民主主義とは誰もがインフルエンサーであること
衆議院選挙が終わりましたね。これを書いてるのは大勢が判明していない時分ですが、記事を予定投稿する明朝には結果が出ていることでしょう。ドキドキしますね。
ところで、近年、選挙期間中に「投票しましょう!」という声かけがSNSでよく見られるようになりました。「あなたの一票で社会を変えられるんだ、これはすごいことなんだぞ」というのがポピュラーなタイプです。
全然こうしたムーブメントを否定するものではないのですが(江草自身も投票を促す軽いポストはしてますし)、個人的にはあんまり乗り切れない空気感ではあるんですよね。
もちろん、江草が反民主主義的なスタンスの人間かと言えば、以前からのフォロワーさんなら特にご存じの通り、むしろ逆に民主主義ラバーな気質なんですよね。
民主主義ラバーなのに「投票しましょう!」ムーブメントに乗り切れないというのは、一体どういうことか。
この国においてもっとも重要と言える民主主義的な選挙が終わった今、ちょうど良い機会ですので語ってみたいと思います。(というより選挙が終わる前には野暮すぎて言えなかったとも言う)
投票は民主主義の本質ではない
さて、先ほども「否定するものではない」と言ったように、江草はなにも選挙制度やそれに参加する実践である投票行為を批判しているわけではありません。もちろん、これらは重要です。
ただ、一人の民主主義ラバーとしての私見では、選挙や投票は民主主義にとって重要ではあるけれど、最重要ではないという捉え方なんですね。言ってしまえば、必要最低限の重要性って感じです。すなわち、民主主義を成り立たせるのに投票はまあ重要と言えば重要だけど、それだけじゃ全然足りないよねと。
極論、選挙や投票というのは民主主義にとっては「限界があるのを知っているけれど民主主義の実践において現実と折り合いをつけるために便宜的に導入している制度」に過ぎないとさえ言えます。端的に言ってしまえば「しゃーなしの制度」です。
たとえば、これは誰もが知ってる問題ですけれど、選挙って基本的に多数決でやってるじゃないですか。でも、それって、多数派でない人の意見は事実上切り捨てられてるんですよね。この時点で少数派の「民」の意見がバッサリ反映されない仕組みなので、「国民みんなで」を重視する民主主義の精神からするともうどうしたって妥協の産物なんですよね。そうでもないと決まらない時が多いから、仕方なく多数決をやってると。
まあ、「民主主義=多数決」という図式は有名すぎるほど有名な典型的誤解なので、江草が改めて説明する必要もないでしょう。多数決とは別に民主主義的な仕組みではない。しかし、それにもかかわらず実際に選挙(もちろん今回の衆議院選挙でも)は多数決を導入しているわけですから、現実の選挙制度は残念ながらあくまで「理想的な民主主義」ではないということになるんですね。
だからこそ、あまりに「投票こそが民主主義の実践だ!」という勢いで投票推しをするのは、かえって民主主義ラバーとしては乗り切れなく感じちゃうのです。民主主義の本質は「投票」ではないと思ってるからこそ、「まあ投票も大事ではあるんだけど……」と、ちょっと引いてしまう。
投票推しは民主主義にとって諸刃の剣
投票制度の弱点は、自身の影響力が残酷なまでに数値化されることにあるように思います。
「1人1票で平等だから民主的だ」と言えば、確かにそれっぽいんですけど、これは各個人が社会に影響を及ぼす力をかなり限定させて見せてしまってると思うんですね。それがゆえに、民主主義に対し人々を失望させる契機にもなる諸刃の剣なのです。
