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社会参画や社会貢献は仕事を通してでしか実現できないのか問題
最近立て続けに、「FIREなどして隠居しても、全然働かない人生は辛いよ」とするポストを見かけまして。
もし何億円ももらって、会社やめて毎日映画見たり、本読んだりできたらよっぽど楽しいだろうと思ってたけど、映画『敵』を見て「朝起きても行く場所がない」ってすごく辛いのかもと思った。社会との接点がなくなっちゃう。何かしら働いて、社会との接点を持たないと、生きるのって苦しい気がするな
— 伊藤聡 (@campintheair) January 21, 2025
FIREにしろ生活保護にしろ、突き詰めれば自分という存在が社会に何も求められてないっていう事を受け入れられるのなら、それで良いと思う。労働や社会参画とは突き詰めれば他人からの依存を引き受ける代わりに自尊心を満たす行為なので。誰からも頼られない人生は生きている意味が感じられなくて辛いよ
— 高須賀とき (@takasuka_toki) January 19, 2025
実際、分かる話ではあります。
定年退職を迎えた人が、たとえ十分な蓄えがあったとしても、何かしらの仕事を探して働こうとするのはよく聞きますし、ビル・ゲイツやイーロン・マスクなどの大富豪も、もう好きに遊んで暮らせるからとそれで働くのを止めるどころかガツガツ働いてますからね。
また、FIREも"Retire"というwordが入ってるので「引退して隠居して遊んで暮らす」と解釈されても仕方が無いところがあるのですけれど、実際のFIRE論者たちの語りや行動を見ていると、結局は経済的自立後も働いたり社会活動をしているようです。(なので世間的イメージを変えるためにFIREの"RE"は"Restart"と読み変えるべきという主張もあります)
つまり、人は自身の経済不安がなくなったとしても案外働くわけです。
これは久保一真氏(a.k.a. ホモ・ネーモ氏)が言うところの人の「貢献欲」の存在を裏付けるものですし、ベーシックインカムの導入を支持する話にもなりえます。
だから、大筋では「まあそうねえ」と思うものの、個人的には、これらのポストにつき、気持ちちょっと引っかかりを覚える点もあるんですよね。
それは、社会とのつながりや社会貢献が仕事を通してのみでしか実現できないかのように語られてる点です。
たとえば、先のポストの伊藤氏は「何かしら働いて、社会との接点を持たないと」と述べています。この表現はすなわち「社会との接点は働くことでこそ保持される」という前提を含意していると言えるでしょう。
また、後のポストの高須賀氏は当該記述上は「労働や社会参画……」と表現しているので、一見、労働以外の社会参画のニュアンスを残しているようにも見えます。しかし、氏は続くスレッドのポストで「労働などの社会参画」「働き続けることを恐れず」「労働がお金以上の価値を持つ」といった表現に移行しているので、やはり「仕事(労働)を通しての社会参画」をイメージされていると言えるでしょう。
FIREに過度に憧れる人は、単に労働などの社会参画の際に自尊心が損なわれる事が嫌で嫌で仕方がないだけだと思う。実はその自尊心の目減りはある段階を境に逆転するので、あまり若者は働き続ける事を恐れずともよいと思う。むしろそのうち、労働がお金以上の価値を持つ事がわかる。
— 高須賀とき (@takasuka_toki) January 19, 2025
その上で、氏は「社会に何も求められてない」「他人からの依存を引き受ける」「誰からも頼られない」という表現もしているので、「社会貢献」の要素も仕事に見ているようです。
つまり、「社会参画や社会貢献は仕事を通してこそ実現できる」という感覚が通底しているんですね。そして、だからこそ、「経済的自立をしたとしても働いた方が良い」という結論になったり、「働かなくて済むようにFIREを目指すなんてことはやめておけ」という主張になるわけですね。
これ、別にこの両人が特別にこういう感覚を持っているというわけではなく、むしろ広く人々に持たれてる感覚だと思うんですね。
たとえば、「一人前の社会人になる」という、ごく普通に聞かれる表現に、「働いて稼いでるのが社会人」という暗黙の前提があることを考えればお分かりいただけるかと思います。
