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仕事の終わりよりも、世界の終わりを想像する方がたやすい

こないだ、ちきりんさんのこのVoicyを聴いたんです。

FIREや悠々自適の老後や専業主婦といった「仕事がない生活」に憧れる人は多いけれどそんな生活ってやることがなくって退屈でしょう、という趣旨のお話でした。

ちきりんさんは自由に個人的意見を述べてるだけですので、それに正解も間違いもありません。
ただ、江草が一目も二目も置いていて、並外れた洞察力と観察眼を持つちきりんさんでさえも「仕事がない世界」を想像できないのだなあと痛感させられた意味で印象深い回でした。

ちきりんさんだけでなく、「リベラルアーツ大学」チャンネルで有名なYouTuber両学長も同様に「仕事をしない生活」に否定的です。

このように、クリエイティブで有能優秀なインフルエンサーの御大たちでも頭にのぼらないぐらい、「仕事がない世界」は多くの人にとって想像もつかない世界観となっています。

ただ、江草的にはまさにこの「仕事がない世界」を想像することが、私たち人類が今直面している大きな課題だと考えています。


ここで言う「仕事」とはいわゆる賃金や報酬、利益を得ることと共にある仕事、いわゆる「ビジネス」だと思ってください。(ちきりんさんも両学長もこのイメージで「仕事」を語ってらっしゃると思います)

で、「仕事がない世界」なんて想像もつかないという感覚は、

  • 「仕事がないと人はやることがないはずだ(飽きて退屈になるはずだ)」

  • 「仕事以外で意義ある活動はほとんどないはずだ(たいしてやるべき活動はないはずだ)」

  • 「まだまだ私たちにはやるべき仕事が無限にある(仕事をしないなんてとんでもない)」

という暗黙の前提を置いています。

これらの前提が私たちの脳の奥底までしっかりと絡みついていて「仕事がない世界」を想像できなくしています。


確かに、仕事は大事です。
間違いなく社会の維持に不可欠な活動ですし、個人のアイデンティティと強固に結びついています。私たち人類は仕事とともに生きてきて、仕事を通して社会や幸福を築き上げてきたと言えます。
江草もなにも仕事の重要性を無視したり、仕事を全てなくせとか、仕事は全てなくなると言おうとしてるわけではありません。

ただ、だからといって先ほどの前提が必ずしも絶対的に永遠に成り立つとは言えないのです。

「仕事がないと人はやることがないはずだ」
本当に?

「仕事以外で意義ある活動はほとんどないはずだ」
本当に?

「まだまだ私たちにはやるべき仕事が無限にある」
本当に?

これらの疑問を問い直すことが、今後の私たちにとって喫緊の課題です。

「育児休業制度の充実」や「週休3日制」や「働き方改革」、果ては「静かな退職」「アンチワーク」「寝そべり族」など、働き方にまつわる議論や運動が各所でプスプスと火をあげはじめているのは、私たちのこれまでの「仕事観」が限界に来てるからに他なりません。

ただ、先ほどから言う通り、これらの疑問を立ち止まって問い直すことが私たちには容易ではありません。それぐらい、仕事を中心に世界を観る「勤労主義」は私たちの常識として深く根を張っているからです。


私たちの想像力の限界を示す一例として映画『シン・ゴジラ』をとりあげましょう。

『シン・ゴジラ』では怪獣出現に右往左往する政治家や官僚の危機対応の描写がリアルだと評判になりました。

しかし、そんな『シン・ゴジラ』でさえも、皇族の運命は全く描くことはありませんでしたし、皇居を破壊するような演出はありませんでした。ゴジラが皇族に忖度するはずはありませんから、当然ながらこれは「皇族の危機を描くなんてとんでもない」と映画制作陣が忖度した結果としての皇室描写の排除です。

放射性物質を食べて巨大化する怪獣が出現するという、人間の自由な想像力の限りをつくした映画であってさえも「皇族をどうこうする」ということは触れてはいけない神聖な結界として私たちの想像力を締め出すのです。そして、その上で、皇室が描かれてなかったことについて特段違和感を持つことなく「リアルだ」と絶賛する鑑賞者が大半だったわけです。
(念のため注記しておきますが別にゴジラは皇居を破壊すべきだったなどと言ってるわけではなく私たちの想像力を排する結界の一例として挙げたまでです。『シン・ゴジラ』は江草も好きな映画の一つです)


これと同じように「仕事」というものもそこはかとなく神聖さを帯びていて、私たちが「仕事がない世界」を想像しがたくしています。とくに真面目で勤勉であることを誇りとしている日本人にあっては「勤労主義」は当然の侵してはならない常識として君臨しているのです。

この私たちが神聖にして掲げている「勤労主義」が残念ながら今や限界にきつつあるというのが江草の私見なのですが、この詳細な説明をするには残念ながら時間も紙面(noteはデジタルメディアなので比喩ですが)も能力も足りませんから、今後ちまちまと江草なりにnoteで少しずつ考えて語っていく所存です。


あくまで本稿で言いたかったのは、いかに私たちが「仕事がない世界」を想像できないかということに尽きます。

マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』の中で紹介した「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というスローガンは有名です。

この類型として「勤労主義」を評してこうも言えるでしょう。

「仕事の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」と。

「ゴジラが東京を破壊すること」は想像できるのに、こと想像の対象が「仕事」になった途端「仕事がない生活なんてありえない」と一蹴してしまう私たちの想像力の偏り、このいわば「勤労主義リアリズム」を私たちは抱えているのです。


別に江草はちきりんさんやその他の勤労主義に浸っている方々を非難しているわけではありません。

「仕事」に疑問を呈する本稿を読んでムッとしたりモヤモヤしたりすることは自然なことです。「そんなわけないだろう、バカなやつだ」「仕事したくない怠け者の言い分だ」と反発心だって起こる方もいると思います。ほとんどの方はきっと居心地の悪さを覚えると思います。

ただ、本稿で言おうとしていることは、まさにその「仕事に疑問を呈すること」に抵抗感を抱いてしまう私たちの思考の傾向を指摘することにあるのですから、そうやって不快感や反発心が多くの方に起きてしまうこと自体が本稿の主張の裏付けとなってしまうのです。

不快に思われた方には申し訳ないですが、これは善いとか悪いとかではなく、ただ単純な現状認識として、私たちはそういう「勤労主義リアリズム」的な傾向があると今一度自覚をしてみましょうという話でしかないのですので、非難されたなどと思わないで大丈夫です。


というわけで、とりあえず、年頭にあたって江草の「働き方問題観」を概括してみようとしてみたのですが、いかがだったでしょうか。
今後ともこんな感じで「働き方問題」には時々切り込んでいこうと思ってますのでよろしくお願いいたします。


【参考書籍】

タイトルの通り現代社会が直面しつつある「仕事がない世界」の問題を詳述した一冊。江草も何度となく紹介していますが、本稿の内容にもとても影響を与えてる本です。


タイトルのオマージュ元として。
もともと資本主義と勤労主義はお友達みたいなものですから、今回の話は実際には「資本主義リアリズム」をなぞってるだけかもしれません。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。