「合理性」を巡る読書
今日は読書日記。普段は読み終えた本の感想を書くことが多いですが、今日は初っ端しか読んでない段階で語っちゃいます。
さて、最近、この本を読み始めました。社会学者の渡邉雅子氏による『「論理的思考」の文化的基盤』。
江草オタク(?)の方がもしいらっしゃったら、お気づきかもしれません。こちら、こないだ紹介した積読本リストに入ってた一冊です。
ついに読み始めました。
晴れてこの本が積読解除されたきっかけは、なかなか俗っぽいのですが、この本がいつの間にかKindle Unlimited対象になってたことです。
そう、江草はわざわざ定価で買ったというのにまさかのサブスク対象に。この本けっこう高かったんすよ。4950円ですよ。ぶっちゃけKindle Unlimitedの月額(980円)の方が安い。たとえKindle Unlimitedでこの本1冊だけ読んだとしても4ヶ月以内に読めば元が取れる計算です。
この事実に気づき、なんてこった、オーマイゴッシュ、悔しい、ぐおおっ、となって、こりゃせめて読んでやらないと落ち着かねえと、ついに読み始めたわけです。なんとも小物臭のある残念な感じのきっかけですが、ともかくも読み始めました。
しかし、巷でけっこう評判になってた本だけあって、いきなり面白いです。一般的には普遍の原理とみなされてる「合理性」が実は文化によって異なるということを示したアカデミックな固い本です。
実際、「合理性」が文化によって違うって言われると、けっこう衝撃じゃないですか?まだ冒頭なので、詳細な論証の本番はこれからなんですが、序章だけでも興味深くてワクワクが止まりません。
たとえば、本書では日本人が英語圏に留学した時に英語能力は申し分なくても小論文の課題などで「評価不能」として返ってくる例が紹介されてます。
「評価不能」だったのが、これが当地の論理の「お作法」を教えるとたちまちAランクになったりする。
ここに、言語能力とはまた違う「合理性」そのものの文化的差異があるのではないか、という疑いが持ち上がるわけです。いやあ、面白い切り口ですよね。
たとえば、こちらはあくまで著者の渡邉の見解ではなく、 先行研究として応用言語学者ロバート・カプランの研究を紹介した一節ですが、このように言語圏によって論理展開の構造が異なってくると。
「東洋は渦巻きのように遠回りしながら間接的に主題に近づく展開」。なんか、日本人だからか確かにすごーく腑に落ちる感覚があります。
実際、江草個人的にもこうした「合理性」の感覚について違和感を覚えた経験があるんです。
ここで提示したいのがもう一つの江草の積読本、アメリカの認知心理学者スティーブン・ピンカーの『人はどこまで合理的か』です。
タイトル通り(原題なんてまさしく"Rationality"ですし)、こちらも合理性を扱う本なのですが、以前本書を衝動買い的に購入時に意気揚々とこの本を読み始めようとしたら冒頭の一文から江草は引っかかってしまったんですね。
これ、最初から自身の「合理性」の土俵に引きずり込んでる、トートロジー的なズルい論理ではないかと。ハナからピンカーが思う「合理性」の外の「合理性」を想定してない感じがして、江草的には逆にここにピンカーの「非合理性」を感じてしまったんですよね。(実は少し後の箇所でこの点についてピンカーによる補足説明があるのですが、その説明もピンと来なかったのです)
冒頭から「いきなり納得できないぞ」と衝撃を受けたのもあって、「また気持ちが落ち着いた頃に読んでみるか」と思いしまいこんだまま、この本も積読化していたわけです。
しかし、今回渡邉の『「論理的思考」の文化的基盤』の方から、「合理性は普遍的なものではなく文化的差異があるのでは」という着想をいただいたことで俄然このピンカーの『人はどこまで合理的か』も読むべきだと感じたのです。それも、これら二冊を同時に並行して。
江草はそれなりに理屈っぽい人間で、おそらく「論理的思考」とか「合理性」にこだわりがある方と言っていいはずです(妻にもよく「理屈っぽい」と指摘されますし)。しかし、その江草がピンカーの「合理性」に不思議な違和感を覚える。単純に考えたら「どちらかが誤って非合理な思考をしている」と解釈するところなのでしょうが、もしやするとこれはまさに文化的差異が現れてる瞬間なのではないかと。
だから、アメリカの学者であるピンカーの本を読んでいてその「合理性」の感覚にピンと来ないところがあった時に、渡邉本を触媒にメタ認知したら全然違う光景が見えるのではないかと思いついたわけです。
こりゃ、めちゃんこ面白そうな読書体験じゃないでしょうか。
そんなわけで、「合理性」を別角度から扱う二冊を並行して読むことで、その理解をさらに深めちゃおうというワクワク読書プロジェクトが始動しました。
いやあ、積読というのは、こういう風に「時が来る」のを待ってるものなんでしょうね。
余談ですけど、そういう意味では、ついこないだ紹介した書籍『Simple 「簡潔さ」は最強の戦略である』も、「確かに合理的だな」と感じつつも、一抹の違和感はあったんですよね。
確かに理にかなってるはずなのに、この本の著者団の提唱するフォーマットに従った時の不思議な居心地の悪さ。
たとえば、この「簡潔さ」書籍が提唱してる「スマート・シンプル」の4原則は以下の通りです。
なんかこれが、渡邉本のこの箇所にすごく似たものを感じさせられるんですよね。
「アメリカの児童は、結果に最も強い影響を与えた出来事だけを述べて他をすべて省略したのである」。そう、なんとも「スマート・シンプル」です。
でも、江草はやっぱり何となく、ごにょごにょ長文を書きたくなっちゃうんですよね。まさに渡邉本に指摘されてた「東洋は渦巻きのように遠回りしながら間接的に主題に近づく展開」かのように。
ときに「簡潔さ」本の著者の彼らもピンカーと同じくアメリカ(英語圏)の方々です。もしやすると、同様の「合理性の文化的差異」がここにも隠されてるのかもしれません。
なお、日本人自身でも「日本人は合理的思考が下手だから」的な事を語る人がよくいます。
たとえば、こちらの小室直樹『論理の方法』も「論理」を語る本ですが(こちらも申し訳ないことに江草積読本の一冊です)、日本人の「論理」の弱さを嘆くところから始まってます(これまたいきなり冒頭)。
しかし、もしかするとこれも「異文化の合理性」目線に過ぎないのかもしれない。そう考えるととても面白くないですか。
ちなみに渡邉雅子『「論理的思考」の文化的基盤』は、もっとコンパクトに、それに近い内容を解説されてる新書『論理的思考とは何か』も出てるようなので、概要をとりあえず掴むのにこちらからまず読んでもいいかもなあともこっそり心が揺らいでます。(普通にピンカー本と合わせて並行読書となるとけっこうなボリュームになっちゃいますからね……)
以上、江草の読書の近況でした。