見出し画像

昭和叩きが終わり平成叩きが始まる

一昨日昨日と世代論に手を出してしまいました。

世代論というのは、膨大な人数がおり当然多種多様であるはずの一世代の人々をまるごと「○○世代はこういう性質がある」と言ってしまう「主語が大きい」論であり乱暴なものです。でもやっぱり、それでいながらにしてついつい考えてしまう不思議な魅力があるのが世代論ではないかと思います。

ならば、いっそ皿を食らわば毒まで。今日はさらに踏み込んだ世代論を語ってみましょう。しかも、未来予想図です。江草独自の視点で今後の世代論の展開を占ってしまおうという明らかに危ない感じの企画です。

まあ、予想というものはだいたい外れるものです。というよりむしろ外れることを期待している面があります。予想というのは「それが運命ではなく何か対処ができる余地があるはず」と思ってるからあらかじめ予想を提示するのです。結果として予想通りの展開にならないということは、それこそ「予想をしたことが効いた可能性」もあるということで、予想者の期待するところなんですね。

予想とはつまり「このまま何もしないとこうなっちゃうんじゃないの」ということを指摘するもので、皆の行動を促すための前向きな試みなんです。それが当たるかどうかは実は本質的な問題ではないわけです。


人口に膾炙した「昭和叩き」

という感じで、言い訳がましい前口上を置きましたが、ではそろそろ肝心の江草の独断と偏見による世代論の未来予想図をご紹介しましょう。

まあ、ぶっちゃけ、この記事の表題の通りなのですが今後おそらく「平成叩き」が始まるって未来を予想してるんですね。

いやね、皆さんお気づきのことと思いますけれど、今や「昭和叩き」はそこら中で見られてます。男尊女卑的な価値観、「男は仕事、女は家庭」みたいな固定的性別役割分担観念、国や会社に滅私奉公する姿勢、タバコや体罰、下ネタ、怒声を躊躇わない感覚などなど。これらのことをしたり肯定しようものなら、すぐさま「不適切だ」とボコボコにされかねません。


『不適切にもほどがある!』

記憶に新しいのはドラマ『不適切にもほどがある!』でしょう。

1986年の昭和時代から2024年の令和時代にタイプスリップしてきた「昭和のオヤジ」が、当然現代においては「不適切」な言動をしでかすというギャップを描いたコメディタッチのドラマです。

こうやって昭和の価値観を相対化して見るドラマが人気を博することは、「昭和叩き」がもはや広く人口に膾炙していることを示唆しているでしょう。「今の時代はもうそうだよね」と大衆が認識しているからこそ、このドラマがドラマとして成立するのです。


NHKでも進む「昭和的価値観」の相対化

あるいは、NHKの番組でも昭和的価値観からの脱却の光景が見られます。

たとえばこちらは「子どもを持たない」という個人の自由を尊重した内容の特集です。「女性は子どもを産むべし」という昭和的価値観に対する批判を隠さずに前面に出していました。

または、こちら。地方から若い女性がどんどん転出して行ってしまってる現状を紹介しています。地方から出て行っている原因として「地方の昭和的価値観」が大きく取り上げられています。中には「地方は(昭和時代どころか)江戸時代」とコメントした方までいて、話題になっていました。


自省する「昭和」世代

なんなら、「叩く側」だけでなく「叩かれる側」にも変質が見られています。こちら、昭和的価値観と自認している父親が、そのことに悩み自省をしてるというポストも話題になってました。


「昭和叩き」は圧倒的優勢になった

このように「昭和叩き」は世の中にかなり浸透していて、下手をすると「あの人って昭和だよね」と言えば悪口になるほどです。

変な話、もはや大勢が定まっているので、昭和叩き側は安心して、、、、昭和を叩くことができるぐらいの状況です。

昭和叩きを叩く者はいないか、いても少数かつ劣勢なので、現時点ではいくらでも叩き放題なのです。


「昭和叩き」が起きたなら「平成叩き」も起こりうる

しかし、ここで改めて行いたいのは、叩かれてる昭和的価値観の世代の方々の心情の想像です。


「まさか常識が覆るとは」

確認しますけれど、「昭和な方々」からすると「昭和的価値観」は常識的な感覚だったわけですよね。少なくとも当時はそうであったはずです。だって、そうでないと「昭和的価値観」と呼べないでしょうし。

それが時を経たら、自分たちにとっての「当たり前」「常識」であった「昭和的価値観」が、気づいたら「不適切だ」「アップデートしろ」と言われるようになっていた。

その価値観内容自体の是非はともかくとして、この体験は当事者たちにとってかなり戸惑いを呼ぶものだろうと想像はできますよね。「正しい」と思っていた自分たちの世代の信念が、「誤り」扱いに一転してしまったのですから。

きっと「まさかそんなことになるとは」と感じたはずです。


その時代の常識を信じてるのは「平成世代」も同じなのでは?