「投票で社会を変えることができる!」と勇ましく言われます。しかし、実際、比例はまだしも、小選挙区で自分の投じた票が死票になるのをかなり多くの人が目の当たりさせられるわけですから、期待を煽れば煽るほど、その明確で残酷な現実が失望を呼ぶでしょう。
一応、「入れた候補者が落選してもその支持票が次につながる」「所属党に金銭的メリットがある」とか色んなロジックでこの点にフォローは入るのですけれど、やっぱり自分が所詮1票しか持っていないこと、自分が約1億人の有権者の中の1人に過ぎないことを選挙は圧倒的なリアリティで突きつけてくるイベントであるのは間違いありません。
投票とはつまるところ個人の影響力を数値化する仕組みであるからこそ、そればかりを強調すると「そうは言ってもやっぱり自分はたったの"1"でしかないじゃん」という感覚をかえって惹起しうるわけです。
こうした自己効力感の低下は、民主主義の精神からすると無論、逆効果ですよね。だから、投票という行為の神格化は、民主主義にとって諸刃の剣だと思うんです。
民主主義の本質は「誰もがインフルエンサー」
では、民主主義にとって何が本質であるというのか。
もちろん、これはあくまで江草の私見ではありますが、民主主義の本質とは「誰もがインフルエンサーである」という感覚にあると思います。
すなわち「誰もが社会に影響することができる」。そういう感覚を持つことが民主主義です。
巷の「投票しよう!」ムーブメントが足りないと思うのは、これを「投票で社会に影響することができる」としてしまった点にあります。つまり社会に影響する手段を「投票」に限定してしまってる。少なくともそう感じさせる雰囲気になってしまってる。これがちょっと危うく映るんですね。
なぜなら、先ほどから述べている通り、選挙(ないし投票)とは個人をただの「影響力1」と数える仕組みであり、むしろ「個人の影響力なんて矮小なんだよ」と数値で突きつけるものだからです。
宇宙論の話とかを聞くと、宇宙がビッグすぎて「自分はなんてちっぽけな存在なんだ……」って感覚になったりするじゃないですか。投票行為の重要性の強調は図らずも、それに似た効果をもたらしうるわけです。
だから、「投票」という手段に限定せず、ただシンプルに「誰もが社会に影響することが出来る」と捉えてしまうのが民主主義的にはしっくりきます。そもそも、最初に確認したように多数決の実践たる「投票」は民主主義にとっても「しゃーなしの制度」ですから、「投票」に強く依存する必要もありません。
インフルエンサーは「フォロワー数が多い人」ではない
で、「誰もがインフルエンサー」と言うと、「フォロワー数が多くないとダメ」という風に受け取られてしまうかもしれません。確かに、一般的にはインフルエンサーとはSNSでフォロワー数が多い人を指しますからね。
でも、それは「投票」に依存する民主主義イメージと同じく、「数値化の罠」にはまってると思います。結局「フォロワー数」という数の大小で考えてしまってる。数値に囚われてる。
そういうことじゃないんです。だってわざわざ江草は「誰もが」って言ってますでしょ。「誰もがインフルエンサー」というのは、つまり各自のフォロワー数の大小(さらに言えば投票が1票しかできないこと)なんて関係無しに「誰もが影響力を持っている」という感覚なんです。
そもそも「インフルエンサー」という言葉がフォロワー数が多い人だけを指してるのが良くないなと個人的には思うんですね。
