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購買行動の秘める社会貢献性

先日のこの記事で「購買行動も社会貢献だ」というコメントをいただきまして。

おさらいすると、この記事は「FIREなり生活保護なりで働かずにお金をもらうだけの生活は社会参画や社会貢献できずに辛いよ」という巷の言説に対して異議を唱えた内容でした。「働く」以外にも社会とつながる道はあるよねと。

ただ、コメントで指摘の、お金を使って物やサービスを買うという購買行動(消費行動)そのものの社会貢献性については記述していませんでした。これは確かに重要ポイントだなと思います。

そこで、今回は改めて購買行動の社会貢献性についての江草の私見をちょっと語ってみたいと思います。


ところで、皆さん市場原理大好きですよね。いや、嫌いな方もいるのは存じてるのですが、なんだかんだ私たちの住む現代日本は資本主義社会ですから、市場原理は有効なものとして広く受け入れられてると言えましょう。

市場原理の「良さ」を語る説明でポピュラーなのは以下のようなものでしょう。

市場で競争させると、良い物が売れて、悪い物が残る。あるいは不足してる物が売れて、余ってる物が残る。これにより、良い物や不足してる物を売る人が儲かるので、より良い物や不足してる物を作って売る、あるいは悪い物や余ってるものを作らない売らないインセンティブが生まれる。すると、自然と社会全体として豊かになるし、不足物がすぐ充足し無駄な物を作らない最適化も図れて、良いのだと。(ここでは記述の便宜上「物」に限定しましたが、「サービス」を含んでもらってもOKです)

実際には「現実でそんなにうまくいくもんかね」という疑問の余地はあるんですけれど、でもロジックとしてはまあ分かるし、多くの人が「こういうメカニズムが働いたら確かに良いよね」あるいは「実際にこのメカニズムが働いてるから社会が豊かになってる」と思っているから、市場原理は支持をされてるわけですね。

なので、今回はこれ自体に疑問を挟むのは置いておいて、世の多数派にならって、市場原理に期待されるこのメカニズムを肯定してる前提で話を進めます。

さて、このメカニズムが働くためには何が必要でしょうか。

まずは商品が無いと市場にならないので、商品を調達してきたり生産してきたりする人たちが必要ですね。つまり売り手です。

あとは売り買いするための通貨ですね。つまりお金です。ここも色々疑義が出やすい箇所なのですが(物物交換でいいとか、無条件の相互信頼でいいとか)、ここでは現代日本社会の日常に即して「お金は必要」ということにしておきましょう。

そして、忘れてはいけない存在が、商品を買う人ですね。お金を払って商品を受け取る人。買い手です。売り手だけいて買い手がいないと市場も何もありませんからね。

ここで、冒頭の記事を今一度振り返ると、「お金をもらうだけで働かないのは社会に必要とされてないことになるから辛いよ」という主旨の言説が発端でした。 「働く」とは「売り手であること」と言えますから、言説の主は「売り手でないと社会に必要とされてない」と考えていることになります。しかし、今見たように、市場原理の偉大なる、、、、メカニズムを駆動させるには「買い手」の存在が不可欠なんですね。その点からしても「売り手でないと社会に不要」というのは妥当ではないと言えましょう。

これだけだと狐につままれたような説明かもしれないので、もうちょっと詳細に見ていきますね。

市場原理のメカニズムを駆動させるときに「買い手」は何をしてるのでしょうか。単純に「欲しいものをゲットできてうれしい」「お買い物楽しい」みたいな「買い手」個人的なスコープで見ることもできますが、ここではもっと広く市場全体(社会)の視点での話です。

それは、「買い手」は「何を買って何を買わないか」という購買の選好によって、市場に「何が好まれているのか(あるいは何が不足しているか)」の情報を提供しているのです。市場での購買行動に、この情報提供が伴ってるからこそ「売り手」もそれに応じて生産や販売を調整するわけです。この「選好情報」は市場原理メカニズムを駆動させる上で価値ある存在なんですね。

