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秦氏ゆかりの神社・仏閣1:広隆寺(太秦寺)

秦氏は、日本への渡来氏族の中では最大です。
日本の文化、経済、宗教、技術、政治などに大きく影響を与えました。

秦氏を調査することは、日本の文化、経済、宗教などの調査にもなります。

このシリーズでは、秦氏ゆかりの神社・仏閣を参拝し、どの様なゆかりがあったのかを調査します。
第1回目は、京都市の太秦に位置する広隆寺(太秦寺)を参拝します。


1.広隆寺の位置

Δ写真1.広隆寺楼門

広隆寺は、京都府京都市右京区太秦蜂岡町にあります

アクセスとしては、
 ・JR山陰線「太秦」駅下車、徒歩約13分
 ・嵐電「太秦広隆寺」駅、下車、徒歩約1分
 ・京都市バス「太秦広隆寺前」下車、徒歩約1分
 ・京都バス「太秦広隆寺前」下車、徒歩約1分
となります。

Δ図1.広隆寺位置図
Δ図2.広隆寺位置図

2.広隆寺の沿革

Δ写真2.航空写真

広隆寺は、推古天皇11年(603年)に建立された山城最古の寺院です。
聖徳太子建立の日本七大寺の一つです。
寺の名称は、古くは
 ・蜂岡寺(はちおかでら) 
 ・秦公寺(はたのきみでら)
 ・太秦寺(うずまさでら)
などと言われました。
今日では一般に広隆寺と呼ばれたいます。

広隆寺の成立について日本書紀によりますと、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、それをご本尊として建立したとあります。
そのご本尊が現存する弥勒菩薩であることが、広隆寺資材交替実録帳を見ますと明らかです。

3.弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)国宝第1号

図3.弥勒菩薩半跏思惟像

3-1.弥勒菩薩とは?

弥勒菩薩は、須弥山(しゅみせん)の弥勒浄土といわれている兜率天(とそつてん)にて菩薩の行につとめられ、諸天に説法し、お釈迦様にかわって全ての悩み、苦しみをお救いくださり、正しい道へとお導きくださる慈悲の仏です。

3-2.日本書紀での記録

大和岩雄著「秦氏の研究」に、弥勒菩薩半跏思惟像の経緯が記されていますので引用します。

弥勒信仰は新羅仏教の特色の一つだが、公式の新羅仏教が飛鳥の宮廷に入ったのは、推古朝である。
「日本書紀」の推古天皇11年(603年)11月1日条に、

 皇太子、諸の大夫に語りて日(のたま)はく。
「我、尊き仏像有(たも)てり。
誰か是の像を得て恭拜(いかびまつ)らむ」とのたまふ。
時に秦造河勝すすみて曰はく。
「臣、拜(をが)みまつらむ」といふ。
便(すで)に仏像を受く。
因りて蜂岡寺を造る。

とある。
この仏像は、広隆寺(蜂岡寺)の本尊の弥勒半跏思惟像で、新羅使が聖徳太子に贈ったものだが、新羅仏が秦氏の氏寺の本尊になっていることからみても、豊前(現:大分県)の秦氏の国(秦王国)の仏教が弥勒信仰を重視する新羅仏教であることが確かめられる。
 当時、大和政権の都のあった大和飛鳥の仏教は、公伝の百済仏教であった。
この百済仏教に対し、新羅仏教を公式に入れたのは、聖徳太子と太子の寵臣の秦河勝である。

「秦氏の研究」大和岩雄著(大和書房)

4.秦氏の功績

秦氏族が大勢で日本に渡来したのは日本書紀によりますと、第15代応神天皇16年で、主は養蚕機織(ようさんはたおり)です。
その他に大陸や半島の先進文化を我が国に輸入することにも努め農耕、醸酒等、当時の地方産業発達に貢献しました。

我が国に大陸文化を移し産業と文化の発達の源流・経済の中心ともなった太秦の広隆寺は、
 ・衆生済度の道の探求
 ・仏法への絶対的な帰依?
 ・平和な世界を目指した慈悲の権化(和を以て貴しとなす)
である聖徳太子の理想の実現に尽力した秦氏の功業を伝える最も重要な遺跡です。
信仰と芸術の美しい調和と民族の貴い融和協調とを如実に語る日本文化の一大宝庫です。

5.広隆寺の建筑物

広隆寺の主な建築物を案内します。

5-1.広隆寺案内図

Δ図4.広隆寺案内図

5-2.講堂(重要文化財)