フォロワー数って、所詮、「直接的にその人をフォローしてる人」の人数でしかないんですよ。硬く言い直せば「一次影響を受ける人」という感じでしょうか。
しかし、考えてみてください。人の影響力って別に直接関わった相手にだけ与えるものじゃないでしょう。自分が直接影響を与えた相手がまたさらに他の相手に影響を与えることがある。つまり、間接的に二次、三次にと影響が広がるというのは全然ありえるわけです。
「フォロワー数」というのはこの点で最初の直接的な一次影響力しか数えてないので、とても視野が狭い数字なんですね。もちろんフォロワー数が多い人はその次の間接的な影響力も強い可能性はありますが、必ずそうとは限りません。その人の影響力の二次三次の伝播力や、あるいは影響力そのもののパワーは、「フォロワー数」という数値には表れてないからです。
フォロワー数は少なくても世界を変えた偉人たち
抽象的な話ばかりだと説得力が無いでしょうから、具体例も出してみましょうか。
たとえば、イエスやブッダ。それぞれ言わずと知れた世界宗教の創始者ですが、別に彼らは直接教えを説いた弟子(フォロワー)が多かったわけではありません。
彼らの直接的フォロワー数の実態が数十人か数百人か、はたまた数千人か知りませんが、少なくとも現代の「インフルエンサー」であるイーロン・マスクやひろゆきの足下にも及ばないぐらいの限られた人数でしかなかったはずです。
しかし、まあ、ご存じの通り、彼らが世界に与えた影響力の大きさは恐るべきものですよね。
イエスやブッダは、直接的に影響を与えるフォロワー数は現代から見れば全然たいしたものではなかったとしても、その教えを次に次にと語り継ぐ人たちがずっと現れ続けた結果、とてつもない歴史的インフルエンサーとなったわけです。
これがまさに間接的な影響力の威力ですけれど、これを「フォロワー数」は捉えきれないのですね。
一般人でも意外な影響力を発揮しうる
でも、「いやいや、そうは言っても、イエスやブッダなんてさすがに特別すぎる偉人じゃないか」と思われるかもしれません(人間と言っちゃうとほんとは怒られうるのですがここではご容赦ください)。
ただ、私たちのような一般人でも思いがけない影響力を発揮することは十分ありえるんですよ。
これはCOTEN RADIOで聴いた話ですけれど、「漫画の神様」として知られる手塚治虫がいますよね。あの手塚治虫の中学時代の教師が「お前は漫画が上手いからどんどん描いたらいい」と背中を押してくれたことが、手塚治虫が漫画の道に進む原動力になったというエピソードがあります。
この先生がいなかったら、手塚治虫が漫画の道に進んでなかったかもしれない。そうしたら手塚治虫の漫画から影響を受けた数多の漫画家も生まれなかったかもしれない。
でも、こう言うとなんですけど、この先生はただの一介の中学教員に過ぎなかったわけで、つまりは一般人でありましょう。少なくともイエスやブッダみたいにとてつもなく異彩を放った活動をしたわけではない。しかし、ただ彼が生徒を想う気持ちを発露したら、それが莫大な影響力の源になってしまった。
なんなら、こうした歴史的エピソードに頼らずとも、皆さん自身にもこの類いの覚えはあるんじゃないでしょうか。つまり、誰かの言葉がずっと心に残っていて自分に影響を与えてるような話です。それも、振り返ってみても驚くほど些細な一言で、言った本人は覚えてないかもしれないようなもの。
たとえば、居酒屋で飲んでたときに友人がふと発した言葉であったり、家で過ごしてる時にふと親からかけられた言葉であったり。なぜだか思い出す、心に残ってる言葉ってありませんか?
