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「買って応援」の謎

よくよく考えると深いものシリーズ。(そんなシリーズあったっけというツッコミは置いておきましょう)

今日は「買って応援」を取り上げます。

被災地の復興を支援する目的で、「買って応援」のスローガンのもと、被災地特産物を買ってあげたり、現地に宿泊旅行に行ったりして、お金を落とそうというキャンペーンですね。

すごく善意に基づいてるし、とてもいいキャンペーンだと思うんですけど、よくよく考えると引っかかる点がありますよね。

空気が読めない(読まない)江草はあえて口に出してみます。

「買わずにそもそも最初からお金渡したらダメなん?」と。

すなわち、あくまで「寄付」でなくって「買って応援」とするというのはどういうことなのだろうと。

「買う」ということは支援側もお金を払う代わりに物やサービスを受け取るわけじゃないですか。商売では売り手側にある程度利益が残るのが通常ではありますが、そうは言ってもあくまで原則は等価交換。支援分が経済価値上はかなりの部分相殺されることになります。動く額自体は見た目上大きくても、事実上の支援額はたいしたことないという可能性はあるでしょう。「年商何十億円!」などと大きな売上を誇っていても実は利益はたいしたことない(なんなら赤字だったりする)ことが多々あるのと一緒です。

もちろん、現地に不良在庫が溜まってるなどして、とにかく買ってもらった方が分かりやすく被災地の利益になるという場面もあるかとおもいます。でも、たとえそうだとしても、(商品を買わずに)直接その分のお金を寄付するという選択肢より優位になるわけでもないでしょう。

また、買う対象がサービスであった場合、それには在庫も何もなく直接的にサービス(労力)を受け取るわけですから、ただでさえ復興で忙しい現地の希少な労働力を結局は占有する行為とも言えます。だから、サービスを買わずに、その分のお金を寄付して、その浮いた分の労力や時間で復興作業に従事してくださいというのではなぜダメなのかということになります。

こうして考えてみると、当たり前のように唱えられてる「買って応援」も、不思議が多いのです。

では、「買って応援」を支持するロジックも考えてみましょう。

まず、ありそうなのは、支援の文脈ではよく出てくる「魚を与えるより魚の釣り方を教える方がいい」というロジックでしょうか。今回の場合で言えば「ただお金を与えるばかりだと後々にお金を稼ぐための産業の発展維持につながらないからかえってよくない。買って応援という形を取ることで現地産業の継続を促す効果があるのだ」という感じですかね。

まあ、一般にはそういう面もあるのかなとは思うのですけれど、こと今回の話で言えば、もともと「ちゃんとした現地の産業が存在していること」が前提ですから、あまり噛み合わない気がするんですよね。だって「買って応援」するためにはそもそも現地の産業がないと買えないわけですから、現地産業の存在はもとより前提なのです。これから産業を発展させていくという話には当てはまらない。

そして、維持継続という意味で言っても、「お金を与えること」は別に現地産業の継続を禁止するものではないですから、お金を受け取った上で、維持継続に必要な分(状況に応じて適度に規模を増減させながら)現地産業を動かしてもかまわないわけです。

「魚を与えるな論」で一般に想定されてるであろう「お金をもらったら人は怠けるだろう」みたいな感覚も、今回はあくまで被災という緊急事態で色々と特別に臨時に多大なリソースや労力が必要という場面ですから、「怠けるどころかやることいっぱいすぎるんですけど」という状況なので、むしろバカにしてるニュアンスにすらなりえるでしょう。

となると、おそらく「買って応援」が支持されるのは理屈からではなく気持ちの問題なのでしょう。

すなわち、なんだかんだ言って、人は「ただお金をあげる(寄付)」よりも、「商品の対価として支払う(買う)」の方が「金払いがよくなる」という心理的傾向があるのではないかと。理屈ではなく気持ちとして「買う」方がシンプルにハードルが低い。

しかも、払う側だけでなく、もらう側の心理としてもおそらく同様の現象があります。
つまり、世の中意外と「ただ贈与を受け取る」というのはできないものなんですよね。たとえば、出産祝いをもらったら内祝いを返すし、香典をもらったら香典返しをします。なんなら、ふるさと納税でもわざわざ(もはや悪名高い)返礼品制度が設置されてます。
「もらったものをただもらったままにする」というのは人間の心理・文化的にどうも据わりが悪いみたいなんですね。

「一方通行の贈与」は双方とも気持ちが落ち着かないので、何とかして「双方向性の交換」の形式に持って行きたくなる。そんな人間心理の強さが「買って応援」キャンペーンからも見えてくるわけです。

これ、人間心理を理解した上での方策と考えれば、必ずしも悪くはないのですけど、やはり死角があることも意識するべきでしょう。

というのも、「買って応援」の支援を受けられるのは、自ずと「売れる物がある人たち」に限定されるからです。先ほど不良在庫の山を売る話を出しましたけれど、そもそも商品在庫すら持ってない人がいたとしたら、何も売れないので「買って応援」されることがありません。サービスにしたって、誰もがサービスを提供する(できる)労働者であるとは限りません。世の中では病気や障害、育児介護等々でそもそも働けない人もいるのです。

つまり「買って応援」は「売れる物がある人たち(仕事がある人たち)」だけに偏った支援になりうるものなのです。ここ、こっそり背景に「仕事主義」が潜んでるんですよね。

しかも、ふるさと納税が事実、競争的になってしまい社会問題化したように、「買って応援」の方も、どうしても人気商品やサービスに偏って「買って応援」されるがために、被災地内で「買って応援」されるための人気ポジションを巡った競争が発生する可能性もあるでしょう。本来、協調して復興を目指さないといけない被災地内で競争を引き起こしてしまうとなれば、復興目的支援としては逆効果にもなるおそれさえあります。

このように困った死角があるにもかかわらず、「商品やサービスを受け取った代わりにお金をあげる」みたいな条件付きではなく、無条件に「ただお金をあげる(もらう)」というのがなかなかできない。これが人間社会のようなんですね。

理屈ではなく気持ちの問題だからこそ、これは厄介です。

たとえば、(これはもう被災地支援の文脈から外れますが)特にベーシックインカムみたいな無条件にお金を給付する制度の導入を目論もうとした時の社会的障壁になるところだと思うんですよね。江草自身、理屈の上ではベーシックインカム支持派なのですが、この心理的障壁をどう回避しうるのかは個人的に未解決課題として残り続けています。


以上、こんな感じで「買って応援」の謎について考察してみました。

一見、何気ないものごとも考えてみるとこんな風に深掘りできたりしますよね。

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江草 令
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