井上純一『逆資本論』読んだよ
井上純一『逆資本論』読みました。
著者の井上純一は『キミのお金はどこに消えるのか』などの経済漫画を注力して描かれてる漫画家の方。
江草も過去作がお気に入りで、以前からフォローさせていただいてます。
で、今回出た最新作が『逆資本論』。
逆向きのマルクスの肖像がデンとある、なかなか圧を感じさせる表紙です。
そして、一読。
いやー、これはとても良かったです。あまりに良かったので一気読みしてしまい、読後にちょっと感動して震えているレベル。
過去作も良かったのですが、今作はさらに完成度が高く、井上氏はますます腕を上げられてるように感じました。
本書が主に取り上げてるトピックは「気候変動危機」です。みなさんも御存知の通り「温暖化ヤバい」をどうするかという話です。
「気候変動危機」に警鐘を鳴らした本として最近日本でベストセラーになったのが斎藤幸平『人新世の「資本論」』です。資本主義では「気候変動危機」に対応できないとして「脱成長コミュニズム」を打ち出した一冊でした。かなり売れたみたいなので、みなさんもお読みになられてるかもしれません。
さて、井上の本書『逆資本論』の特徴はこの斎藤幸平の「脱成長コミュニズム」をけちょんけちょんに批判しているところです。
「気候変動危機」への対応が急務である点は井上も斎藤と同意見なのですが、その対応方法としての「脱成長コミュニズム」は決定的に誤っていると断じています。
この理由、みなさんも気になられるところかと思います。
けれど、いかんせん説明が非常に繊細なところなのでぜひとも本書を読んでいただくことにして、本稿では詳細な解説は割愛します。
ただ、江草的にはとても重要な良い指摘だなと思いました。
斎藤の論の弱点を露わにした好例として本書内で取りあげられていたNHK「欲望の資本主義2022」でのチェコの経済学者トーマス・セドラチェクと斎藤の対談は、江草も当時観てまして、未だに覚えているのですが、確かにちょっとかわいそうになるぐらい斎藤がやり込められていたんですよね。
共産主義社会を実体験しているセドラチェクからすると、斎藤のコミュニズム論はちょっと共産主義を甘く見すぎに映るのでしょう。それゆえ、共産主義に乗り換えようとするのではなく、資本主義を修正していって対応するのが最善の策であることを譲りません。このセドラチェクによる斎藤への反論の力強さと説得力は一見の価値がある番組です(まだどこかで視聴できると良いのですが)。
この辺のセドラチェクの修正資本主義的な立場は、「資本主義はもはや解体する他ない」と主張するアナキストのデヴィッド・グレーバーとの対談書『改革か革命か』にも色濃く表れていて、とにかく「カオス」と「独裁」への警戒感があるんですよね。
井上による『逆資本論』も言葉で明示まではされてないものの、セドラチェクと同様の修正資本主義の立場をとっていると言えます。
江草も「脱成長コミュニズム」はちょっと理想論すぎるかなと、過去にブログでの感想文で懐疑的に語ってます。
で、斎藤の「脱成長コミュニズム」を否定した井上は本書『逆資本論』で修正資本主義的な「グリーンニューディール政策」を推していくことになります。要するに、気候変動対策も資本主義のインセンティブシステムを利用する他ないというわけですね。
このグリーンニューディール政策を推し進めるにあたって、前述の斎藤の脱成長コミュニズム論だけでなく、地球温暖化否定論、火力発電・原子力発電擁護論、財政緊縮論を井上はかなり辛辣に批判しています。これらにこだわると、日本の安定や発展もありえないし気候危機も乗り越えられないし危険であると断じています。
この辺、人によってかなり賛否が分かれるところかと思いますが、江草としては説得力のある丁寧な主張であったと感じましたし、そして漫画的描写がどこをとってもとても面白いのです。
賛否いずれの立場をとるにせよ、どれも今後の日本や世界を考える上で押さえておくべき論点であることには違いないはずで、それらの論点を考えることに読者を自然と引き込んでくれる漫画というメディアのパワーを強く感じました。
それで、結局、タイトルの『逆資本論』の何が「逆」だったのか。
タイトルになってるだけあって、本書の最大のキモと言える部分です。
つまり「マルクス経済学に基づく共産主義の旗の下に労働者が団結して革命を起こせ」というのが『資本論』とすれば、『逆資本論』は「グリーンニューディール政策に基づく資本主義の旗の下に市民が団結して改革を起こせ」というのがメインメッセージになります。
共産主義でなく資本主義を採り、脱成長ではなく成長を志向し、革命ではなく市民運動による着実な改革を目指す。
そういう意味での「逆」なのでした。