で、ここが肝要なポイントなのですが、「昭和的価値観」に起きたことが「平成的価値観」に起きないとは言えないだろうということです。

確かに私たちは昭和的価値観に違和感を持っていて、時にそれを叩きます。そして、今の私たち世代が共有している価値観をみなで「正しいよね」と頷きあいながらこの世を謳歌しています。

「この感覚が常識で当たり前で正しいに決まっている。ほら、その証拠に周りのみんなも同意してるし」

でも、それって「昭和的価値観」世代の方々も、当時同じように思っていたんじゃないでしょうか。

しかし、それは覆ってしまった。「昭和叩き」が一世を風靡するまでになった。

ならば、昭和的価値観の方は滅びるべくして滅びたもので、現在の価値観の方は決して滅びずに永続する絶対善であるとみなすのは、けっこう危うい見方なのではないでしょうか。

もちろん、「続かない」という確証はありませんが、「続く」と考えるのも素朴にすぎるのではないかと思うわけです。というより、人類の歴史を見ると、むしろあっさり覆る可能性の方が高いのではないでしょうか。

すなわち、「昭和叩き」が一巡して下火になった頃に、今度は「平成叩き」が始まるんではないかと。それこそたとえば「令和的価値観」を持った方々が主流になった時に。

そう、世代交代はきっと来ます。来ないと考える理由の方が乏しいでしょう。

補足ですが、ここでの「昭和」「平成」は必ずしも生まれた年の元号を指すものではありません。昭和に生まれた人も平成になってから物心がついたならば「平成的価値観」に染まりうるでしょうし、平成初期に生まれた人が色んな事情で「昭和的価値観」を引き継いでいるケースもあるでしょう。また、当然、令和になっても「平成的価値観」はしばらく生きています。将来来たる大型新人の「令和的価値観」はおそらくまだ確立してないけれど着実に育ってきていると思われます。すなわち、生年などできっちり人を仕分けるものではなく、ある程度アバウトにその時代主流の価値観を指すための用語として捉えていただければと思います。


今後叩かれるかもしれない「平成的価値観」

さて、ここからはさらに輪をかけて私見オブ私見になりますが、どのようなものが「平成的価値観」で、そしてそれがいかにして叩かれうるかを挙げていってみたいと思います。


拝金主義

将来、「古くさい平成的価値観」として否定的に扱われるのではないかと思うのは、その特有の拝金主義です。

ちょっと露悪的な表現ですが、最も極端な例を出すと「高所得者であるほど顧客のありがとうをたくさん集めておりその上税金をたくさん納めてるのだから社会に貢献してるのだ。低所得者はありがとうも集められていない上に税金をほとんど納めておらず社会のフリーライダーだ」的な感覚ですね。

お金を稼いだかどうか、税金を納めたかどうかで、人の価値や貢献度合いを見ている。すなわち金で人を測る感覚です。

上の例ほど極端でなくても、1人当たりの稼ぎを計算して「生産性が高い低い」言うのは、現代ではけっこう「当たり前」のように行われてるでしょう。

これは将来的には見直されるんじゃないかなあと予想しています。

たとえば、その萌芽と見ているのが、育児版「ショー・ザ・フラッグ」の問題です。これは、先日記事に書きました。

言及した元ネタはこちら。

金を稼いで家計に入れてるだけでは育児に貢献したとみなしてもらえないようになって、実際に育児に現場でコミットしたかどうかが問われるようになったという話。

これは「お金だけでは貢献と言えない」という感覚が浸透してきていることの兆候と言える気がしています。

だから、将来「俺はお金を稼いでるからエラい」とか「お金をいっぱい支払ってるんだからいいでしょ」などという態度は、「うわ、平成だ……きっつ」と言って叩かれる可能性があるかもしれません。


