「知のメタボ」を整理する
新版が出てたということで、名著と名高い外山滋比古『思考の整理学』を読んでいたのです。名前は知っていたし、テーマも明らかに江草の大好物のものにもかかわらず、実は今回が初読。
して、やはり名著。グッとくる箇所が多々ありました。
たとえば、こちらの「知的メタボリック」の一節。
知識は「たくさん溜め込めば溜め込むほど良い」というわけにはいかず、消化したり、要らない知識を排出したりして、「整理」する必要があると。ただただ溜め込み続けるのは「知的メタボリック」で危険な状態であると。
いや、これほんとそうだと思うんですよね。
江草も以前、「人類知の拡大のため」と言って学術界は研究支援を推し進めてるけれど、それが人類皆に整理共有されないと本質的には「人類知の拡大」とは言えないのではないかという問題提起を書いています。
そして、拡大ばかりして、整理と共有がおろそかになったら、知はバラバラに霧散してしまうだろうと危機感を持っています。(このバラバラになってしまう悲劇的結末を「知のビッグリップ」と江草は呼んでいます)
しかし、江草ごときが書かずとも、さすが外山滋比古氏は既に40年以上前の『思考の整理学』で、「知を溜め込むばかり」の危険性を喝破されていたわけです。
自分が思っていたことを過去に誰かが指摘されてるというのは、もはや「先を越された!」と悔しいという気持ちは湧かず、むしろ「独自に至った境地が肯定されててホッとする」という感があります。やっぱり別々のルートで同じ結論に到達してくれる方が多ければ多いほど、その結論の蓋然性が高い気がするのです。
そういう意味で言うと、こうした「知の整理の必要性」というのは、たとえば株式会社COTENの歴史データベースのビジョンにも通じるところがある気がします。
株式会社COTENは、人文知を整理し万人が利活用しやすくすることが社会に必要として、かねてから歴史データベースの開発をされてますし、この度、人文知研究所を発足させたりと、活発に人文知と社会をつなぐプロジェクトを推進されています。
あるいは、知的生産技術クラスタの雄、倉下忠憲氏の『思考を耕すノートのつくり方』に込めた想いも、同じく「知の整理」に対する熱意ではないでしょうか。
真に適切なノートの使い方は人それぞれだから、ただ完成されたノート術をポンと与えても仕方が無い。そこで、各々が自分に合ったノート術をカスタマイズしやすくなるよう、様々なノート術を整理し体系化を図ったのがこの『思考を耕すノートのつくり方』であると。
それぞれの人たちが別方面から同じく「知の整理」にたどり着いている。これは偶然ではありえないと思うんですね。
現代社会が知識社会と言われて久しくなって、知があふれるようになってしまった。にもかかわらず、社会的に知を拡大することばかり志向して、整理共有することを怠ってしまった。知を拡大したり生み出したりした人や活動ばかりが賞賛され報酬が与えられていたわけです。
でも、これこそ外山滋比古氏が言う「知のメタボリック」の社会版でありましょう。
社会における「知のメタボ」がどんどん煮詰まっていくにつれて、しかしさすがに「これではいかん」として、知的整理のノウハウを提言したり、実際にプロジェクトを動かす人たちが現れたわけです。
『思考の整理学』から40年。「知の拡大」の意義だけでなく「知の整理」の意義にもようやく目が向けられるようになってきたと。
「知の拡大」が無意味になったわけではありません。「知の拡大」に魅入られて、もっともっと研究したいという気持ちは分かりますし、それを止めるものではありません。
ただ、そういう「知の拡大部門」だけではもはや立ちゆかなくなってるんだと思うんですね。
知の前線を押し広げる人ばかりでは、ただ「知のメタボ」になるだけ。今こそ、社会の中で知を整理する作業を担当する者が求められているのです。
かつて、人々が飢えに苦しんでいた時代もありました。食べ物は大事。摂れる時に摂れるだけとっておけ。そういう時代ならそういう価値観になるのは自然です。しかし、今や飽食の時代となり、摂れるだけ摂っていたら、メタボになります。それで私たちは「ダイエット」に目覚め、摂る量をコントロールし、運動なりして健全に燃焼させようと考え方を切り替えるようになりました。
あるいは、物も。人々が貧しくて、ちょっとした日用品でさえ貴重な時代もありました。物は大事。買えるだけ買っておけ。いつか使うかもしれないから取っておけ。そういう時代ならそういう価値観になるのは自然です。しかし、今や物が溢れる時代となり、思いつくままに買うだけ買っていたら、汚部屋になりかねません。そこで、こんまりメソッドに代表される「片付け術」や、もともと最小限しか物品を購入しない「ミニマリズム」が登場し、物品に向き合う考え方が変わって来つつあります。
これらと同じ事が、おそらく知にもやって来たのです。知もそろそろ「蓄えるだけ蓄えればオッケー」というフェーズから切り替わらないといけない。知のメタボを解消するために、私たちが抱える膨大な人類知をどう整理するかに向き合う時代になりつつある。
日本の研究力低下が著しいとして、研究支援を求める声がそこかしこで聞こえています。気持ちは分かります。ただ、一見遠回りでも、今は直接的な研究支援よりもまずはそこ(社会における「知の整理部門」)を固めることで、結果として最先端研究者(知の拡大部門)にも益があるのではないか、そのように思います。
メタボなままでは、図体だけ大きくて筋力がないために、どうしても立ちゆかなくなりますからね。知の血流が社会の中で循環し、社会の栄養源として健全に機能してこそ、私たちはもっと知を摂取できるようになるのだと思います。
急がば回れです。