よりモダンなモダン・タイムス
チャップリンの名作古典映画『モダン・タイムス』。
歯車の間で機械の一部かのように働く労働者を描き、当時の資本主義下の非人間的な労働を批判的に風刺したことで有名です。それは、生産性向上のために人が一挙一動を監視され、機械に合わせるように動くことを要求されるテイラー・システム(科学的管理法)の象徴的な光景と言えるでしょう。
今でも「俺たちは所詮社会の歯車だ」などという言い回しがなされるように『モダン・タイムス』で大写しになっている「歯車」は私たちにとって今なお機械的(非人間的)生産性向上のシンボルとなっています。
して、ホワイトカラー化が進んだ現代では、チャップリンが作中で従事していたような見た目通り「歯車」の間で働くような仕事は、(もちろん無くなってはないのですけれど)減ってはきているように思われます。
では、私たちはチャップリンが批判しているような「モダンな働き方」から脱出できたのでしょうか。「歯車」から降りることができたのでしょうか。
残念ながらそうでもないと思うのです。
確かに歯車の間で私たちは働くことはなくなったけれど、今度はむしろ、私たちは歯車を自分たちの中に内蔵したのではないでしょうか。すなわち外部にあった歯車を、自分の内部に導入してしまった。
というのも、周囲から監視され強制されなくても、今や私たちは自発的に無駄な行動を省いて生産性を向上するように考えるようになってしまっているからです。
つまり、自分で自分を監視し、管理している。
よりコスパのいい行動は何か、より投資効率のいい行動は何か、よりタムパのいい行動は何か、この人脈は、この資格は有用か。
自分で自分を歯車のように動かしている、ないし、自分の中の歯車が自分を動かしている。
人の外部ではなく内部に「歯車」がある。
これが現代最新版の、よりモダンにバージョンアップした「モダン・タイムス」の光景ではないでしょうか。
実際、先日紹介した書籍『静かな働き方』でも、そのような話がなされていました。もはや、誰から頼まれずとも私たちは私たち自身をより働き者であるべく監視しているのだと。
世の中、往々にして、見えている物よりも見えていない物の方が恐ろしいものです。すなわち、大きくて目に見えるものより、小さくてつかみ所が無いもの。
ガンもそうですし、ウイルスもそうですし、なんなら幽霊もそうでしょう。
だから、「歯車」も、チャップリンの映画の中ではあれだけ大写しで堂々たる狂気を体現していたものが、それがいつのまにか私たちの体内にもはや目に見えないミクロの姿となって侵入してしまってるとすれば、これほど恐ろしいものはないかもしれません。