金融資本主義

前項にも関連するのですが、派生して相対化が起きそうなのが金融資本主義です。

NISAだ、iDeCoだ、FIREだ、などと、投資をすることが当たり前になりました。「お金に働かせよう」といって、実労働をするよりも投資で稼ぐことが賢いのだという感覚は、現時点ではとても常識的です。

たとえば、こんな感じですね。

 生活防衛のために最もわかりやすく挑戦しやすい方法は、自分の収入の一定額を「資本」に投資し続けることです。
 せっかく新NISAがはじまったのですから、利用しない手はありません。おすすめは全世界株式のインデックスに連動する投資信託に、毎月一定額をつみたて続けることです。誰にでもできます。最初は少額でも問題ありません。
 極端な表現かもしれませんが、「これからの労働」は、私たちが資本(この連載でいえば全世界株式インデックス型投資信託)に投入するお金を稼ぐための手段でしかありません。

これも言ってしまえば、お金の複利パワーによって現場での実貢献をせずに済ませようという発想ですから、「ショー・ザ・フラッグ」的には許されないことになってきます。

実際、国政の面でも「金融所得課税」が保守的なはずの自民党からですら出てくる状態です(出ては引っ込んでを繰り返してはいますが)。

将来的に現在の私たちの「常識」が覆って、「金融資本主義は行きすぎた」という感覚が拡大する可能性はあるでしょう。

あと、これは江草もまだ読んでませんが、パラパラ立ち読みしたところ森永卓郎氏の新刊『投資依存症』は面白そうでした。現行の投資主義のトレンドに一石を投じる内容です。これも、将来の「平成叩き」の始まりかもしれません。


個人主義

また、今をときめく価値観である「個人主義」も危ないかもしれません。とりあえずなんでもかんでも「個人の自由でしょ」と言うことで正当化が見込めるのが今という時代です。

おそらくこの「個人の自由」という感覚は、そのままがっつり否定されるわけではないと思います。それなりに前向きに受け入れられるでしょう。

ただ、今後の世代が個人単位で動くよりも小規模コミュニティで動くようになりそうな点で、徐々に「個人の自由」を強調する感覚が下火になるのではないかという予感がしているのです。

まず兆候として一つあるのが家庭において「共働き・共育て」という夫婦単位の協調関係が重視されるようになってきたことです。夫婦や家族は「最小のコミュニティ」と言われますけれど、個人単独で動くのではなく、協力して動こうという意識の高まりを思わせます。

家庭関係に限りません。これは『Z世代化する社会』にも紹介されてたところなんですけど、若者世代は個人単位で一匹狼的に動くというよりも、気の知れた仲間と「クローズドなコミュニティ」を形成する感じのようなんですね。友達を大事にするし、友達からどう見られるかをかなり意識してる。SNSやDiscordなどのデジタルツールの発展で、クローズドなコミュニティが築きやすくなってることも支持的に働いていそうです。

要するになんだかんだ人が「群れる」ようになってきてるわけです。

もっとも、これは昭和的なムラ社会、集団主義、組織主義とも異なっています。

つまり、勝手に否応なしに割り当てられた人間関係の中で「好きでもない人間と一緒にでもそれでも和を以て貴しとなす」という昭和的感覚ではないんですね。

そうではなく「好きな人間と一緒につながろう」という自発的で快適な人間関係を目指している感じなんです。今や「嫌いな人間」「アンチ」は即ブロックですからね。

しかし、好き同士の者達が集まったとしても、それはそれでコミュニティではありますから、本当の意味で自分勝手には振る舞えません。自ずと個人主義的発想ではなく、「このコミュニティにおいて最適な協調的言動は何か」というのを意識するようになるでしょう。

すなわちアトミックな個人としての自分ではなくって、スモールな人間関係の中にあえて所属する自分を見るようになる。

そうすると、ガチで個人主義的に振る舞ってる者を見た時に、「自分勝手なやつだな、つながらんとこ、ブロックしとこ」になる可能性はままありそうです。

「人それぞれだからね」という多様性感覚は残していているので、積極的に排除するわけではないまでも、「自分たちのコミュニティには入れてあげない」という消極的なプロセスでの個人主義排除現象が生まれる予感がしています。