こう言うと、もしかすると「情報なんてタダだろ」と思う方もいらっしゃるかもしれません。でも、世が空前の情報社会になってきている今時分ですから、むしろ逆に「情報は価値がある」という感覚の方がおそらく優勢ではないでしょうか。

買い手の選好の情報が十分に価値を持っていることは、たとえば、各企業が大規模システムを駆使しながら販売データを大変熱心に収集していることや、費用をかけて調査に協力してくれるモニターを募集して「何が好まれそうか」の情報を得ようと必死であることからも明らかです。「買い手が何を選んで買うか」は市場において重要なファクターなのです。

このことは、逆に「買い手」に選択の余地が全くない市場というのを想像してみても分かります。ある市場に(独占企業が居るなどして)一種類の商品しかない時には、「買い手」は「どちらが良いか」とか「どちらが好みか」と比較検討することが不可能ですから(比べるライバル商品がない)、そこに「どんな商品が良いか」「どんな商品が必要なのか」といった情報は発生しません。そうすると、市場原理メカニズムの利点であったはずの「より良い物やより必要な物の生産と販売が促進される」という効果が働かないことになります。買い手の「選好」があってこそ、このメカニズムは機能するのです。

※なお、一応、一種類の商品しかないケースでも満足度調査をすることなどはできるでしょう。それで「買い手」の情報は得られると言えば確かにそうです。ただ、「鉄道が登場するまでは人々は早い馬を欲しがった」とか「iPhoneが発売されるまではiPhoneを欲しがってる消費者はいなかった」などの文句も知られているように、「買い手」も実際に比較対照となる商品が登場してから初めて現行品の不便な点や不足な点に気づく傾向があります。だから、比較対照の商品が存在しない場合、すなわち選好が全く出来ない場合では、市場原理の有効性はやはり毀損されると考えるべきでしょう。

さて、このように「買い手」の購買行動による選好情報に価値があるわけですが、「比較対照の商品が存在する」だけでなくもう一点「買い手」が商品を選好するために必要な条件があります。

それは、「買い手が十分なお金を所持してる」という条件です。

たとえば、より良いお菓子やより求められてるお菓子の情報を得て、お菓子界の豊かな発展を期すために、子どもたちをお菓子屋さんに放って好きに買ってもらうことにするとします。
しかし、なんということでしょう。企画者はそのモニターとなる子どもたちに一銭も与えませんでした。
そうすると、当然ながら子どもたちは誰もお菓子を買うことができず、選好どころではありませんよね。美味しそうなお菓子たちを前に指をくわえて、手ぶらで帰ってくる他ありません。結局、その市場では全くなにも起こらないのです。
あるいは、子どもたちが10円とかほんの小銭しか持っていなかったとしても問題です。この場合も本当に安い小さな駄菓子を買うぐらいしかできないので、事実上、選好の余地がなくなってしまう(市場に一種類の商品しかないケースに似る)わけです。

つまり、市場で買い手に商品を選好してもらって、その情報をもとに市場原理の発展的メカニズムを駆動させるためには、買い手に十分なお金を与えないといけません。

さあ、これでつながりましたね。

問題の「FIREなり生活保護なりで働かずにお金をもらうだけの生活は社会参画や社会貢献できずに辛いよ」という言説。
これはまず先に確認したように、「買い手」の購買行動が市場原理メカニズムを駆動させる上で不可欠な社会貢献行動であることから妥当ではないのでした。
そして、加えて、そうした購買行動による選好を実施してもらうためには、そのためのお金を買い手に与える必要があることも確認しました。だから、そうした人たちに一定のお金を与えることも「購買による社会貢献」に必要なステップなのです。これを、件の言説はあたかも「社会から施しを受けているだけ」かのように捉えてる点が、妥当ではないのですね。

