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他人の考えを変えるにはまず自分の考えを変えようとすることから

他人の考えを変えたいと思って、発信したり、活動したりしている人は少なくありません。

「昭和な価値観からアップデートしましょう!」という直接的なものはもちろんのこと、「○○の問題を知ってもらいたいです」とか「エビデンスに基づく合理的思考によるとこれが最適解である」というのも知識やロジックによって間接的に他人の考えを変容させようとしてると言えるでしょう。

とはいえ、けっこう他人の考えを変えるというのは難しいものです。

たとえば、「論破」という仕草は人気がありますが、「論破」された側の人が「なるほどー、じゃあ考えを改めます!」となることは稀です。「論破」の内容自体が確かに適切で、いかに論破された側の理屈が無理筋であってもなお、意固地になって何としてでも持論を言い張ることがほとんどです。

これはそうした論破された人が潔くないという性格的要素もあるかもしれませんが、そもそも人がそうそう考えを変えられるような生物ではないというのも大きいでしょう。仮にヒョイヒョイ乗り変えられることができる持論があったとしたら、そもそもそれはその人にとってはさほど核心的ではない対象であっただけの可能性が高いと思われます。たとえば、その人が心の奥底で大事に抱えてる価値観に触れられた時には、誰もがそう簡単に乗り換えられるものではありません。

「科学は墓石とともに進歩する」という名言もあります。これは、マックス・プランクの「新しい科学的真理は、反対者を説得して受け入れられるのではなく、反対者が死に絶え、新しい世代がその真理に親しむことで普及する」という言葉を端的に言い表したものとされてます。比較的、批判的言論の文化があるとみなされている科学界ですら、なお死ぬまで考えを変えない者が多いというのなら、およそ人というのは考えを変えない生き物であると考えて良いでしょう。

でも、それでも反対論者が死ぬまで待つことができない場合はあるでしょう。そんな後まで待てないし、待ったとしても新たに同じような反対論者が次々出てきたら困ると思うから、人は人を説得して考えを改めさせようとするわけです。


では、人に考えを変えてもらうにはどうするか。

無論、もとからして変わりにくいものを変えようというのですから、大変難しいチャレンジではあるのですが、それでもコツみたいなのはありそうな気がします。

基本的にまず止めた方がいいのは、瞬間的に強引に考えを変えさせようということでしょう。

たとえば、先に挙げた「論破」というのは、その時その場で相手の論の矛盾を大々的に(時に公衆に向けて)知らしめるという、いくらかパフォーマンス性を含む行為ですけれど、これはやっぱり考えを改めるために相手に与えてる猶予時間が短すぎるし、やり方が強引すぎるんだと思うんですね。強引であるがゆえに、相手も態度を硬化させると。

だから、出来る限りは、考えを変えるための時間的余裕と、その考えが変容するための熟成環境みたいなのを用意してあげるべきなんだと思うんですね。新しい考えに触れたその場その時で考えが改まらなくても、じわじわっと後から効いてくるような、遅効性の薬品のような感じです。

たとえば、人に席を移ってもらう時に、席を移ってもらいたいからといって、いきなりその人が座ってる椅子を引き抜くと、「何しやがる!」と当然その人は怒るじゃないですか。そうではなくって、「あちらに新しい席をご用意しております」と魅力的な席を見せておきつつ、本人が自身でゆっくりと席を立って移動するのを焦らずじっと待つ、そんな高級レストランのウェイターのような丁寧で穏やかで控えめな佇まいこそが、人の考えを変える時には大事なんじゃないかと。

リーダーシップ論でも「最も優れたリーダーはもはやその存在感がないぐらいに静かに導き、人々が自分の力で物事を達成したと思わせるものである」という話がありますよね(元は老子由来の説話らしいです)。そんな風に、「あいつに考えを改めさせられた」ではなくって「自分自身で自分の考えを進歩させた」ぐらいに感じさせるのがちょうどいいのです。

あるいは、「北風と太陽」の寓話とも類似してますね。いかに強引に他人の物を剥ぎ取らないかが重要というわけです。

このように、「人に考えを変えてもらう」には、こうした「急がば回れ」な感覚が重要と思うのですが、それでも私たちがついつい相手を「論破」しようとしてしまうのは、自分と違う考えに触れた時、とある邪念が入ってきて本来の目的を見失いやすいからなんじゃないかなと。

本来の目的というのは「人に考えを変えてもらうこと」。邪念というのは「自分こそがより正しい考えを持っているのだ(もしくは相手の考えは間違っているのだ)とアピールしたいという気持ち」です。

「考えを変えてもらう」という主目的でない、「自分が正しく相手が誤ってる」と知らしめたいというナルシスティックな欲が紛れ込んできた時に、そちらの自分本位の欲の方が存外際だってしまって、主目的にとって逆効果の展開をするという本末転倒が起きるわけです。

これは、いわゆる「承認欲求」と言える、人にとっての根深い感覚ですから(なんでも修行を積んだ仏僧でもなかなかこの「承認欲求」の煩悩は取り払えない強敵なのだとか)、油断すると、いや、油断しなくとも、勝手にスッと入りこんできちゃうんですよね。
これで、私たちはつい人を論破したくなってしまって、すなわち席を強引に引き抜いたり、衣服を強風で引き剥がそうとするような行為に及んでしまって、相手は態度を硬化させて、当然考えを改めることもなくなるし、相手との溝は深まるばかりという、残念な結果に至ると。

なので、結論は先にも強調しているように結局は「人の考えを変えるのは難しい」ということではあるのですが、それでもこうして理屈を考えるのは一応は実践のヒントにつながる話ではあるはずです。

で、高級レストランのウェイターのように控えめに、理想的なリーダーのように静かに導く、そういう態度を目指すという時は、結局は「自分が正しくて相手が間違っている」という自意識を抑えるということであるでしょう。

ということは、これは裏を返せば「相手が正しくて自分が間違ってる」という可能性を意識的に取り込むということです。「相手が正しくて自分が間違っている」という可能性をつゆも認めないという態度は、「自分が正しくて相手が間違っている」と思ってるのと同義ですからね。

そして、「相手が正しくて自分が間違ってる」という可能性を認めるということは、「自分の方こそが考えを改めるべきかもしれない」という可能性を認めるということでもあります。

従って、大変興味深いことに、「相手の考えを変えよう」という目的に資する態度というのは、「自分の考えを変える心構えができていること」であるという、実に逆説的なことになるんですね。

「相手の考えを変えよう」と思っていたら、「自分の考えを変えよう」としていた……。

一見すると何を言っているのか分からない、頭がどうにかなりそうな展開ですが、でもこういうことになるのです。

まあ、江草自身がこの態度をちゃんと出来てるかというと、ちょっと怪しいにもほどがあるんですが、ともかくも理屈からするとこうなっちゃうよなあと、思った次第です。

ときに、本稿によって皆さんの考えが変わることがあるのか、ないのか。
はてさて、どうでしょう。



※なお、過去にもちょっと別の切り口で他人の価値観を変えるためのアプローチについて考えた記事があります。ご参考まで。


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江草 令
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