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寝かしつけはホワイトスペース?

『ホワイトスペース』という本を読んでたんです。

(「まーた、江草はこういう本ばっかり読んで」という声が聞こえてくるようですが、まあ良いじゃないですか、こういうの好きなんですよ。)

生産性だ、効率だといって、常に動き続けるのではなく、積極的に何もしない時間を取り入れるのが、色んな意味でいいんだぞという内容の本ですね。著者が「ホワイトスペース」と呼んでるのはすなわち空白時間のこと。要するに「急がば回れ」ですね。

江草的にも特に異論はない主張なので、「うんうん。ほんまそれな」みたいな感じで読んでいました。

ただ、ひとつちょっと気になる箇所が。

それがこちら。

 次にホワイトスペースの創造的で戦略的な可能性を見出したのは、 2005年。母親になったときだ。
 私には、やんちゃでかわいい 2歳違いの息子が 3人いる。この子たちは、昼間は天使で、夜は悪魔に変わる。寝つくまで永遠にかかるのだ。それで毎晩、 3人が眠るまで添い寝をしていた(甘やかしすぎだろうか?)。計算したところ、私は人生のじつに 35万 3300分を、幼いわが子が寝入るのを待ちながら真っ暗な部屋で過ごしていたらしい。
 ところが不思議にも、そうした時間が驚くほど充実した時間になったのだ。握るべき小さく柔らかな手があるだけの、邪魔がいっさい入らない静寂の中で、私は考えごとを始めた。人生の大きな問いについて、この世界での自分のあり方について、そしてたいていは仕事について。事業の目標や課題について思いをめぐらせ、新しいコンテンツを練った。
 やがて子どもたちが寝静まると、指を 1本ずつ持ち上げてお腹や背中から手を離し、抜き足差し足で部屋を出た。うたた寝している看守を起こさないよう、こっそり逃げ出す囚人のように。でもそれから、ペンと紙を求めて走るのだ。その強制的な内省の時間に、営業戦略や新製品のデザイン案や、クライアントとの理想のコミュニケーションのとり方をひらめいていたから。それが、暗闇に現れたホワイトスペースから私が受け取った、最初の仕事上の贈り物だった。

p39

江草も最初は「お、寝かしつけは大変でしんどいよねえ」と頷こうという構えだったのですが、よくよく読むと、むしろ著者的には「寝かしつけはホワイトスペース(空白時間)で充実した時間になった」という文意なんですよね。

これには正直「寝かしつけをホワイトスペースと見なすのはさすがに無理では」と眉を寄せてしまいました。


いやー、まあ、気持ちとして分からないでもないんですけどね。

江草も過去にこの記事で「寝かしつけの時間は子どもを観察するマインドフルネス時間にしたらええんちゃう」みたいなことを言っていますし、

寝かしつけが無駄な時間とか不幸な時間とかそんな風には思っていません。

ただ、やっぱり寝かしつけの時間は「子どもを寝かす目的の時間」なのであって「空白時間」ではないだろうと思うんですよね。子どもが寝づらそうにしてたら、トントンしてあげたり、子守歌的なものを口ずさんだりすることもあるし。

どうしてもある程度、強制的に引きずり込まれる性質があるのは否めません。本当に「何もすることがない、自由にしていい時間」とはさすがに言えないんじゃないかなと。

江草も正直、著者のように寝かしつけ中に色々アイディアを思いつくことはあるんですね。でも、すぐにメモれない状況なので、そのアイディアを頭に残しっぱなしにしておく我慢がけっこう大変なんです。

アイディアをすぐにメモすることもできないなら、その点でも、やっぱり自由時間とは言えないはずです。

↓江草が寝かしつけに四苦八苦してる様子は過去にこちらの記事で書いてますね。

寝かしつけ中はアイディアを思いついてもそのまま眠気に誘われて陥落するリスクの方が高いので、だからこそ江草も「マインドフルネス」の方向性の方がフィットしそうと言い出したところもあります。

もちろん、こうした感覚には個人差がありますから、江草と違って著者的には本当に寝かしつけ中はホワイトスペースで創造的なアイディアが生み出される時間なのかもしれません。

しかし、もうちょっと贅沢を言ってもバチは当たらないと思うんですよね。寝かしつけからも解放された、本格的に目的もなく何をしてもいい時間が人には必要だと思うのです。

「ホワイトスペースは大事だよね」と江草も同感だからこそ、著者が寝かしつけをホワイトスペース認定していることにちょっと驚いてしまいました。


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