このメッセージを伝える中で、井上は本書の中で日本人の市民運動への意欲の乏しさを憂いていますが、これはとても重要な指摘と思います。
ここからは江草の私見ですが、資本主義に欠陥がある以上、民主主義をどうやって取り戻すのかが鍵になってくるのだと思うのですよね。
「資本主義」という夫にどうしても苦手なところがあるのなら、そのパートナーである妻の「民主主義」がどうやってそれを補うかが重要になるわけです(別に夫婦役割は逆でもいいですが)。
ここでいっそのこと「資本主義」という夫と離婚してしまおうというのが「脱成長コミュニズム」ですけれど、これはやりすぎだし意味がないというのがセドラチェクや井上の立場ということになります。仮に夫を入れ替えたとしても、「民主主義」という妻の立場が弱いままならば家庭内のバランスは悪いままなのですから。
そして、この「民主主義」がせいぜい多数決の選挙システムとしか人々からみなされてない点が民主主義の悲劇的誤解であり、かつ、立場が弱い元凶であるからこそ、改めて市民運動の大切さを訴えたのが井上の本書『逆資本論』であると言えるでしょう。
共産主義社会も独裁制に陥って民主主義が脅かされやすいですが、本書でも描かれているように資本主義社会もロビイストによる政治介入によって民主主義が脅かされてしまっているわけで、そういう意味では共産主義だろうが資本主義だろうが、程度に差こそあれ、いずれにしても大衆は弱い立場に追いやられかねないと言えます。
これらの経済の論理に隷属しない健全な民主主義をいかに取り戻すかが、とくに市民意識の乏しい従順な日本人にとってこれから大事な課題になると思います。この市民運動についての問題提起をされたことは本書の大きな意義と感じます。
(とはいえ、「民主主義バンザイ!!」と言って急に大衆がプッツンぶち切れて選挙での反抗に頼ると、トランプのような過激派ポピュリストの台頭を許すことにもなるのでバランスがほとほと難しいのですが)
というわけで、マルクスが表紙に出てる時点で多くの方のアレルギーを引き起こしそうですし、各所で個々の論点に批判も出るでしょうけれど、本書『逆資本論』は現状の気候変動対策と経済体制に関する問題の整理としては非常に優れた一冊だと思います。
漫画であることによる敷居の低さと直感的分かりやすさもあり、万人にオススメできる内容です。
別にマルクス主義や共産主義の書籍では決してないので、ぜひとも表紙のマルクスはあまり気にせずに多くの方が読んでいただきたいですね。
【おまけ】江草的な本書に対する疑問点
……と、ここで褒めっぱなしでキレイに終わったりしないのが江草のnoteです(笑)。
基本的に天の邪鬼な性格をしているので、完全に賛同してると思われるのも不本意なのですよね。
本書でも「すべてを疑え」とありましたし、批判的思考の一環として本書に対する疑問点もいくつか記させていただこうと思います。
ここからは本書の内容に対しての考察なので、読後の方でないと分かりにくい内容となるかと思いますが、悪しからず。
まず、気になったのは本書の素朴な経済成長主義です。
確かに、本書も指摘されるように脱成長コミュニズムも問題があるとは思うのですが、だからといって素朴すぎる経済成長論も妥当かと言うと疑問があります。
節々で「GDP=豊かさ」的な観点で本書は解説を進めてらっしゃるのですが、このGDPの「指標としての妥当性」が問題になってることを軽視されてるように感じました。
別に「GDPでなく国民総幸福量を指標にすべき」とかそこまでの話ではなくて、シンプルに「GDPって誰が決めるのそれ」っていう問題があることを忘れてらっしゃらないかなと。
たとえば、ダイアン・コイル『GDP』において、もともと物品などの実物経済の生産量の評価に有用であるとして導入されたはずのGDPが、いつのまにか大人の事情でその内容に金融部門が含まれるようになるなど、必ずしも実世界の豊かさと同一視してはならない複雑怪奇な指標となっていることが指摘されています。
GDPにも定義や算入手法があり、それがあくまでも人為的に作られた指標、すなわち人工物であることが明らかである以上、本書が共産主義の弱点として指摘していた「誰が決めるのそれ問題」からGDPもまた無縁ではないのです。
その点で、「脱成長コミュニズム」があくまで「脱」であって「反」でないことや、セドラチェクがわざわざ「成長なき資本主義」を志向していることは示唆深いものがあります。
つまり、昨今ではGDPがもはや良い指標、少なくとも絶対的な指標ではなくなってきていることを踏まえた「わざわざGDPを下げる必要もないけれどわざわざ上げようとする必要もないよね」という「脱GDP」の意図がそこにあるのです。