競争主義

お次は、競争主義。

これも現代を象徴する価値観ですが、おそらく見直される時が来るだろうと思います。

「平成」的な現代感覚では火力兵器を用いたガチの戦争は御法度なので、ここでの競争はビジネス、すなわち経済競争を想定しているものですね。

たとえば、こんな感じで「生き残るには」とか「勝つためには」とかいう言説は現時点では溢れてます。(だいたい言うのはビジネスエリート層です)

これは人々がみな「生きるか死ぬか」のサバイバル競争に参加しているという感覚があるがゆえの発言なのですが、将来的には「平成すぎる」と眉をひそめられる可能性はないとは言えないでしょう。

多分、これも個人主義から小規模コミュニティ主義に移行することで発生する変化ではないかと想像しています。好き同士で集まったコミュニティだと、やっぱり自然と協調しようとして、露骨な競争を避けると思うんですね。

現代の若者は「君が一番成績優秀だ」などと皆の前で褒められるのをむしろ避けたがるという話もあります。

みんなから抜きん出ることをあまり望んでない。そうやって「一番優秀」を狙うのっておそらく個人主義的な競争感覚なんですよね。(かといって「みんなと一緒」も嫌なので「平均ちょっと上」を狙うのがZ世代の特徴であると『Z世代化する社会』でも指摘されてましたが)

平成から令和に至り、競争主義から脱却しつつある世相はいわゆる"タワマン文学"でも描かれ始めています。

麻布競馬場さん
「僕自身は平成3年生まれで、自分の“地元”は明確に平成なんです。平成での“人生のゲーム”って、いい大学に入っていい会社に入って、いい給料をもらってきれいな奥さんをもらって、タワマンに住みながら頭のいい子を育てて、労働者を再生産していく。ある種の経済的成功を目標としたゲームだと思っているし、その象徴がタワマンだったと思うんです」
「しかし、今の20代、いわゆるZ世代と呼ばれる人たちと話すと『もう東京にもタワマンにも憧れない』と彼らは言う。『では、皆さんはタワマンなきあとにどこに行くんですか』と聞くと、『いや実はそれは分からないです』と。タワマンの時代は終わったけれど、次に僕たちはどこへ行くのかという惑いと不安、これはこれからの時代の空気になるのではないか。その気づきが今回の執筆の発端になっています」

だから、将来的に「そんなことじゃ生き残れないぞ」とか「勝つためには努力してスキルとキャリアを積まなきゃダメだ」みたいなことを言ったものなら、「あなた一体何と戦ってるんですか?もう平成の戦争時代は終わったんですよ?」と言われるかもしれません。


仕事中心主義

そして、最後、上の諸々をひっくるめると自然と出てくるところなんですけど、仕事中心主義も見直されるだろうと思います。

「お金を稼ぐこと」が絶対善でなく、競争主義が前提でなくなったなら、そして個人主義的に自身のアイデンティティを仕事に求めることがなくなったなら、自ずと仕事中心主義から世の価値観は離れていくはずです。

実際、長時間労働が避けられ、週3日労働が議論され、働き方改革が進んでます。仕事の地位は既に揺らぎ始めているのです。

特に世界的な少子化も言われる中で、家庭における出産育児の地位もますます上がることでしょう。仕事を超えるかどうかはさておき、肩を並べるまでには至るかもしれません。

仕事と家庭の両立は、現在の私たちの大きな悩みですけれど、その悩みは世間的に「仕事の比重が強すぎること」が一因しています。家庭の大事さが見直されるなら、同時に仕事の比重の高さも修正されることになるでしょう。

「仕事してこそ社会貢献」とか「働いてないなんてダメだ」とか、そうした仕事中心主義の感覚は「平成の遺物」として将来叩かれる可能性は十分にあるのではないか。そのように思います。


「平成叩き」は「昭和回帰」ではない

というわけで、完全に独断と偏見による「平成叩き」の未来予想図を披露してみました。いかがだったでしょうか。

異論反論はいくらでもあるかと思いますが、少なくとも、私たちが今や常識としてインストールしている「平成的価値観」が、将来もしかしたら覆るかもしれないという感覚は共有できたのではないかと期待します。

