だから~」みたいな、ちょっと行っただけのやつがしがちな、雰囲気「アメリカ知ってます」トークはいくらでもできるので、聞きたい人は電話かけるなりオラオラ話しかけるなりしてくれると、気持ちよくしゃべります。

夜景比較コーナー

シカゴの夜。摩天楼がマフィアの雰囲気を醸し出し、威圧してくるようだった。かっこいい。
トロントアイランドからの眺め。色とりどりのビルの明かりがおだやかな湖面にきれいに反射し、くつろぎを与える。
エンパイアステートビルからの眺望。人生でみた夜景で今のところぶっちぎりの一位。美しいと同時に、日本以外で深夜12時過ぎにこんなに働いている人がいるという恐怖も感じられる一枚。

かっこいい人とは誰か

 とにかく、私の欧米への憧れの夢は一旦、第一章が終わったと言える。いま急いでせねばならないことは、私の人生をもう一度、大まかに方向づけることであり、かつての自分のようにくすぶる人を勇気づけることである。
 私をあのかけがえのない半年に導いたあらゆる後押しに気づけるようになることが、母国を「何かを学ぶため」に自ら出ていった人たち全員が得ねばならない気づきの力だ。そしてそこに気づけたのなら、帰ってきた者は成果を社会に還元せねばならない。(私は大規模私立文系大学学部の学士号所得自体ももっとありがたがらなければならないと考えている)
 ただ見せかけの謙虚さに生きる自意識の肥大したつまらない人には、この先、お金がなくても時間がなくてもなりたくない。僕がそうなっていたら怒ってください。

私たちが誰かであることができるようになるそのプロセスは、「見えなかったものが見えるようになる」プロセスとして理解可能だ

高井ゆとり,2022,『ハイデガー 世界内存在を生きる』講談社:p.88

お金の話(私が誰かを知っている場合、変に気をつかわない人だけ読んでね!)

 まず初めに、私は安定した中産階級の親の子どもで、ありがたいことに親から留学資金は借りれた。これは本当に感謝してもしきれないことだと思う。その中で、語学学校代、留学エージェント代、飛行機チケット、ビザ発給代、ホームステイ費用などなど、観光以外で使ったお金でいうと240万円ほど使った。なんという贅沢だろう!せっせと貯めた中学時代からのお年玉や、コロナ禍でGo To Travelに一度も行かず(誘われず?笑)に貯めたバイト代はいとも簡単に消えてしまった上に、今は160万円の借金がある。しかし、円安での損失金額をもってしても、時間は買えない!
 円安や物価高騰の影響もあり、想定よりも固定生活費がかかってしまった。激円安下でのアメリカ観光は、クレカの利用明細を見ると何も楽しめなくなりそうだったので見ないことにしていた。というかSIMカードの契約をしなかったのでスマホを外で使えなかった。特にニューヨークは異次元に金のかかる街だった。しかし、円安での損失金額をもってしても、時間は買えない!
 誕生日をニューヨークで一人、Madison Square Parkでハンバーガーを食べて過ごしたのも、いい思い出である。年金(国家規模の詐欺でないことを祈る)と借金でバイト代は今後塵も残らないだろうし、働きはじめても金遣いは渋いままだろうが、残りの大学生活は、高給取りになることを目指して動いていくつもりである。

私の20代のテーマソング

 終わりに、向こうで繰り返し繰り返し頭の中に流れていた大好きな曲の歌詞を引用して筆を置く。

Sailin' heart ships through broken harbors
Out on the waves in the night
Still the searcher must ride the dark horse
Racing alone in his fright

Tell me why
Tell me why
Is it hard to make arrangements with yourself
When you're old enough to repay
But young enough to sell?

Neil Young-「Tell me why」 from 『After the Gold Rush』 1970