それは巷の「インフルエンサー」という概念が全然想定してないような、その場その時のフォロワー数が1人(自分だけ)というシチュエーションであるにもかかわらず、深くその影響を人に刻み込むことが実際にあるわけです。
※なお、江草も過去にそういう類いの話を書いたことがあります。
誰がどう影響を与えるかは予想が付かない
こう考えると、誰がどのように影響を与えるかもはや分からないし、予想が付かないと言うべきじゃないでしょうか。
なお、例として分かりやすいので上では言葉を介した影響を挙げましたけれど、これは別に言葉に限った話でもないはずです。行動であったり、生き様であったり、なんなら存在しているだけでも、人は影響を周囲に与えうります。
そう、人は人に驚くほどに影響を与える存在なんです。
これは投票の「1人1票」という感覚には収まりきらない事実です。そんな数値的限定は個人の影響力を全然低く見積もりすぎなんです。
つまり、江草の言う「誰もがインフルエンサー」というのはこういう感覚なんですね。
自分の一挙一動が自分でも驚くぐらいの社会的影響を与えることがありうる。そして、それは他のみんなそれぞれにとってもそうである。
こういう感覚を持つのが「誰もがインフルエンサー」の意味であり、民主主義であるのです。
各自の言動は全て「投票」である
と言っても、「誰もがインフルエンサーである」と「民主主義」のつながりが分かりにくいかもしれないので、ちょっとその隙間を埋める話もしておきますね。
これは民主主義とかの話題と全然違う文脈の自己啓発的な書籍なのですが、『Atomic Habits』(原題)という習慣ジャンル界隈ではそこそこ知られた本があります。
この書籍では、「自分が何をするか」という選択は「自分は何者であるか(アイデンティティ)」に投票をしてるようなもの、という説明が出てきます。
すなわち、こうなりたいと思う「理想の自分」が行うであろう行為を実際に行うことは、その「理想の自分」に票を投じるようなもの、実際にそれに近づくことであると。(だからこれが、なりたい「理想の自分」が行うであろう行為を小さくてもいいので習慣として始めるのが良いというこの書籍の主旨につながるわけです)
ここで「投票」という概念が出てるのが非常に示唆深いと思うんですね。この話を「誰もがインフルエンサーである」という感覚と結びつけると、どうなるか。
自分のひとつひとつの言動が大きな影響力を持ちうるのだから、全ての言動が「この社会はどうあって欲しいか」に対する「投票」であると言えるということになります。
つまり、自分が「こうあって欲しい」という理想の社会において自分が取ってるであろう行動を実際に取ることがその理想の社会に現実に近づくことであると解せるわけです。
再度言い換えれば、私たちのひとつひとつの言動が「投票」として社会を作り上げる、誰もが社会に対して影響力を持っていると考え言葉を交わし行動する、という感覚になります。
これぞ、まさに民主主義ではないでしょうか。
ここでの各言動による「投票」という捉え方は、一般的な選挙制度における投票と違って、数値化を介していません。自分の言動がどれだけの影響力であるかを下手に確定されていない、数値によってその可能性を限定されてないからこそ意味があるわけです。民主主義に不可欠な「ちっぽけな自分個人でも社会を変えうる」という期待感や自己効力感は、そのポテンシャルが未確定であればこそ発生しうるのです。
民主主義は「祭りの後」こそが本番
思いのほか、説明が長くなりましたが(まあいつものことですが)、これで、「投票をしよう!」というムーブメントでは、なぜ民主主義ラバーの江草が物足りなく思ってるか伝わったのではないでしょうか。
要するに、民主主義は「選挙での投票どころの話」では全然足りないのです。
特に、大きな選挙前になると途端に「投票しよう!」と爆発的に盛り上がって、選挙直後に「今回も投票率低かったね……」と反省会があって、それでおしまいという流れは、とても良くありません。
なぜなら、もうお分かりの通り、民主主義とはそういう一過性のイベントではないからです。
もちろん、繰り返しになりますが、民主主義の現実的な制度的手段として選挙や投票は重要です。しかし、「全然それだけではない」というのが肝心要なところなのです。
なんなら、大きな選挙の時期なんて誰もが自然と盛り上がれるときです。だから、本番はむしろこうした大きな選挙後にあるんですよ。
そう、つまり、まさに衆院選が終わった今からが本番ってことなんです。
民主主義に対する関心が急速に冷めやすいこの瞬間だからこそ、気持ちを引き締めないといけません。
民主主義をただの「お祭り」にしないために、今一度、民主主義感覚を意識し、そして民主主義習慣を取り入れていきましょう。
余談
本稿のような議論に興味を持たれた方は、COTEN RADIOの民主主義シリーズ、オススメです。
民主主義とはただの制度ではなく、人々のマインドに強く依存するということがとても分かりやすく解説されてると思います。
江草もこないだ再度聴き直したばかりなので、色々とインスパイアされたところが否めません。(とはいえ、本稿の内容はあくまで江草の私見であって、決してCOTEN RADIOの主張ではありませんので、そこは誤解なきようお願いいたします)
江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。