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「職業に貴賎はない」の死角

「職業に貴賎はない」という決まり文句あるじゃないですか。

平等主義の精神を体現する標語であり、江草的にも基本的には同意するところなんですけれど、最近、この標語には実際には死角があるなあと思うようになりました。

この標語が使われる文脈は不当に地位が貶められてる職種を擁護するケースが一般的だと思います。よく対象となるのは、いわゆる3K的な仕事であったり、セックスワーカーであったり。そういった特定の仕事を下に見るような態度をたしなめる。そういう意図がこの「職業に貴賎はない」の標語に含意されています。

ただ、そうした非常に尊ぶべき平等精神から来ている標語であるからこそ、この標語の保護の対象にならない唯一の存在が逆に浮き彫りになってるきらいがあるんですね。

その保護されない対象というのは「無職」です。

「職業に貴賎はない」はあくまで職業間の平等を謳った標語です。だから唯一「無職」だけは対象外になってしまうんですね。

偏屈な理系脳からすると、「無職」も「ゼロ(null)」という値を格納してる「職業」クラスとみなして保護対象にしてしまってもいいんじゃないかとも思わないでもないのですが、実際にはやっぱり対象には含まれないのが現実でしょう。

だから、それが意図してるか意図していないかにかかわらず、「職業に貴賎はない」と強調されればされるほど、そこには「でも無職は別だよ?」というメッセージ性が付与されてしまうんですよね。「人権」を強調しすぎると「人間以外」の権利が相対的に目立たなくなってしまうのと同じです。

「職業に貴賎はない」は職業に就いていること、すなわち、働いていることの賛歌に自然となってしまうわけです。これが実はうっすらと無職差別になりえる点には注意が必要でしょう。

この潜在的差別意識は、まず多くの方が想像されると思われるいわゆる「プー太郎」的な無職者に限らず、家庭で育児や介護などに従事している家庭内インフォーマルケア担当者にも及びます。一般的に「プー太郎」よりは敬意を払われてるとはいえ、家庭内労働はやっぱり「職業」とは言われないでしょう。

だから「職業に貴賎はない」と言う時には、知らず知らずのうちに、家庭内労働者を脇に追いやってしまう危険性があるわけです。この標語に悪意がないのも、意義があることも承知していますが、だからこそ、この標語が掬わない死角にも目を向ける必要があるのではないかと。


そして、「職業に貴賎はない」にはまた別の死角も存在します。

それは「それが職業であるならなんでも認めてしまう」ということの弊害です。

先に「職業に貴賎はない」は「無職」をのけ者にしてしまう潜在効果があると指摘しました。しかし、これは逆に「職業」であれば何であろうが承認してしまうという潜在効果を有していることの裏返しでもあります。

確かに、旧来からあって社会に必要な仕事がさげずまれることは良くないことでしょう。それを防ぐために「職業に貴賎はない」が掲げられる意義は分かります。

ところが、一般にはあまり意識されてないのですが、世の中「職業」というのはいくらでも作れるんです。この性質が非常に厄介なんですね。

たとえば、マッチポンプ的な仕事。別にそこにニーズはなかったのに、人々の不安を煽った上で、その不安を解消すると謳うアイテムやサービスを売りつけるという古典的な手法です。「霊感商法で壺を売る」みたいなやつをイメージすると分かりやすいでしょうか。

こうしたマッチポンプ的な仕事は、当然ながらうさんくさく意義が疑わしいと誰もが感じると思います。ところが、こうした仕事でさえも「職業に貴賎はない」は保護対象にしてしまいます。だって本当にそれは文字通り「たとえどんな仕事であってもそこに貴賎はない」と言っているのですから。

「職業」というのは基本的にお金を稼げていれば認められるものですから、マッチポンプ的なうさんくさい仕事であっても「職業」です。対して、先ほども述べたとおり、どんなに立派で重要な内容の活動をしていてもそれがお金が動かないボランティアであったり家庭内労働であったならば「職業」とはみなされない。

ここにけっこうな危険性があるように思うんですね。

もちろん、いわゆるマッチポンプ的な仕事をしている人もさすがに「私はマッチポンプをしています」と堂々たる顔をしているわけではありません。あくまで「社会に有用な仕事をしています」という顔をしています(建前でそうしてる場合もあれば本当に本人自身もそう信じ込んでるケースもあるでしょう)。

ここで、ふと第三者の誰かが「その仕事ってマッチポンプっぽくない?本当に意味あるの?」と感じたとします。しかし、そこで直ちに「あなたの仕事は無駄なんじゃないの」と突っ込んで行くのは、けっこう躊躇われるのではないでしょうか。

なぜなら、それこそ、この世の中では「職業に貴賎はない」とされているからです。たとえパッと見で意味がなさそうに見えても、特定の仕事の価値を疑うことは、その職業を卑下する目線を注ぐことと捉えられてしまいかねない。すなわち「職業に貴賎はない」の倫理に抵触してしまう。だから、「あなたの仕事は無意味なんじゃないの」と内心感じたとしても、それをハッキリと口に出しては言いにくいのです。

なんだかんだ言って私たちはこの「職業に貴賎はない」の倫理を内面化しています。だから、なんか実態がよく分からない仕事を見かけたとしても「それでお金が稼げてるならきっと何らかの意義がある仕事なんだろう」と心の内で勝手に納得してしまいがちなんですね。

しかし、上で見てきたように、理論上、ここにマッチポンプ的な仕事がはびこるための隙間が生じてしまってます。「職業に貴賎はない」の倫理は職業であれば何でも保護してしまう。言わばオプトアウトです。その意義を疑わせるような具体的な証拠があれば事後的に覆しうりますが、実態が分からない見えにくいブラックボックス的な仕事は「それが仕事である(お金が稼げてる)」という点だけで、ひとまず尊重されてしまうのです。

そして、当然ながら、マッチポンプ的な仕事は堂々とマッチポンプであると宣言していることはなく、その身を隠しています。というより、具体的な実態がよく分からない仕事であればこそ、はびこるのです。家具の隙間などの目や手の届かないところにこそ埃が積もるように、よく見えない死角にこそそういうものは溜まるものなのです。

逆に言えば、「職業に貴賎はない」が本来保護対象としようとしてるような3K仕事等々は何をやってるか分かりやすすぎるタイプの職業なんですね。何をやってるかが具体的にイメージできるからこそ、皆がそこに個別に価値判断を付与できてしまう。その価値判断が低い方に偏りがちな職業というのが一定存在してしまっていて、それらを保護する目的で「職業に貴賎はない」は謳われているわけです。

ところが、それが他方では「よく分からない無意義な仕事」をも保護するという副作用を生んでしまう。どんな良薬も副作用が伴うことが避けられないように、「職業に貴賎はない」という標語も、その尊ぶべき意義の裏側で、いかんせんデメリットを伴ってしまってるわけです。


「職業に貴賎はない」という標語の意義は理解をしますし、それを決して否定するものではないのですけれど、その死角(副作用)にも時には注意を払わないと、それはそれでおかしな状態になるかもしれない。

このように江草は感じています。

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