「自分の頭で考える」とは
時々聞く「自分の頭で考えよう」という言説。
たとえば有名なのはちきりんさんの『自分のアタマで考えよう』でしょうか。タイトルがそのまんまですね。
江草としても信条にしてるぐらいのポリシーなのですが、「自分の頭で考える」は危険だとしばしば指摘されます。
たとえば、最近でも岩田先生がこのようにつぶやいていました。
ここの岩田先生の話は厳密に言うと「自分の頭で考えること」というよりも「自分の頭で考えようと言ってる奴ら」に対する批判ですが、それでもやっぱり「自分の頭で考えること」自体への警戒心もあらわと言えましょう。
実際、勝手に自分で独自の考察をした結果、陰謀論的なところに突っ込んでしまう危険性はあります。
たとえばこちらの読書猿さんの指摘。
あくまで読書猿さんの話は「独学」を対象にしたものであり「自分の頭で考えること」とニュアンスは異なりますが、同様の危険性ははらんでるとは言えましょう。
『チ。』の魚豊氏が最近連載されてる新作の『ようこそ!FACTへ』も、論理的思考力だけが取り柄と自負している主人公が、独善的な思考を経てあれよあれよと陰謀論に染まっていく様を描いていて大変面白いです。(ちょっとネタバレですみません)
では、「自分の頭で考える」というのはやっぱり危ないのか、間違っているのか、避けるべきことなのかというとそういうわけではないと思うんですよね。危険なタイプの「自分の頭で考える」が出てきてしまうのは、本来の「自分の頭で考えよう」という主張が出てきた背景を踏まえずに、真意が誤解されてるだけではないかなと。
たとえば、こちらのニー仏さんのつぶやき。
ニー仏さんらしい歯に衣着せぬ言い方ですが、でも結局はこういうことだと思うんですよね。
「自分では考えずに他人の言うことに無批判に従う風潮」、これが良くないということで出てきたのが本来の「自分の頭で考えよう」の趣旨だったはずです。ベタな話で言えば、ナチドイツでホロコーストを粛々と実行していたアイヒマンが「悪の凡庸さ」とアーレントに評されるほど、ただ小役人的に無批判に体制に従っていた人物であったことはよく知られているところです(これはこれでアイヒマンの人物像を単純に捉えすぎてるという話もありますが)。
だから「自分の頭で考えよう」は「他人任せにせず自分でも考えよう」という意味であって、それはあくまで「自分だけで考えよう」ではない。本来のその趣旨には他者からの隔絶や孤立は含意されてないはずです。
もっとも、「自分の頭で考えよう」というフレーズにはそうしたニュアンスが除かれており、誤解を招きやすいのも確かです。「自分の頭だけで考える」もしくは「自分たちの頭だけで考える」としてしまう余地を残してしまっています。
ただ、何事も主張の背景にはそれなりの文脈というものがありますから、字面上は確かに表現されてはなくとも「自分の頭で考える」の背景にそうした「他人への盲従」に対する懸念があると容易に推測されることを踏まえれば、「自分の頭で考える」=「陰謀論」というのもまた短絡的な批判にすぎないと言えるでしょう。
つまり「自分の頭で考える」とは「自分の頭だけで考える」ではもちろんなく、「自分の頭でも考える」すなわち「みんなで考える」ということを目指しているわけです。社会の各々が「自分の頭で考えれば」それは「みんなで考える」ということに繋がります。
そして、ここで重要になるのが、それぞれで「自分の頭だけで考える」に陥らずに「みんなで考える」にするためには「自分の考え」の共有と相互参照あるいは相互批判が必要ということです。要するに、「自分の考え」を「他人の考え」と繋げ、互いに影響しあわないと、それは「みんなで考えたこと」にならないのです。
ゆえに、「陰謀論」が危険なのは、結局はそれが身内のグループ内だけの思考に隔絶されてしまっているためであることも分かるでしょう。「自分たちだけで考えて」いて「みんなで考えてない」。「あれもこれもあいつらの陰謀だ」と敵を想定してしまうと、「他人の考え」との繋がりを失ってしまいます。
一方でまた、専門家集団が時に批判されるのはその閉鎖性においてです。専門家が「無知な大衆が自分で考えるべきではない、俺たちに任せておけ」としてしまう時、それは大衆も含めた「みんなで考えること」を拒絶していることになります。
確かに「THE陰謀論」と異なり、権威ある専門家集団はより正確な知見に基づいた合理的な思考に至ってはいるでしょう。とはいえ、それは結局は「自分たちだけで考えるから」と他者を排除しているわけで「みんなで考えさせない」という姿勢で同じです。そのせっかくの素晴らしい知見や思考を皆に共有しないことや意見を求めないことは、大衆に盲従を強いていることには変わりません。いかにその見識の質が高くとも「思考の隔絶」を肯定している構造そのものは「陰謀論」と一緒なのです。
もちろん、この知や思考の共有というのが言うは易しで、大変難しい作業なのですが(ハナから専門家を嫌悪していて喧嘩腰な態度の人もいますし)、それでもそれを怠って他者を排除し身内だけで考えるのは「集団思考」に陥る愚をしでかしているもので、知や思考に対する誠実な態度とはいえません。
そう、こうした集団の身内だけで考える行為が、わざわざ「集団思考」という名前をつけて危険視されていることは、まさしく本稿の主張を支持するものと言えます。この「集団思考」は「みんなで考えること」とは似て非なるものです。
「集団思考」は「集団で考えること」の危険性を指摘するものですが、一方の本稿の「みんなで考える」はあくまで「自分の頭で考えること」を前提としているもので、思考主体の単位が違うんですね。すなわち「みんなで考える」は「考える個人が集まった集団になろう」という意味であり「集団で考えよう」ではないのです。
「みんなで考える」は無数の個々の思考単位が集ったものであるけれど、「集団思考」は一つの大きな塊のような思考単位になってしまうことです。そうした「ただの大きな塊」になってしまうことがいかに危険かというのが、まさしくみんなで大きな塊になろうとするイデオロギーである全体主義に従ったナチのアイヒマンから得られた教訓であったはずです。
もちろん、専門家集団が身内に篭ることは、査読などに象徴される内部の相互批判文化を前提としており、あくまで全体主義的な単純な塊ではないでしょう。ただ、「専門家以外は自分の頭で考えるな」と言う時「我々専門家」と「他多数の一般人」という大雑把な彼我に分けてしまっており、そこにはやっぱり「塊化」の影があるのです。この危険性は思考の重要性を自負してるはずの専門家集団であればこそ常に気をつけるべきところでしょう。
まとめましょう。
このように「自分の頭で考える」とは、「自分の頭だけで考える」でも「自分たちという集団として考える」でもなく、各自が自分の頭で考える思考単位として集いながら「みんなで考えること」です。
独立しているけどバラバラではなく、つながっているけど一塊ではない。そういう絶妙なバランスを求めているのが「自分の頭で考える」の趣旨なんですね。
つまり、思考とはネットワークの形をしているのです。そもそも我々の思考を担っている「脳」がニューロンという神経細胞単位がシナプスでネットワーク化されてる構造をしていることを考えれば、さほど変な結論ではないでしょう?
だから、私たちが気をつけなければいけないのは、このネットワークを保護することです。各自が考えなくなればそれは神経細胞が死んだのと同じですし、各所で隔絶された集団が生まれるのは脳の一部が切り離されたようなものです。
そうはならないように、みんなで「自分の頭で考え」ましょう。
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