「分断された」私達、「再び繫がる」恐さ
「どんな物語もまずナルシズムから始まらないといけない。
物語はそのナルシズムを描くからポルノグラフィックになる。鍵穴から自分の人生をもう一遍みてみるということ、自分の人生の見せたくない部分から始まるというのが物語なんですよ。
だからすべての物語はポルノグラフィックであると思う。」
最近、推しYoutuberがいる。
上につらつらと書いたのはその推しの言葉。この5文だけでも1時間くらい咀嚼できてしまう。
その推しYoutuberというのは名越康文さんという精神科医で、ライブドアニュースが配信しているゲームさんぽというゲーム実況企画で知ったYoutuberである。
ついでに、この「ゲームさんぽ」というのは"その分野の専門家にゲームを解説してもらいながら実況する"というとてもユニークな企画番組で、他にもこんな番組を配信している。推し企画。
最近よかった動画の批評
という感じでゲーム実況をみていたら、
推しが今日もグサッとくる言葉を言っていたので少し留めたい。
この記事がエッセイなのかただのファンブログなのかはわからない。一般的な"ゲームの"実況ではないため、いきなりCOVID-19や心理学の話が始まります。
今回はデス・ストライディングというゲームの実況で、登場人物の心理状態をとうとうと語るスタイルである。面白い。
このゲームはそこまで詳しくないのだが、このYahoo記事によると繫がりを意識したあたたかいゲームとの評判らしい(雑)。
今回みたのはこの動画。簡単に流れをさらうと、主人公が愛している人に世界を救ってくれとお願いされる回である(再度、雑)。
動画中盤、主人公=サムと幼少の頃からの知合いであるアメリ(サムネの女の人)は、サムに「世界を救ってくれ」と頼み込む。
そしてサムは葛藤しながらも引き受ける。それをただの「葛藤」で片づけず、動画内で話はCOVID-19での価値観の転換に発展していく。
COVID-19による分断と繋がり
「予言的なゲーム。繋がる恐怖と繋がれない孤独の恐怖が拮抗している世界、今がそうじゃない? 3密的な誰にでもわかる唯物論的な繫がりだけではなく、繋がること自体に対する潜在的恐怖、その両方がある。
繋がれないということは繋がるときに起こる恐怖でもある。
その奥にはやっぱり、圧倒的な他者というもののわからなさがあって。一度引き離されると戻れないのではという不安が世に満ちているのは、潜在的な他者に対する不信感のようなものが出てきている。」
(動画より要約、以下同様)
主人公サムの葛藤を「繋がることへの恐怖」と捉えた上で、現在の情勢にも同様のものがみられるという。そして、COVID-19以前の人々の繫がりを、道具化と言い換え次のように語る。
「これまで『繋がる』とは何かの役割を演じる『繫がり』だった。アメリは会いたいというけど、会いたいのではなく、"あなたの目的を遂行して私を救ってください"という目的でしょ。
COVID-19以前の僕らもそうだった。僕たちが繋がるというのはお互いの役割があって、その役割を遂行して何かお金を稼ぐとかミッションを遂行するための繫がりであって。マルクスが言ってた道具化ですよね。だから、自己疎外ですよね。
だから、繋がるってことがイコール自己疎外。繫がりたいけれど自己疎外されるっていう。相手にとって自分が道具化してしまうというね。その葛藤に彼はいるわけでしょう。」
繋がりは、同時に人を道具として存在させ、道具化は自己疎外を生み出す(参考:人間・労働疎外の問題と適正技術)。自己疎外とは妙な表現である一方、感覚としても納得できる。
私自身は、コロナと全く無関係に環境が変化したことと、緊急事態宣言中に時間のできた人が話相手になってくれたので、むしろコロナ下でも生活に違和感があまりない。(医療を学んできた身としても、これまではごく一部の場所でしか見られなかった現象が可視化された、そんな印象。)
だから人々の価値観がどの程度、コロナによって変化したのかを知るのは難しい。その上でも上記で引用した内容については理解でき、仮に今回の情勢で同じような意識を持つようになったものがいるのなら、そこにはCOVID-19以前も含めた環境要因で共通する部分があるのだろうと推測できる。
