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人は不安なのがデフォルト

誰だったか昔「安全安心とセットでよく言われるけれど、安全と安心は全く別のものだ」と語ってらっしゃった方がいたんですよね。江草もそれを聞いて、なるほどーと思った記憶があります。

確かに、よくよく考えたら、安全と安心って別の意味じゃないですか。でも、ニコイチの慣用句的に一緒くたに主張されてる。

どちらも究極的には完璧を期すのは難しいと言えど、より厄介なのは「安心」の方だろうと思います。

安全か危険かって軸の話の時は、ある程度「具体的な脅威」を想定しますよね。「階段のここで足を踏みはずしたら下に落ちる人が出るかも」みたいに、「どういう危険があるか」が示されて初めて安全は議論の俎上に上がります。

でも、安心か不安かって軸の話って、もはや「具体的な脅威」がなくても話が出きちゃうんですよね。究極、「未来」さえあったら「何だか将来に漠然とした不安がある」みたいなことが言えちゃう。具体的な対象も理由もなくても、発生しうるのが「不安」なわけです。

確かに「不安」って嫌なんですよね。江草だって「不安」な状態は嫌いです。ただ、だからといってこれを根絶できるかというと、実際には難しいんじゃないかと思うんですね。

さきほど「未来さえあったら」と言ったように、詰まるところ「不確実性」さえそこにあれば必ず「不安」は生じるからです。「何が起こるか分からない」「予測できない」。ここに人は根源的な不安を抱いてしまうものです。

つまり、言ってしまえば、人は不安なのがデフォルトだと思うんですね。「未来」というどうなるか分からないものが、常に目前に存在しているので、不確実性から来る不安を根絶することはできない。

にもかかわらず、完全に不安を根絶しようとする。「安心」しようとする。それも、それこそ「安心安全」というセット慣用句が象徴してるように、本来別物であるはずの「安全」を求めることで達成しようとしてしまう。これが罠だと思うんですね。

そうした「ゼロ不確実性」志向は永遠の泥沼にハマる魔窟です。

この辺の詳細はこの過去記事にも書いてます。

一応、ひとつだけ「不安」を根絶する手があるとすれば、それは「安全確保」に頼るのではなくって、「未来」の方を消すことでしょう。

つまり、「今ここ」に集中して「未来」を見ないようにすれば、不確実性も消えるので、「安心」ということになります。仏教とかマインドフルネス瞑想とかがやってる作戦がこれですね。

でも、完全に「未来」を消しちゃったり考えないようにするのは、それはそれでやっぱり世俗的な現代社会に生きる凡夫である私たちには難しいものです。

ならば、もう「不安」とは常に付き合っていくしかないと割り切るしかないんじゃないか。と、こういうことになります。

実際、何とかして不安を消し去ろうとして、社会全体で変なことをしでかしてるのはままあるように思うんですね。消そうとしても消そうとしても消えないからずっともがいてるみたいな。

もちろん、安全を確保することや、不安を解消することが全て要らないと言ってるわけでもないのですけれど、最終的にどうしたって不安というものは消えないだろうと思ってる方がかえって健全なのではないかと思った次第です。

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江草 令
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