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人権概念の弱点と、批判文化に求められる忍耐について

具体的に誰の何の話だったか忘れてしまったのですが、以前どこかで人権概念の弱点についての指摘を読んでなるほどなーと思った記憶があります。

人権というのは、周知の通り、人の基本的な権利を表す概念で、人権を尊重することで、普遍的に万人の尊厳が保護されることが期待されています。人権概念を私たちが大切にすることで、差別とか虐殺とかがなくなるだろうと。

この方向性自体は別におかしくないのですが、ここで指摘されていたのが「人権意識を持てば万全」と考えることの落とし穴です。

それは、「人には人権がある」という価値観を共有していたとしても、「あいつらは人じゃないから人権による保護に値しない」を持ち出すことで、恣意的に特定の「人たち」を虐げることが可能になると。

つまり、「人には尊重すべき人権がある」とする人権意識がいかにあろうとも、「真なる人とは誰か」という「人の定義問題」に話をすり替えることで、人権による保護をかわすことができるというわけです。

これ一見、屁理屈のようでいて、けっこう根深い問題を指摘されてると思うんですね。というのも、私たちは実際にこうした「対象を自分にとって不都合な定義から恣意的に外す」という技を使いがちだからです。

たとえば「真のスコットランド人論法」という非形式的誤謬が有名です。

A: 「スコットランド人は粥に砂糖を入れないんだそうだ。」
B: 「私の叔父はスコットランド人だけど、粥に砂糖を入れていたよ。」
A: 「でも、真のスコットランド人は粥に砂糖を入れないんだよ。(But no true Scotsman puts sugar on his porridge.)」

真のスコットランド人論法 -Wikipedia

なんか、生きてたらこういう言い訳ちょいちょい聞き覚えがありますでしょ。具合が悪くなると、ついさらっと定義を操作しちゃう。

そして、歴史上も「あいつらは人でなく悪魔だから」という理屈で民族浄化や虐殺が正当化される事例は知られています。ナチドイツ時代のホロコーストなんてそうですよね。

「人権」が語られる時は、往々にしてポヤンとした抽象的で無味無臭な人間像が想定されています。ところが、そこに生々しい具体的な事例が挙がってくると、私たちはつい「こいつは例外なんじゃないか」と言いたくなる衝動に襲われがちです。

たとえば、非常に残忍な事件があったとして、その犯人を保護すべきかどうかとか、量刑をどうすべきかという時、私たちは「こんな悪魔のような所業をする人間はもはや人間じゃない」と思いたくなるものです。(なんなら、この説明をしてる江草でさえ、こうした態度を批判するどころか、共感を覚えるところがあります。気持ちは分かるんです。)

ただ、こうしたことが人間心理として自然に起きることだからこそ、「人権意識」だけでは足りずに、決して「人間とみなす範囲」を恣意的に操作しないという意識も同時に必要ということになるわけです。もしくは「人権意識」の中に対象範囲を維持するという意識も共に内蔵する必要があるでしょう。そうでないと、「人権」の持つ本来のビジョンには到達しえないはずですから。


ちなみに、似たような構図の問題は「人権」以外でもよく見られます。

たとえば、(医師のような)専門家集団がその学術的権威をアピールする時に、「我々は真理を追究するために普段から相互に批判する精神を持っているから信頼に足るのだ」などと言うことがあります。自分たちは査読や学会などで相互に忌憚なく批判を行う文化を有しているが、一般のネット言説や書籍では相互批判精神が不足しているから信頼たり得ないというわけですね。

この話自体では別におかしくはないのですが、いざ専門家として批判を受けた時にマズい態度で応じる者がままいるんですね。「その批判は礼儀がなってない、敬意が感じられないから吟味するに値しない」などと。

困ったことに事実として無礼な批判が世に多いのは確かにそうなんだと思うんですけれど、それでもこの対応はマズいんですね。

本稿でここまで見てきたからお分かりのように、この対応を許すと、「自分たちにとって都合のいい批判」だけを「真の批判」とみなすという「定義の恣意的操作」が可能になってしまうからです。こうなると「真理を追究するために忌憚なく批判を応酬している」という先の前提が揺らいでしまうわけです。

もっとも、気持ちは分かるんですね。先にも言ったように無礼な批判は多いし、そういうのはムカつきますし。

ただ、たとえそうした無礼な批判が99.99%であったとしても、残りのわずか0.01%の「耳が痛いけど妥当な批判」に自分たちが耳を傾ける余地を残すために忍耐するというのが、健全な批判精神ではないでしょうか。

「10人の真犯人を逃すとも1人の無辜を罰するなかれ」という法格言があります。たとえわずかであっても無実の人を不当に罰することになる冤罪を決して許してはならないという強い人権意識が感じられる言葉です。これと同様に、わずかにあるかもしれない「妥当な批判」を不当に退けることがないように、「真の批判」とみなす対象の恣意的操作には注意しなければならないわけです。


もちろん、これらの理想的な人権意識や批判精神を保つこと非常に難しく、「言うは易く行うは難し」の典型なので、江草も全然ちゃんとできてる自信はありません。

それでも、こうした落とし穴があるということを知ってるかどうかで多少なりとも変わるところはあるんじゃないかなあと思った次第です。

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江草 令
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