これに対して、あくまでGDP上での経済成長を志向しているように思われる本書の立ち位置は、少々素朴に思えます。
「本当にそれで豊かになるの?」という疑問が出ることは避けられないでしょう。
(他に外部性の問題がないとするならば)経済成長は確かに良いことです。しかし、それが真に社会が豊かになる意味での経済成長であるならばです。その豊かさの指標としてのGDPに疑問符が付けられてる中で、GDP上昇がすなわち経済成長であるかのような描き方は無邪気すぎるのではないでしょうか。
困ったことにGDPが上がっても、それが皆が豊かさを実感するような経済成長ではない可能性は十二分にあるのです。
そして、本書は「GDPが増えればプラスサムゲームになる」あるいは「お金を刷ればプラスサムゲームになる」と思わせるような描写を示されていますが、これもまた同様に素朴すぎる印象があります。
確かに、真に経済が縮小していたり、財政緊縮となれば、ゼロサムゲームやマイナスサムゲームになりえるでしょう。これは江草も良しとは思いません。
ただ、だからといって、必ずしもGDPが増えれば、お金を刷れば、プラスサムになるとも言えないように思われます。
GDPに関しては先ほども述べた定義問題があって、GDPが分け合える実物経済の拡大を反映している保証がない以上、GDPが拡大しても分け合うべき実物資産はカツカツということがありえます。こうなるとゼロサムゲームです。
そして、GDPが拡大したり、お金がドンドン刷られていれば、確かにお金に関してはプラスサムゲームとして分け合えると思います。ただ「お金に関しては」に過ぎません。
もっとも、仮にGDPが真に経済成長を反映しているとするならば、モノだけはあふれるのかもしれません。
しかし、それでもなお「誰がしんどい仕事を担うのか」という問題の解決には全くつながりません。
そう、問題は「人」なんです。
ここが、「気候変動対策」に注力している本書の最大の盲点「少子高齢化問題」です。
いくら数字上で経済成長がなされようと、お金が増えようと、社会から人が減っていくならばそれはマイナスサムゲームに他なりません。
ケアをする者とケアを受ける者の間の数的バランスが崩壊してしまったならば、いくらお金があってもなんにもならないのです。
これまでの(そして本書が支持しているであろう)GDPを指標とした経済成長主義の最大の落ち度は、家事・出産・育児などの家庭内活動が経済生産性として無、もしくは極めて低値に見積もられてしまっていた点でしょう。
GDPを上げることを優先した結果、無意識のうちに短期的・直接的な貢献が乏しい出産育児は後回しになってしまった。でもそれで実際にGDPが上がっているがために、その現状を肯定できてしまった。
そうこうしてるうちに少子高齢化が着実に進行、みなが仕事や高齢者のケア、あるいは自分の老後の準備でいっぱいいっぱいになってしまって、ますます子どもにかける余裕がなくなり少子化が進むという悪循環です。
これは皮肉なことに結局はGDPを押し下げる効果を持ちます。
これは日本だけの問題ではなく、世界的なトレンドとして少子高齢化が進んできていることに注目すべきです。
なるほど、確かに本書が言うようにこれまで経済成長のおかげで世界が豊かになってきたのは事実だと思います。
しかしそれがモノやカネの側面だけの豊かさであって、ヒトが減りつつあるのなら、それは実はただ将来の人口を犠牲にした束の間の豊かさでしかなかったのではないでしょうか。
この世界的少子高齢化危機の問題に触れることなく「お金を刷ればプラスサム」かのように描き出すのはいささか無邪気すぎるように感じます。
「気候変動危機」は確かに重要な問題です。
しかしこの「少子高齢化危機」もけっこうな問題なんですよね。
地球環境が守れても人類が減少し続けたら結局は人類は滅びるわけですから。(そうでなくても「豊かさ」の維持は非常に難しくなるでしょう)
しかも「少子高齢化危機」は「気候変動危機」と違って「科学技術でなんとか奇跡的に解決」というのも難しいのです。それって、ロボットによる自動ケア介護システムとか、赤ちゃん工場とかそういうグロテスクな解決策ですからね。環境問題の比ではない強烈な倫理的コンフリクトを生むことは必至です。
そんな奇跡的解決が期待できない問題だからこそ、早く手をつけないといけない問題なのですが、なかなかそれが進んでないのは皆様御存知の通りです。
ああ、みんなで豊かになるってほんと難しいですね。
以上、アレコレ言いましたが、あくまで批判的思考の一環としての細かい疑問点の指摘でして、全般楽しく賛同しながら読ませていただいたことは改めて強調しておきます。