Δ写真3.広隆寺講堂

講堂は永万元年(1165年)に再建された京洛最古の建物で、俗に赤堂といいます。
中央に西方極楽浄土で説法をされている印を結ぶ
 ・阿弥陀如来坐像(国宝)
 ・地蔵菩薩坐像(重要文化財)
 ・虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)
を祀ります。

5-3.上宮王院太子殿

Δ写真4.上宮王院太子殿

享保15年(1730年)に再建された入母屋造の堂です。
本尊に聖徳太子を祀ります。
太子尊像には、太子の偉徳功業を景仰せられる歴代天皇が、即位大礼にご着用の黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)のご束帯が即位後贈進されて各天皇御一代を通じてお召しになる慣わしです。

5-4.新霊宝殿

Δ写真5.新霊宝殿

飛鳥時代の弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)をはじめ、天平・弘仁・貞観・藤原・鎌倉と各時代の仏像を祀っています。

6.「十善戒」と「モーセの十戒」

Δ写真6.「十善戒」

旧霊宝殿の前に、「十善戒」が案内されています。(写真6)
「モーセの十戒」は、旧約聖書の「出エジプト記」に記されています。
その内容がよく似ています。

6-1.十善戒(十の善き戒め)

十善戒の内容は、下記の通りです。

  • 不殺生(ふせっしょう):生きものを殺しません

  • 不偸盗(ふちゅうとう):ものを盗みません

  • 不邪淫(ふじゃいん):みだらな男女の関係をしません

  • 不妄語(ふもうご):うそいつわりを言いません

  • 不綺語(ふきご):たわごとを言いません

  • 不悪口(ふあっく):人の悪口を言いません。

  • 不両舌(ふりょうぜつ):二枚舌をつかいません

  • 不慳貪(ふけんどん):ものをおしみ貪りません

  • 不瞋恚(ふしんに):いかりにくむことをしません

  • 不邪見(ふじゃけん):間違った考え方をしません

6-2.モーセの十戒

「モーセの十戒」神がイスラエルのリーダーであるモーセに与えた10の決まりごとです。
内容は下記の通りです。

  • 主が唯一の神であること

  • 偶像を作ってはならないこと

  • 神の名をみだりに唱えてはならないこと

  • 安息日を守ること

  • 父母を敬うこと

  • 殺人をしてはいけないこと

  • 姦淫をしてはいけないこと

  • 盗んではいけないこと

  • 隣人について偽証してはいけないこと

  • 隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと

「モーセの十戒」は、イスラエルが神の選民として正しい歩みをし、他の異邦人のように愚かな歩みをしないために与えられた戒めです。

6-3.秦氏を通して「モーセの十戒」が伝わったか?

旧約聖書に記されている内容ですが、ユダヤ民族12部族は
 ・北朝イスラエル10部族
 ・南朝ユダ2部族
に分裂しました。

北朝イスラエルは「失われた10部族」として記されています。
その一部が、シルクロードを東へ向かいながら秦氏を通して中国、朝鮮半島、日本に入り、神道を形成したという説があります。

古事記・日本書紀には、応神天皇(第15代)の御世に秦造の祖渡来と記されています。
仁徳天皇(第16代)の御世には、秦氏に茨田の堤(河内)の改修工事を命じています。
旧約聖書・新約聖書の内容は、遅くとも6~7世紀には日本国内に入っていたものと思われます。

7.まとめ

秦氏ゆかりの寺院として、広隆寺を紹介しました。
聖徳太子(厩戸皇子)の参謀として活躍した秦河勝ゆかりの寺院でもあります。

弥勒菩薩半跏思惟像には魅せられましたが、それ以上に驚いたのは、「十善戒」と「モーセの十戒」がよく似ていることです。

これらのことがきっかけとなり、
 ・歴代天皇
 ・秦氏、秦の民
 ・ユダヤ民族、北朝イスラエル
 ・古事記、日本書紀
 ・旧約聖書、新約聖書
 ・古神道
 ・ユダヤ教、キリスト教、景教
 ・シルクロード
 ・民族のDNA
を調べてみることにしました。

上記の解説本を読みますと、様々なことがわかってきました。
判明したことは、追々記事にしていくつもりです。

Δ図5.広隆寺御朱印


8.筆者プロフィール

9.有限会社エクセイト研究所


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