人文学は「都会」に住んでいる
人文学、特に哲学のような学問は、「○○主義」とか「△△主義」みたいな抽象的な概念が飛び交います。それゆえ「言葉遊びではないか」とか「それが何の役に立つの」などと批判も受けがちなのですが、これはその現実世界との接地面が見えないからと言えましょう。
そう考えたときに、人文学というのは実はある意味で「都会的」なのではないかというようなことを思いつきました。これこそ抽象的で何言ってるのか分からない話と思いますが、順に説明していきますね。
以前、東京という大都会はビルや道路などの人工物にばかり囲まれていて外の自然界の存在が見えにくいという特徴があると指摘した記事を書いたことがあります。
して、人文学での「○○主義」のような抽象概念もとても人工的です。実際、哲学者の戸田山和久も『哲学入門』の中で「哲学とは概念工学である」と述べていましたから、これらが人工物的な性格を帯びていると考えることはさほど変な話ではないでしょう。
哲学に限らず、歴史学も人類の営みの連鎖を追うものですし、文学はまさしく人の手による文学作品を対象としています。
だから、そうした膨大な「人工物」に取り囲まれており、そしてそれら「人工物」をさらに日々生み出し交通整理する営みを果たしている人文学は、まさに東京のような「大都会」ではないかと思ったわけです。
よく人文学と対比される自然科学を考えてみれば、その特徴はより明瞭でしょう。なにせ「自然」科学ですからね。人間の構築物と格闘するというよりも、自然(世界)の謎に挑むという対照的あり方が名前からも分かります。つまり、普段の営みの中に人間社会にとっての異質な他者である「自然」が入り込んでいる。その点からすれば自然科学は実に「田舎的」と言えるでしょう。
おそらく一般的なイメージからすると、自然科学(理系)の方が「ザ・サイエンス」という趣であり、最先端テクノロジーを駆使する「都会的」な印象で、他方の人文学(文系)は、(たとえばKindleアプリのアイコンのように)そよ風に吹かれながら自然の中で読書にふける、そんな牧歌的な「田舎」の印象ではないでしょうか。
だから本稿のように、自然科学の方が「田舎的」で、人文学の方が「都会的」と言うと、なんとなく奇妙に思われるかもしれません。ただ、これは、あくまでそれぞれの学問としての思考対象の特徴について注目した場合の話なので、実際にどこに住んでるかとか、どういった場所での生活を好んでるかみたいなライフスタイルとは別の話であることに注意してください。
すなわち、自然科学(田舎派)を専攻しながら生活は都会が好きというのも全然ありえますし、人文学(都会派)を専攻しながら生活は田舎が好きというのも全然あるわけです。
でもって、これは江草の完全な偏見ですけれど、人文学系の人の方が「人は都会を離れ自然と共にあるべき」と言ってる人が多そうな気がするので、このねじれがとても面白いなあと感じてます。もしかすると、頭で普段徹底的に考えてる対象と逆の要素を生活に取り込まないと、人はバランスが取れないということなのかもしれません。
なんなら、人文学系、自然科学系という大きな学問の枠組みでの対比に限らず、個々人ひとりひとりによっても、頭の中の思考がひたすら人間社会の中にある「都会派」なのか、自然界とともにある「田舎派」なのか、なんとなくタイプが分かれると思われます。
江草は昔は宇宙論とか好きだった「田舎派」だったのですが、最近は「○○主義」とかばっかりついつい考えちゃってるので、いつのまにか頭の中が「都会派」になっちゃったようです。脳が上京してた。
皆様も、今の自分の頭の中が、「都会」に住んでいるのか、「田舎」に住んでるのか、ちょっと探ってみると面白いかもしれません。もし片方に偏ってしまってるなら、たまには逆の方にも思考を巡らせると、脳の旅行みたいなもので、良い感じの息抜きになるかもですよ。