人間の道具化、抵抗する「私」
主人公のサムは以前アメリから"お守り"としての首飾りを与えられ、彼女を愛していた。一方で、アメリがサムを利用しようとしているように感じる。
その前提の上で、COVID-19からこの物語のキーである二人の話に移る。
「自分が愛する人、慕っている人、憧れの人を救いに行くことは、サムにとって『本当のつながり』を失うことになるかもしれない。お守りなんて無価値でしょ。その物質的に無価値なものと繋がっているということは、ある意味最も価値があるもの。なぜかと言えば、交換不可能なものだから。
交換不可能な信頼(お守り)というものでつながっていたから、そこには真の愛があった。けれどこの二人の絆は道具化されていっている。だからすごく葛藤がある。」
今の社会は、繫がりが分断されたことで(たとえ一部分でも)道具化から解放されている。しかしそれは永続的ではなく、そこに元の関係に戻れるのかという恐怖がある。そこに『信頼で結ばれた二者の関係』が重なり合う。
正直、このあたりからどんどんグサる。この『本当のつながり』的なものが理解できてしまう。他者というもののわからなさがあっても、そのわからなさを良くも捉えることができるから。
だからこそ、満足できるからこそ繋がりを躊躇ってしまうときがある。
自身が明確に道具化され、自らを忘れることを恐れる。仮に役割に入れたとして、その役目を果たせなかった場合に失われる信頼を嫌がってしまう。想いが強固であればあるほど余計に。
一方でまた、相手を道具化してしまうのではないかと躊躇うときもある。
押し付けるつもりはなくとも、相手がなんらかの強要を感じてしまえばそれは道具化と同質のものとなる。むしろ、自己を確立すればするほどそのリスクは増えていくのかもしれない。
特に前職を辞めてから数カ月、私は心許ない日々を送った。
その根底にあるのは道具化への抵抗心だったと思う。私が「信頼」を取り戻したいと思ったとき、私は道具化に慣れすぎていた。
私には人生で一度、自己について知る時間が必要だった(つまり引きこもり生活に突入し、どことも長期的な契約を結ばなかった)。しかし、本来的にどこにも属さない、道具化に答えないというのは、意外に忍耐がいる。
誰からも強制されないが、どこにも芯から貢献ができない。属したい気持ちや想いがあるから余計に、盲目的な積極性を持てないことがつらい。なぜなら積極性のない人間を、道具として使ってくれるものはほぼいないからだ。
本当は汲み取りたかった。道具化にありふれたこの世界で、抵抗し続ければそれだけ傷がついてしまう。
繋がることと自己の拡張
確立された「私」とその繫がりへの希求行動。
この欲求は不可視なために自己満の世界にあり、ただ、私はそれ以上に必要だと思った。その判断が正しかったのかはまだわからない。
でも、もしかしたら「私」だけではなく、今この時代に生きる人々も同じように悩んでいるのだろうか。変化したのではなく、拡張した自己。かつての自分を保ったまま、それでも以前とは異なってしまう自分。
それに一体何の意味があったのか。戻れば「私」を待っていてくれる人は、どれだけいるのだろうか。知ることが、たしかに怖い。
人間に履かれるために作られた靴が「履くな」と言い出せば、それは人間を道具化していることになるのだろうか。「私」はそうした躊躇いの中で、いつも何が一番"ちょうどよくなる"のかについて考え込んでしまう。
「僕たちは今COVID-19によって分かたれてるけれど、再び互いを道具化する繫がりに戻るのかという恐怖を、COVID-19の前から陰影として感じている。これを見ることで僕たちの現状が見えてくる。
『繫がり』とは何なのか。そうした葛藤が、絶えずこの二人の会話にもあるよね。この二人の間には交換不可能な愛があったけれど、交換可能な信頼関係に完全に変化している。その時に、彼女との関係性の変化により、彼はずっと葛藤を抱えてきている。」
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