で、こうした「平成叩き」が生じるときに、おそらく起きてしまうであろうことは、これを「昭和回帰」と決めつける誤解です。

今の「平成的価値観」は、どうしたって「昭和的価値観」が仮想敵なんですね。「昭和」から脱却すべく生まれ出た価値観だからこそでもありますし、そもそも「平成的価値観」が勃興する時分には将来世代(令和的価値観)はまだ生まれてなかったから仮想敵にしようがなかったのです。

だから、自分たちの「平成的価値観」に反発があると、それは唯一無二の敵であるはずの「昭和的価値観」から来てるに違いない、と思い込みやすい構造になっています。

実際、それで正しかったのだと思います。これまでは。

しかし、今後、平成が終わってから久しくなり、令和が深まって行くにつれて、決して「昭和的価値観」ではないタイプの「平成叩き」が生じてくることを覚悟しないといけません。つまり「令和的価値観」による「平成叩き」の登場です。

当然ながら「令和的価値観」は「昭和的価値観」とはまるで違います。「昭和的価値観」が「大正的価値観」でも「明治的価値観」でも「平安時代的価値観」でもないように、「令和的価値観」はまた新たにアップデートされた感覚として登場するはずです。

それを「自分たち平成を叩いてくる者だから昭和に違いない」と決めつけてしまうのは大きな見誤りになるでしょう。

これが問題なのは、単純に誤ってるというだけでなく、それを繰り返すと話が噛み合わなさすぎて「平成は話が分からない人たちだ」と次世代から愛想を尽かされる懸念があるからです。

たとえば、(これも江草の私見が強めの例で申し訳ないのですが)少子化対策の議論で子育て支援の増強を謳う場面。時にこういう批判が出てきます。「女性を子どもを産む役割と決めつけるな」「女性に家庭に入れと言うのか」などと。

確かにこの反発は「昭和的な性別役割分担意識」に対する反応であれば妥当なのですが、別にそういう昭和的価値観から子育て支援が言われてるわけではない可能性を見落としています。

今や基本的には出産育児をしたいと思ってるのにハードルが高くてなかなかできない男女に対して支援する提案であるにもかかわらず、勝手にうがった見方をして、すぐさま「男女差別」の文脈に回収してしまうのです。ずっと「昭和」と戦ってる感じです。

なんだかんだ言って、育児に主体的に携わってる男性もかなり増えてきていることを忘れてはいけません。ゆっくりとではありますが、時代は変わってきているのです。

もっとも、これがややこしいのは、実際にまだ「昭和」も生き残っているからです。たまにほんとに「女には出産を義務づけるべき」みたいなことを言う人がいるから困りものです。だから、昭和の男女差別的な社会に回帰することを懸念する気持ちが間違いであると言ってるわけではありません。

ただ、相手が本当に「昭和的価値観」として言ってるかどうかは注意して見る必要があるでしょう。別に「昭和的でない人」に対して「昭和め!」とレッテルを貼ることは、お互いにとって決して良いことではないはずです。それこそ将来的に世代間闘争の火種になりかねません。

「これだから平成は」と言われちゃうのは非常に悲しいことではないでしょうか。


まとめ

というわけで、めちゃんこ長くなりましたが、江草の独断と偏見に満ち満ちた世代論未来予想図編をお送りしました。

とにかく言いたかったことは一点で、「昭和叩き」がこれだけ広まったのだから、自分たちが叩かれる側に回る「平成叩き」も覚悟と準備をしておかないといけないのではないかということです。

たとえば、先に触れたドラマ『不適切にもほどがある!』のラストが話題になりました。

最終回が幕を閉じると、画面には“この作品は不適切な台詞が多く含まれますが時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性に鑑み2024年当時の表現をあえて使用して放送しました”とのテロップが映し出された。

「2024年当時の表現をあえて使用して放送しました」

そう、私たちの現在の価値観も今後どう評価されるか分からないのです。

社会の価値観が変わってしまう可能性に私たちが事前に気づいていたとしてもやっぱり叩かれちゃう可能性はあるかもしれませんが、それでも新時代の価値観の者達と対話するための最低限の準備として、こうした未来予想図について(それが当たろうが外れようが)考えておくべきではないでしょうか。

実際、今現在「価値観をアップデートしろ」と私たちは言い続けてるわけで、それを自分たちに適用しないわけにもいかないでしょうし。

いいなと思ったら応援しよう!

江草 令
江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。