もっとも、現行の世の中では、このような理屈で「お金を与えること」は正直、よしとされていません。現実には「自身で働いて稼いだお金で購買すること」が強く前提とされてる向きがあります。すなわち、まず人は「売り手」として貢献してから初めて「買い手」になる権利があるという感じなんですね。だから、先ほどの江草の結論も「働いて社会に貢献してない者にお金を与えるのはおかしい」と反論されることが予想されます。

しかし、この反論もやはり妥当ではないように思います。

まず、今回の論は「売り手でないと社会貢献してない(社会に必要されてない)」とする主張に対する疑義でした。だから「買い手であるというだけでも(売り手かどうかに関係ない)独立した社会貢献性がある」と示したわけです。
これに対してわざわざ「働いて社会に貢献してない者にお金を与えるのはおかしい」という反論が下されるならば、これは結局は「働いている者」すなわち「売り手」こそが社会に貢献しているのだという意識を含意しているように思われます。しかし、これはトートロジー(循環論法)です。
「売り手でないと社会貢献してない」に対して「買い手でも社会貢献になる」を提示したのに、「売り手でないと社会貢献してない」とまた元と同じ内容で反論されても困るわけです。売り手かどうかは関係なく、「買い手には社会貢献性はないこと」を示さないと反論にはなりません。

また、今回、有効であり推進すべきものとして前提とした市場原理メカニズムを適切に駆動させる意味でも、「売り手役を果たしてからでないとお金を与えない」という意識は問題になりえます。
というのも、「売り手役」というのはつまり「働いている者(あるいは過去に働いた者)」ですが、「売り手でないとお金が所持できない」になるならば、「働いている者」という属性に含まれてる者の購買選好情報ばかりが市場にもたらされることになります。これは市場(なんなら社会)を「売り手役」に限定的に閉ざすことであり、むしろ市場を縮こませるやり方なんですよね。
もともと、今回も市場メカニズムが社会全体が豊かになることを期待されて支持されているという前提ですから、この対象を限られた人たちに絞ってしまうのは、この前提を覆すもののように思われます。市場原理支持者でありながら、市場原理が働く場を閉鎖的に縮小させようというのは何とも矛盾なのです。

そして、今回の話はあくまで買い手の購買行動による社会貢献のためには一定のお金を与えないといけないと言ってるだけで、売り手よりも買い手が偉いだとか、売り手と買い手が同等であるとも言っていません。結局はどの程度の金額を買い手に与えるべきかというのは未整理の議題として残っているわけです。だから、たとえ、「売り手」の社会貢献性の方が高いという信念を持っている方であったとしても、必ずしも「売り手」の優位性まで否定されたわけではないのですから、「一切買い手にタダでお金を与えるべきではない」とまで完全否定する必要はないはずです。

さらに、ダメ押しで言いますと、市場原理主義者の大家として知られる、かのミルトン・フリードマンでさえも、「負の所得税」という「ただでお金を与える」制度を提案しています。この点からしても、市場原理メカニズムを肯定するならば、「タダで買い手にお金を与える」という措置に社会的意義が見出されると考えるのはさほど不自然でないと言えましょう。

従って、「買い手にその社会貢献性を十分に発揮してもらうためにお金を与えること」の正当性に反対するのであれば、この論が市場原理を前提としている以上は、それはむしろ市場原理主義そのものに対する挑戦となるでしょう。
もちろん、反市場原理主義者として論を張るのも各自の自由ではあるのですが、反市場原理主義を標榜しながら「売り手こそが社会貢献しているのでお金をもらうべき」という、とても市場に依存してそうな主張を同時にするのが可能かどうかはまた別途考えないといけない気がします。


というわけで、以上のように、市場原理メカニズムを前提とすると、市場の発展という社会貢献のためにも、買い手に無条件にお金を与えることが肯定されることになります。

世の中では一般に、ただお金をもらって消費しかしてない者をフリーライダーとみなす傾向がありますけれど、それは購買行動の社会的意義を無視したもので、妥当ではないのです。(もし、そこにフリーライダー的な問題があるとすれば「その人物がお金をもらってる」という抽象的定性的事実よりも「その人物のお金のもらい方」という個別具体的な内容にあるでしょう)


