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で、あなたはiPhoneを作ってるんですか?

仕事中心主義社会を擁護する立場に「みんなが働いているからこそiPhoneが出来たり美味しい食べ物を食べられたり快適な家に住めたりと豊かな文明が享受できてるんだぞ」という言い分があります。

つまり、人々が働くことを抑制したならば、君たちも楽しんだり便利に使ってる世の中のあれやこれやが消えてしまって困ることになるぞ、という脅しです。豊かな社会を維持したいなら、みんな頑張って働くしかないのだと。

なるほど。江草もiPhone好きですし、確かになくなっちゃうと困りますね。

iPhoneを作るために働く人が居るからこそiPhoneが今手元にあるわけで、iPhoneを失わないためには社会に仕事が必要であるというのはもっともな理屈です。

しかし、ここで素朴な疑問があるんですよ。

それは、

「で、そう言うあなたはiPhoneを作ってるんですか?」

というものです。

いや、本当に作ってる当人だったらすみませんとしか言いようがないんですけれど、世の中に数多の仕事がある中で、iPhone制作に直接的に関わってる人なんて一握りでしょう。

つまり「みんなが働かなくなったらiPhoneもなくなるぞ」という脅しは、確かにiPhoneに関わるごく一部の仕事の擁護には当てはまるかもしれませんが、その他大勢のiPhoneに関係のない仕事の擁護にはなってないということになります。

もっとも、一般的に言って、議論中に論拠として出す例示というのはどうしてもこういう性質が出ちゃうので仕方がないところはあります。しかし、往々にしてそれはみんなの心に訴求するべく選ばれた最も都合のいい例(チャンピオンデータ)でしかないんですよね。

ダイエットを謳うサービスの宣伝をする時に、本当は大多数の顧客が痩せなかったのだけれど、最も痩せた顧客の事例だけを成功例として大々的に広告に使うみたいなものです。いわゆるチェリーピッキングです。

iPhoneの存在価値を認めて、それに関わる仕事の存在価値を認めたとしても、それはその他の大多数の仕事の存在価値を認めていいとする十分な論拠にはなっていません。

それを言うのであれば、その他大勢の仕事の価値もiPhoneに関わる仕事と同じぐらい重要な仕事であるということの論証も伴う必要があります。

だから、こう問い返してしまいたくなるのです。

「で、あなたはiPhoneを作ってるんですか?」

と。

別に他でもいいですよ。

「で、あなたは飲食店勤務で美味しい食事を作り提供してる人なんですか?」

「で、あなたは大工として家を組み立ててる人なんですか?」

と。

そうでもないのに「働かなくなったらiPhoneも美味しい食事も家もなくなるぞ」と言うというのはどうにも筋が通らないというものでしょう。

ここでポイントは、たとえApple社員であっても本当にiPhone作成に直接的に関わってるかどうかは疑問の余地があるということです。

だって、実際にiPhoneを組み立てているのはApple社員ではなくFoxconnの現場工員だったりするわけでしょう。実際に手を動かしてないApple社員が本当に全員iPhone制作に必要な仕事を果たしているという保証はありません。

「で、あなたはiPhoneを作ってるんですか?」という問いは、そういう現場で直接的な制作に関わってない人が本当にそのプロダクトの現出に寄与しているかという問いでもあるのです。これは対象を変えて、食品会社にも、建設会社にも同様の問いが行えます。

この問いに関してはおそらくはこの類の回答が寄せられることと思います。

「確かに自分は直接的に製品の製作をしている仕事ではないが、それらをサポートしたりマネジメントする仕事として寄与してるんだ。外見上は分かりにくくても意義がある仕事というのはあるのだ」と。

うんうん。なるほど。

誤解しないでいただきたいのは、江草も別にこうした間接的な仕事が全て無意味であり価値がないなどと言ってるわけではありません。むしろ逆でパッと見の外見上ではその価値が分かりにくいことは多々あるだろうなと思ってるぐらいです。

確かに現場工員だけでiPhoneが作られることはないでしょうし、家も建つことはないでしょう。何かしらサポート役としての他の仕事が果たされてるからこそできてることは事実だと思います。

「それならじゃあ全ての仕事に意義があることを認めるんだな」

いやいや、話はそう単純じゃありません。

パッと見で分かりにくくても実際には意義がある仕事が存在しうるという前提を認めたとしても、それだけでは全ての仕事に十分な意義があるという主張は導けません。パッと見でその価値が分かりにくく、そしてその見た目通り本当にたいした意義がない仕事の存在が否定できてないのです。

ここでなお「それを言い出したらキリがないから、一見その意義が分かりにくくても何かしらの意義があると考えるべきだ」と強弁するのであれば、ありがとうございます。むしろ、こちらもそこを認めていただきたかったので。

「一見意義がないように見えても意義があると考えるべき」と認めていただけたなら、「一見意義がないように見える非労働的活動も全て潜在的に意義があると考えるべき」ということになるでしょう。もう少し平易に言い換えれば「働いてない状態であっても何かしらの意義があると考えるべき」ということになります。

「別に仕事以外の人間活動に意義がないと考える根拠は乏しいですよね」というのがそもそもの仕事中心主義に対する疑問です。

すなわち、「仕事」みたいな一見意義ありげな枠組みが伴ってない物事にも意義はあると考えるべきなのではないか。iPhoneを直接的に作ってない仕事がそれを間接的にサポートしているという潜在的意義を認めるならば、「仕事」という直接的な枠組みに当てはまらない仕事外の活動が社会の仕事全体を間接的にサポートしている潜在的意義も認めるべきなのではないか。

最初からこういう話なんですよ、これは。

ここで慌てて「いや、あくまで意義を認めるのは仕事に関してだけだ」と言われるなら、議論は堂々巡りです。

「では、仕事なら意義があるという根拠は何ですか」と問うことになり、冒頭のように「仕事がなくなるとiPhoneとか作られなくなるだろ」と返すなら、再び「で、あなたはiPhone作ってるんですか?」となるわけです。

つまり、仕事中心主義の立場は結局はどうしたって「仕事というものは全て意義があるものである(はずである)」「仕事でないものは意義がないものである(はずである)」という確たる根拠のない独善的な前提を繰り返し言ってるだけに過ぎないんですよね。

まあ、独善的だからこそ「主義(イデオロギー)」として呼称してるので、それ自体は珍しくも悪いことでもないのですが(信念を抱くのは実に人間らしい愛おしい営みです)、せめて「ただの独善に過ぎないんだな」ということは自覚しておいてもいいのかなと思います。

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江草 令
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