働いていることこそが社会とのつながりであり、社会への貢献であると、そういう感覚を私たちは無意識のうちに受け入れているのです。
これがあまりに「常識的」な感覚であるからこそ、ちょっと気力が要りますが、天邪鬼の江草は、ここでこの感覚に異議を挟んでみたいんですね。
それは「社会貢献や社会参画は仕事を通してでしかできないのか」という問いです。
とはいえ、こうしていざ問いを立ててしまえば、働いてなくても社会に参画している、あるいは社会貢献している、と言えるケースは多々あることにすぐ気づかれると思います。
たとえば、ボランティア活動。毛嫌いされてるPTA活動とかもこのタイプですかね。広い意味ではこれも「働いている」と捉える考え方はありえるかもしれませんが、一般には仕事や労働とはみなされない社会活動です。これはしかし、働いてはいないけれどもまさしく社会参画と社会貢献を実現してる活動でありましょう。
あるいは趣味によって人々が集まるサークルやコミュニティ。確かにこうしたサークルは分かりやすい「社会貢献性」はないかもしれませんが(実際には江草はこれらの活動に十分に「社会貢献性」はあると思いますが)、少なくとも「社会とのつながり」の役割は担ってると言えるでしょう。
そして、育児です。もちろん、子育ては「社会のために」行うものでは決してありませんが、しかし、事実として子育てが未来の社会を作るために不可欠な活動であることを考えれば、そこに「社会貢献性が無い」と言うのは不可能です。だから、育児も「働いてないけど社会に貢献してる活動」なのですね。
さて、こうして見ると、普通に反例がニョキニョキ出てきたので、実のところ問題の「社会貢献や社会参画は仕事を通してでしかできない」という感覚は、どうも妥当とは言えないということになるでしょう。
でも、ここではもうちょっと踏み込んでみましょう。
というのも、たとえ、それが妥当でないと分かったとしても、どうしてこの「社会貢献や社会参画は仕事を通してでしかできない」という感覚が常識化したのかとか、この感覚の普及はどういう意味を持つのか、という問いが立ち上がってくるからです。
まず、そもそもの「働いてないと社会とつながれてない気がして辛い」という感覚も、「社会貢献や社会参画は仕事をしてこそ」「働いてこそ一人前の社会人」という(必ずしも妥当ではない)偏った信念によってもたらされてる可能性があります。
自分自身そう思っていれば当然「じゃあ働かなきゃ」となりますし、あるいはそうでなくても周りの人から「あの人は働いてないから社会貢献してない」とみなされるとしたら「働いて社会貢献してる姿を示そう」というインセンティブ(なんなら強迫観念)が生まれるでしょう。
ちょうどこの点に関して、実は昔、記事を書いてたことがあります。
大衆の不平不満を抑えておくのに「パン(食事)とサーカス(娯楽)」を与えておくという古代ローマの政治戦略は有名ですが、それこそ現代人にとって「それだけの人生は辛い」ので、それに加えて「ワーク(仕事)」という形で人々に「社会貢献感」や「社会貢献証明書」を配給するようになったという現象を指摘している内容です。「社会貢献が仕事でしかできない」と信じているならば、人は仕事がなくなると不満を抱いちゃいますからね。
このような「仕事にこそ社会的な価値を高く見る」という感覚の起源がどこにあるのかは、江草も正直言うと不勉強ゆえはっきりは分かりません(すみません)。
ただ、たとえば、ハンナ・アーレントの有名な「労働」「仕事」「活動」の分類において、家庭内労働などが「労働(ここではアーレント定義の用語であることに注意)」として「仕事」より下位に置かれるようになってることなどに、その萌芽はあるように思われます。
あるいは、アダム・スミスも富を増加させるのに貢献する労働を「生産的」と評したのに対し、召使や家庭内労働を「不生産的」として下に見ていたそうです。これも、「外に出て社会で働くこと」を肯定する現代感覚とつながるところがあるでしょう。
なので、おそらくは、近代化して産業社会やビジネス社会が勃興するとともに、「社会貢献=仕事」という感覚が社会に醸造されたものと推測されます。
