ブルシット・ジョブは嫉妬ジョブなのかも
こないだ読んだ『嫉妬論』を受けてのスピンオフ的な雑考。
『嫉妬論』。この民主社会において嫉妬は不可分な存在でありながら見て見ぬふりをされるタブーとなっていることを指摘した良書でした。
この中で、江草のnoteで頻出でおなじみの、デイヴィッド・グレーバーによる『ブルシット・ジョブ』にも触れられてたんですね。
同書で出てきた「エッセンシャルワーカーのような低待遇で社会的地位も低く見られがちな職業たちがそういう扱いになってるのは、道徳的に善いことを仕事にしていることに対する羨望があるからだ」的なグレーバーが言うところの「道徳羨望」についてです。
この「道徳羨望」については、『ブルシット・ジョブ』の論に基本支持的である大澤真幸氏でさえも「説得力を欠く」と批判するなど、賛否が分かれるところなのですが、ともかくも仕事の意義についての議論において嫉妬心が関わってる可能性は感じられるところです。
で、ここでふと思ったのは、「ブルシット・ジョブ」もまた嫉妬にとらわれし職業なのかもしれないと。先ほどの話はエッセンシャルワークのような言わば「非ブルシット・ジョブ」と嫉妬について注目されてましたけれど、ここでは「ブルシット・ジョブ」と嫉妬との関わりについて注目したわけです。
「ブルシット・ジョブ」というのは、かなりざっくり言えば本人も意義を感じることができないような「クソどうでもいい仕事」なのですが、それが往々にして報酬は良かったり、存外に暇だったりする、いわゆる待遇は良い仕事である傾向があることはグレーバーの『ブルシット・ジョブ』で指摘されています。
なので、「ブルシット・ジョブ」に就いてる者がそのつらさに耐えかねて友人などにその心情を吐露すると、「そんなに暇で大金がもらえるなんてうらやましい」と逆に羨ましがられると。なんとなれば「ズルい」と嫉妬される。
そう、ここで嫉妬が出てくるわけです。
でもって、『嫉妬論』が指摘するように、私たちは嫉妬することも嫉妬されることもとにかく避けたがります。だから、「ブルシット・ジョブ」に就いてる者も他人から嫉妬されないようについ動いてしまうわけですね。
そのため、「自分は有意義な仕事をしてるんだ」とアピールして自身の仕事を本心に反して正当化したり、あるいは、暇であることを隠すために忙しそうに振る舞ったりするということになります。
しかし、グレーバーが指摘していたように、このような自己欺瞞(本当はそうではないのに取り繕うこと)こそが「ブルシット・ジョブ」が人の尊厳を蝕む毒なんですね。
ただ、本当のことを吐露すると逆に他者からの嫉妬心に襲われてしまう。それが怖くて吐露できない。ここにまさにブルシットジョバーをその精神的牢獄に閉じ込める悪魔的なトラップが存在しているわけです。
つまり、ブルシット・ジョブ問題を緩和するためには(なんならブルシット・ジョブ問題を公の議論にとりあげるためには)まず嫉妬を絶対的なタブーとして徹底的に忌避しようとする私たちの態度をこそ緩和しないといけないのかもしれない。
これはまさに『嫉妬論』の主張と重なるところでありますが、ちょうど『ブルシット・ジョブ』が指摘した問題に対して私たちが取るべき対応のヒントにもなってるように思います。
エッセンシャルワークが往々にして待遇が不遇すぎる「シット・ジョブ」に至るのが「道徳羨望」という嫉妬心に由来するのだとすれば、対する「ブルシット・ジョブ」のブラックホール的な暗黒の吸引力もまた嫉妬心に由来するのかもしれない。
そう、「シット・ジョブ」「ブルシット・ジョブ」だけに、それらは要するに「嫉妬ジョブ」ってね。
……いや、「もしかして江草はただこのダジャレが言いたかっただけなんじゃないか」という意見にはノーコメントで。