とはいえ、理屈はどうあれ、人は物を贈与されすぎるとそれはそれで辛くなるという心情的な問題があることは確かに知られてます。いわゆるポトラッチの問題ですね。人間心理には人に与えられたら返さないといけないと(ある種強迫的に)考える「返報性の原理」があるそうで、とても返せないほどの贈与を受けると、苦しんだり、なんなら贈与者をむしろ憎むケースがあるんだとか。冒頭の言説もこうした「施しを受け続けると辛い」という感覚を想定してると考えると気持ちは分かります。

しかし、これは発想の転換が必要なポイントだと思うんですよね。

確かに、「物」や「サービス」をただ受け取り続けるだけなら、ポトラッチで返礼できないみたいな状況に陥るので辛いかもしれません。でも、今回の話でもらってるものってあくまで「お金」なんですよね。「物」や「サービス」という現実での具体的な存在や活動ではなく、「お金」という抽象物を受け取ってるに過ぎません。極論、それは、現実には紙幣という名の紙切れであり、硬貨という名の金属板に過ぎませんし、銀行口座であれば通帳の文字やデジタルデータに過ぎません。冷静に見ればそれ自体には価値が無い、とても抽象的な存在です。

もちろん、その「お金」を利用して「物」や「サービス」を結局は受け取るわけですが、その「物」や「サービス」を受け取る過程で必ず入る工程がありますでしょ。
そう、お気づきの通り、それは「購買選好」です。そのお金で「何を買うか何を買わないか」を選択するというステップが「物」や「サービス」を受け取る前にあるわけです。

して、本稿で繰り返し指摘したようにその選好ステップには社会貢献性があるのでした。だから、何を買って何を買わないかの選択にお金をもらった者が関わることで、社会に返礼はしていることになるんですね。
それが十二分なお返しになってると思えるかどうかは人によっても異なるかもしれませんが、でも、返礼は皆無ではない。
たとえば、巷の出産祝いの内祝いや香典返しもあえて全額を返しきるわけではないのですから、一定程度返すだけでも、それは十分に「施しだけ受けてる存在」からは脱せてると言えるのではないでしょうか。

すなわち、社会があなたにお金を与える時、それは「市場での購買選好の仕事」を依頼されてると言えるわけです。「買うべき物を選ぶという仕事に対してお金をもらう」のであれば、極論それを「働いてる」とみなすことだってできるでしょう。

※ちなみに、この点に、江草がベーシックサービスよりもベーシックインカムが望ましいと考えてる理由があります。ベーシックサービスは直接的に具体的な物やサービスが提供される仕組みなので、先ほど言った「施しを受け続ける苦悩」に陥りやすいのではないかという懸念があります。他方で、ベーシックインカムはお金をまずは渡す仕組みですから、受益者が何を買って何を買わないかの選好の意思表示ができる余地があるんですよね。ベーシックサービスはどうしても受動的で、ベーシックインカムの方が能動性が保たれてるわけです。


以上、思いのほか長くなりましたが、購買行動も社会貢献なんじゃないかなあというお話でした。「働く」「生産」ばかりが社会貢献ぽく語られがちな世の中なので、天邪鬼マンとしてあえて逆の側面の指摘を試みてみました。

なお、本稿では「社会貢献」にばかり注目して、前回これも議題になってた「社会とのつながり」という点についてはあまり触れてませんでしたね。これはまた別の問題になるのですが、大量生産品が定価で出回り機械的に売買されるいわゆる「市場(しじょう)」ではなくって、個人商店やフリマのように人と人が出会いコミュニケーションを取りながら売買が行われる「市場(いちば)」であれば、「社会とのつながり」を保つきっかけに「購買行動」もなりえる気はしています。

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江草 令
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