行政は線形モデルにこだわりすぎてない?
保育士の配置基準がかなり過酷であるというニュースを見まして。
1人で30人の子どもをみるとか、これはほんと大変だろうなと。
保育園にお世話になってる1人として、この状況が改善する政策が打たれることを望むのみです。
さて、今回はあえてそういったニュースの本題から脱線して、メタ視点的なポイントに注目してみます。
配置基準に限らず「1人あたり○○人」みたいな計算で公的基準が定められてること多いですけれど、これってなんか不思議じゃないですか?
たとえば、家庭でワンオペで大人1人の子どもの面倒を見ている時と、両親2人で1人の子どもを見ている時の大変さの比って「2:1」じゃ全然ないと思うんですよね。
ワンオペの時の方が2人でみるときの何倍もしんどいと江草は思うのです。ワンオペだとちょっとした瞬間の代わりの大人さえいないので、作業の柔軟性が著しく落ちるからです。子どもを見ながらでは、料理はもちろんのこと、トイレに行くことさえ注意が要ります。
もしくは、大人1人で3人の子どもを見ている場合と、大人100人で300人の子どもを見ている場合を比べてみたとして、これらが同じような大変さかというとそうでもないでしょう。
すっごく江草の雑な印象で言うと【「子どもの人数」の二乗/「大人の人数」の三乗】みたいなのが育児負荷の概算モデルとしてふさわしいんじゃないかなと考えてます。
いや、異論はめっちゃ認めますけれど、大事なのは「これはあくまで単純な比例計算でないのでは」ということです。
つまり、「1人あたり○○人」と言うけれど、現実、人が集ってチームとして連携することができるならば、しんどさは全然違うものごとは多いんじゃないかと思うんですよ。ちょっと理系っぽく言うと、線形(一次関数的な直線関係)のモデルを当てはめるには妥当でないケースに当てはめちゃってるんじゃないかと。
この「1人あたり」などの単位元に還元しちゃう計算は、まさしく「平均」の発想なんですけど、自然と集団的連携力を無視しちゃってるモデルになりがちです。すなわち、人それぞれが個々の能力で仕事をしているような錯覚に陥ってます。
人は集まったら(仲が悪いなどの悪条件がなければ)協同して作業をするものですから、ただ単純に1人頭で割るのでは把握しきれない力を持つはずなのです。
医療業界でも、最近「医師の働き方改革」に関連して、病院の集約化が議論されています。
バラバラに存在している病院を集約して、医師を同じ病院の中に多人数集めた方が、医師の全体的な負担は減るだろうという発想です。
これはまさしく人を集めることによる連携力を期待しているわけです。
「1人あたり」では計算できない効果がやっぱりそこにはあるのです。
だからこそ、集団で上手くいっているからといって、それを同じ条件で細分化したり個人化したりすると、急に実践不可能になる危険性があることに注意が必要です。
実際の保育士さんの配置基準の設計の経緯を存じ上げないので、あくまで「空想上のたとえばの話」で言いますけれど、仮に「保育士さん5人で150人の4歳児」を相手にすることができたという経験から、「じゃあ保育士さん1人で30人の4歳児を見られるね」という計算をして本当に保育士さん1人で30人の4歳児を見るクラスを設計してしまうと大変危険なことになるわけです。
だから、1人頭の基準の計算をする時は、集団での実践経験よりも本当に大きな余裕を設ける必要があります。
基準をざっと見させていただいた限りでは、小規模保育の配置基準などでは余分に保育士さんを配置する設計にはなっているようで、全くその集団効果を無視しているわけではなさそうですが、なんかこう行政はなんでもかんでも「1人あたり」という線形モデルに落としこもうとしてる感じが江草的には違和感があるんですよね。
配置基準と全く違う例で言うと、所得税の累進課税なんかもうそうです。
国税庁は「簡単に求められます」と豪語してますが、めっちゃ分かりにくいですよね。
これも、なんとしてでも線形モデルに落としこみたいからからこそ、場合分けを伴っての計算設計にしちゃってるようにしか見えません。
所得も、多くを稼ぐ人ほど指数関数的に稼げるというのが世の理ですから、まさしく一次関数のような線形モデルに当てはまるわけがないんです。
だから最初から二次関数なり、対数なりを使っての非線形モデルで計算するように設計してくれた方が、方程式一つ把握すれば済むので分かりやすいはずなのです。
なのに下手に線形モデルにこだわるから、醜い「場合分け」が生じて、計算しようとするたびに表をいちいち目で追わなきゃいけなくなるのです。
別にブラック・ショールズ方程式やシュレーディンガー方程式みたいな複雑な方程式でモデルを作れと言うわけではありません(厳格に妥当性を高めたいならそういう高度数学的設計もありえるかもしれませんが)。
いやしくも、みな義務教育で二次関数ぐらいは習っているわけですから、必要な場合には線形モデルではなく、時に非線形モデルを採用することも行政は考えていただけないかと思うんですよ。
たかがモデルと言うかもしれませんけれど、解釈モデルというのは実に人の価値観を反映するし、価値観を左右する代物です。
「1人あたり」と計算した途端、個々人に固有の能力があって、それで仕事の成果や負荷が決まってる気がしてきてしまうのもそのためです。また、そうした計算をしようとした意識がそもそも個人主義的な価値観から来てる可能性も否めないでしょう。
たかがモデル、されどモデルです。
「保育士1人あたりで子どもを何人見られるか」という、とある一つの解釈モデルに踏み込んだ瞬間に、私たちの思考には大きなバイアスがかかってくることに注意しないとなりません。
だから、様々な基準を見る時に「そもそもこういう計算モデルでいいのか?」はひとつメタ視点として持っておくと良いと思うのです。