で、ともかくもこうして「社会貢献=仕事」という感覚が生じたならば、人々は仕事を求めるようになるわけです。そうすると、働ける人は次々に働くようになります。これまで男性にばかり占有されていた、その「社会貢献機会」が女性にも開放されてきた歴史は皆様もご存じの通りです。
でも、人々がそうして仕事にばかり精を出すようになったからこそ、他方で地域コミュニティなどの非労働的な社会活動が衰退するんですね。
たとえば、PTA活動も「自分は仕事で忙しいので地域活動をやってる暇などないのだ」というのが忌避される大きな理由のひとつでしょう。仕事が優先されると、人々の時間的・労力的リソースが仕事に大きく振り向けられるので、自然と非労働的な社会活動が縮小するわけです。
それはつまり結果として「非労働的に人々がつながる社会セクター」が縮小しちゃってることを意味します。
なので、先の江草の反論についても実は「なるほど言うとおり理屈の上では仕事以外でも社会参画はできるだろう。でも現にそうした社会参画の場である、地域のボランティアや交流は崩壊していないかい?じゃあ結局は仕事を通してしか社会参画できないのでは?」と言われちゃうんですね。
あるいは、育児もそうですね。時に「孤育て」とも呼ばれるように、育児シーンも確かに各家庭の中で(特にワンオペママが)孤立しがちになってることが社会問題化しています。ママ友同士の近所付き合いみたいな「社会のつながり」が減少していることなどが背景にあるでしょう。すなわち、いかに育児に「社会貢献性」があるとはいえど、「社会参画感」「つながり感」が乏しいという問題は実際に存在しているんですね。
だから、先ほどは反例を挙げて「社会参画や社会貢献は仕事でこそ」という感覚に反論したわけですが、たとえそれが理屈上は妥当でなかろうと、ひとたび多くの人がその感覚を持ってしまえば、それを現に促進する循環メカニズムが回り始め、社会の大半が仕事を構成要素とする「経済圏」に取り込まれていきます。
それで、実際に「社会参画や社会貢献の余地が仕事を通してでしか難しくなっていく」のです。いわゆる「予言の自己成就」みたいなものです。「そう思えばそうなる」と。
ひとたび仕事に上位の価値を見出す仕事中心主義が社会に広がると、「無理を通せば道理が引っ込む」と言いますか、本当に仕事に何もかもが依存する社会になるわけです。
つまり、先ほどは理屈の上で「社会参画や社会貢献は仕事でこそ」という感覚を妥当ではないとして反論しましたけれど、現実社会の実情を見てみるとその感覚は妥当でないわけでもないという、なんともややこしい構図なんですね、これ。
こうして、悲しいかな、仕事を通して以外の社会参画や社会貢献を私たちはもはやイメージできなくなっているのです。もし、たとえ、イメージできたとしても、そういう場が少なくなっちゃってるし、自分たちでも「これは社会の役に立ってるのかなあ」と自信が持ちにくくなってしまってる。
現代社会におけるこうした「仕事中心主義」のあまりの強力さを表して、江草は「仕事の終わりよりも、世界の終わりを想像する方がたやすい」と呼んだりもしています。
それぐらい強力なので、まあ、正直言って「どうしたもんかな」というのが結論なのですけど、でも、さすがに昨今ちょっと仕事中心主義が行きすぎたためか、ボランティア精神やコミュニティ形成の再興など、世の中にそれに反発する機運が出てきてる気もなんとなくいたします。
今後どうなっていくのか、要注目ですね。
ちなみに、本稿の主題からは少し外れますが、「社会に貢献してる感(あるいは他人から頼られてる感)」をただ求めることの罠について、こちらの記事で考察したことがあります。
仕事で「自分は社会に貢献してるんだ」と自尊心を満たすことを目的とすると、その仕事が実際に有意義なものかどうかに目をつぶりやすくなる危険があるという内容ですね。だってそこがもし覆ったらアイデンティティクライシスに陥りますから。だから、本人は「わし社会に貢献してるわー」と悦に入っていても、実際には社会悪でしかないという皮肉な現象が起きうるということになります。もちろん、必ずこういうことに陥るというわけではないですが、こういう恐れが存在すると意識することが全くなくなってしまったらやはり危険であろうと思います。
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