人のブルシットジョブを笑うな
最近話題になってたこのトピック。
現場見学したエンジニアが「人間のやる作業じゃないですね」と自動化対象の業務を評した結果、現場オペレーターがショックを受けて泣き出してしまい、エンジニアが謝罪する羽目になったというエピソード。
単純繰り返し作業や高度スキルを要さない(と思われがちな)仕事に対して腐すような表現をすると、実はその仕事にアイデンティティを依っている(ひいては誇りを持っている)人は少なくないので、彼ら彼女らの尊厳を傷つけることになるという教訓的エピソードです。
同様の話を以前、世界の普通からさんも指摘して憤慨されていました。
世界の普通からさんが例示された、監査人たちのこれらの言葉は、まさに冒頭のポストのケースとそっくりです。
「自分は高度で知的で創造的で生産性の高い難しい(そしてその価値にふさわしい高報酬の)仕事をやっているんだ」と自負している時に、ふとこのように他の仕事を見下してしまいがちです。
しかし、こうした単純作業的(に見えうる系)な仕事も、案外居心地がよかったりするという話は、以前読んだブレイディみかこ『ザ・シット・ジョブ』でも表現されていました。
細かいところは忘れてしまいましたが、確かクリーニング工場の裏方の仕事で、ベルトコンベアで運ばれてくる衣服を流れ作業的に処理する業務についてた主人公が「その仕事がけっこう好きだった」と語ってるエピソードがあったかと思います。
つまり、人によっては単純作業的でつまらなそうな仕事に見えてるものでも、意外と本人たちはそうでもないケースがあったりするので、ある特定の業務をまとめて腐すことは危険なんですね。
もちろん、実際にその単純作業がつまらなさすぎて発狂しそうになってる人もいうるとは思うのですが、これはすなわち「同じ仕事にどういう主観的感想を持つかは人それぞれ」になってくるので、やっぱりひとくくりにできないわけです。
このように、まとめて特定の仕事内容を腐す表現が危険なのは対象が「シットジョブ(クソ仕事)」の場合に限らず、「ブルシットジョブ(クソどうでもいい仕事)」の場合でも同様です。
「ブルシットジョブ」の提唱者であるデイヴィッド・グレーバーは、その定義において「本人でさえも仕事の意義が感じられない」という主観的評価を含めていて、あくまで他人から「お前の仕事はブルシットジョブだ」と決めつけることには慎重な姿勢を示しています。
しかし、「ブルシットジョブ」の概念が広く認知されるにつれて、「あの人たちがやってるようなブルシットジョブは無駄だから削減しろ」などと、他人の仕事を「ブルシットジョブ」と評して批判する仕草がしばしば見受けられるようになりました。
もちろん、言葉は生き物ですから「ブルシットジョブ」の定義をグレーバーの言う通りに未来永劫、絶対に固定しないといけないということはありません。ただ、その提唱者の意図(原義)を無視して都合よく言葉を便利に使うのも稚拙で乱暴な仕草ではありましょう。
そして何より、先の「人間のやる作業じゃないですね」と同じく、「お前の仕事はブルシットジョブだ」と断じるのも、その仕事にアイデンティティを抱いている人の尊厳を傷つける危険性があることに注意が必要です。
それゆえに、江草も以前「ブルシットジョブ警察」的なことをちょくちょくやってました。(最近はおとなしくしてますが)
もっとも、当のグレーバーもそうは言いながら、金融業をブルシットジョブの温床として例示したりと、事実上は特定の仕事をブルシットジョブとして示唆してる傾向は否めません。「結局グレーバーも他人の仕事を決めつけてるじゃん」と言えばそうなのです。
これがまあ、ブルシットジョブ論に限らず、「この仕事の意義は何か」とか「必要な仕事はどれで不要な仕事はどれか」といったような仕事論をしようとすると、どうしてもある程度「仕事の本質の吟味」に踏み込まざるを得ない側面があるがために、実に大きなジレンマがあるところなんですね。
つまり、全く誰の仕事の尊厳も傷つけないようにしようとすると、「みんな違ってみんないい」みたいに、全ての既存の仕事の現状が全肯定されてしまうことになり、仕事についての批判的議論ができなくなるわけです。
そうした相対主義("Anything goes.")が行き過ぎると、仕事が聖域(サンクチュアリ)としてアンタッチャブルな話題になってしまう。というか、既になっています。
しかし、その聖域こそがシットジョブやブルシットジョブを育む温床でもあるので、厄介なんですね。その歪みが社会が許容できる臨界点を突破したと思われるなら、誰かが聖域に切り込まないといけません。
だから、結局は、間を取って、各人の尊厳に配慮しながらなるべく傷つけないように丁寧な表現で各仕事の批判的吟味を行なっていくしかないという、なんとも月並みな結論に至るわけですけど、『三酔人経綸問答』の南海先生がまさにそう笑われたように、現実路線とはパッと見では至極平凡でつまらぬものなのでしょう。