チューリングウォーズの時代
今日はみんな大好きAI関連のお話です。
AIが「人工知能」というその名にふさわしい実力に到達したかどうかを判定する基準として有名なものにチューリングテストがあります。
相手がAIか人間かを隠した状態で審査員(人間)と対話してもらって、審査員に「相手がAIである」と気づかれなければ(人間と思わせることができれば)AIは十分な実力があるとして合格ということになります。
お正月の「格付けチェック」の番組みたいなものですね。AIと気づかずに「こっちが人間です!」と意気揚々とAの部屋を選んだものの浜ちゃんに扉を開けてもらえない「三流芸能人」がそこそこ出るようであれば、「こりゃAIもなかなかのもんだぞ、十分に人間レベルじゃないか」と認定されるわけです(ってことは格付けチェックの番組で参加者の多数が松坂牛でなく格安お肉を選んでしまった時、チューリングテスト的には格安お肉も「松坂牛」認定しなきゃいけなくなっちゃう気もしますが)。
さて、このチューリングテスト。長らく思考実験的なお話に過ぎなかったんですが、今や世の中急にChatGPT時代になりまして、それを作ったのが「人間かAIか」で現実に議論が巻き起こるようになりました。
たとえば、大学のレポートでAIの利用を認めるかどうか。
各大学で対応に多少の温度差はあるものの、基本的には「原則人間がレポートを書くべき」とする姿勢は共通しています。
これは、逆に言えば、それだけAIのレポート作成能力が人間に匹敵するようになってきたということの証左でもあります。それが一見すると人間によるものかAIによるものか区別できなくなってきてるからこそ各大学が慌てて声明を出すに至ってると。
つまり、今まさにAIはチューリングテストを突破しつつあると言えます。
レポートをAIで作成するような不正を検出するために、検出ツールを用いるぞという話もあります。
たとえば、ChatGPTを生んだopenAI社自身も「AIによる文章か人間による文章かを見分けるためのツール」を公表されてるようです(火種となった張本人から消火器が配布されてるようななんとも不思議な状況ですが)。
しかしこの「ツールを使って見分けよう」という動きもまた、人間に「AIかどうか」が見分けがつかなくなってきていることを表していると言えます。
GAN(敵対的生成ネットワーク)という手法もあることからすると、こんなことをしてると、「AIかどうか見分けるAI」に対抗して「AIかどうか見分けるAIに見分けられないようにするAI」が成長し、それにまた対抗して「AIかどうか見分けるAIに見分けられないようにするAIを見分けるAI」が成長するという、とんでもないAI成長サイクルが回っちゃいそうな気もします。
こうなると、もはや人間は蚊帳の外、チューリングテストどころの状況じゃなくなるかもしれません。
そうしてAIを見破れるのがAIしかなくなったとき、そのAIが正しいかどうかももはや分からないわけですから、私たち人間は何を信じればいいか途方に暮れることになります。
AIを使ってるかどうかがもはや判別不能になった時、AIを使っているのに人間が行ったかのような顔をする者が多発することになります。
大学のレポート課題で言えば、それがもはやAIのものかどうか区別できなくなれば「もちろん自分で書きました」と全ての学生が言うでしょう。
ビジネスの世界ではもっと露骨になるかもしれません。
「手作りです」と言えば、消費者はそれに特別な価値があるように感じます。消費者は手間がかかってるものが大好きなのです。
しかし、それが本当は機械での大量生産であるのにそれが消費者に見分けがつかないとなったならば、機械で生産しながら「手作りです」というPOPを掲げる、ずる賢い売り手を止めることができなくなります。
AIの急成長によって、そんな感じの「手作り」詐称が、とくにホワイトカラージョブにおいて横行する未来はそう遠くないように思われます。
もちろん、AIでうまくプロダクトを生み出すのも簡単ではありません。プロンプトを工夫して調整して何度も試してようやく良いものが出来上がる。そういう意味では匠の技や秘伝のタレが強みになる「職人芸」的なところはあると言えます。
ところが、それがいかに「職人芸」であったとしても「AIで作りました」とバカ正直に公言すると「それは人間がやってこそだ!」と批判が殺到することでしょう。まさしく今大学のレポート課題も「人間がやってこそ」と言われるように。
そうでなくても、「AIで作った」と言った途端に「じゃあ安くしてよ」と圧力がかかることは十分に予想されます。
たとえばプロの絵描きの方が「あなただったらこれぐらいすぐササッと描けるんだからタダで描いてよ」と頼まれがちな問題はよくネットでも議論になるところです。
どうしてこんなことが起きるか。
先ほども言ったように、消費者は手間がかかってるものが大好きです。そして、それは裏を返すと手間がかかってないものが大嫌いだということでもあります。それまでの熟練があろうがなかろうが、才能があろうがなかろうが、「楽して生み出されたっぽいもの」に大金は払いたくないのが人情なのです。
だから、作り手はなんとか「ほんとはAIで作ってること」を隠して手作りであるように見せかけようとし、買い手やライバルは「ほんとはあいつAIで作ってるんじゃないか」を暴こうとし始めることでしょう。
現在で言う「あの絵師さん実はこの作品からのパクリやトレースなんじゃないか疑惑」の炎上がイメージが近いかもしれません。
こうなるともはや、AI自身がAIであると人間に見破られないようにするチューリングテストのレベルではなく、AIを用いた作り手がAIを用いてると他人に見破られないようにする、いわばチューリングウォーズの時代です。
「AIを用いてることを隠そうとする者」と「AIを用いていることを暴こうとAIを用いる者」の仁義なき戦い。あくまで人間同士の争いですが、その互いの武器としてAIが用いられるのが特徴です。
こと、こうなってくると、「AIかどうかを判定するAI」を捏造するものも出てくるでしょう。
ライバルや嫌いな人間に対して「あいつは実はAIを用いてるぞ」と蹴落としたいがために、「その証拠に、ほらこの通りAI判定AIがクロと言っているだろう?」と、AIやあるいはその判定結果自体を捏造するわけです。
しかし、そのAI判定AIの判定結果が捏造かどうか判定するためにもAIが必要なのだとしたら、もはやそのAIをも信頼していいのか分からないカオスな状況でしかありません。
おそらくそうしたカオスな状況下においては、広く正当かつ正統とされる「AIかどうかを判定できるAI」を有してる者が絶大な権力を握ることになるでしょう。それが個人か組織かはわかりませんが、ゴールドスタンダードとされる判定基準を管轄する者に誰も頭が上がらなくなります。
もちろん、厳密に言えば「そのAIだって間違いがあるんじゃないの?」と批判することはできるのですが、「そんなのキリがないだろ」「○○様を疑うのか?」とその批判を一蹴することができるぐらいの権威や権力をひとたび確立さえしてしまえば、大勢は決することになります。
「検索結果偏ってるんじゃないの?」と時々は思いながらも私たちはGoogleで検索をしますし、「ぼったくりマケプレ商品の地雷が混ざってくる」と思いながらも私たちはAmazonでネットショッピングをするわけです。
多少の批判には揺るがない。
不満がありつつもみんな結局は従ってしまう。
それがゴールドスタンダードを制覇したものの強さです。
だから、今後、血で血を洗う仁義なきチューリングウォーズの末に誰かがAIのゴールドスタンダードを握る日が来るのかもしれません。
そんな社会がユートピアかディストピアかは分かりませんが、私たちは心して待つしかなさそうです。