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ポジショントークを考える

ポジショントークは嫌われ者です。

誰かの主張が「ポジショントークだ」と評される時、まずそれはネガティブな意味合いで使われているでしょう。

その人のポジションからすると、その人自身がより有利になるような主張をすること。これが「ポジショントーク」と呼ばれ、自己利益誘導や保身を図る利己的なものとして忌み嫌われているわけです。

まあ、確かに小狡い感はありますよね。
実際、江草も時々「ポジショントークだ」という構図で何かの主張の批判を述べることはままあります。

ただ、主張者自身の立場が有利になるような主張を全て「ポジショントークだ」と否定的に片付けてしまっていいかどうかはまた別の問題なんですね。

なぜなら、人が「ポジショントーク」的な主張をするのは、よくよく考えたら自然なことであるからです。


まず、誰もが各々価値観を持っていますでしょ。そして、それぞれの価値観に基づいて人生の選択をしています。

「病気の人を治すのは大事と考えて医者になるという選択をする」とか「テクノロジーの発展が大事と考えてテック企業に勤めるという選択をする」とか。

まあ何でもいいんですけど、各々が考える「これが大事だ」に基づいて人はその立場を選好しているわけです。

で、ここでその人がその立場をより有利にするような主張をしたとして、それはそんなにおかしいことでしょうか?

たとえば「病気の人を治すのが大事」と考えて医者になった人間は、もともと「病気の人を治すのが大事」と考えているわけですから、その価値観に基づいて医療の拡充発展を望むのは至極自然な話です。

それをただ「あなたの医者というポジションを有利にするための利己的なポジショントークだ」と批判するのはちょっとズレてるんですね。

なぜならこの場合、そもそもその人が医者になった理由が「病気の人を治すのが大事」という利他的な価値観からであって、その価値観から同時に医療を重視する主張を伴うのも自然であるからです。

もちろん、この構図は医者以外でも成り立ちます。

たとえば、「労働は悪だ」という価値観を持っている人は、その価値観に基づいて自然と「労働をしない」という選択をしがちでしょう。

そしてその上で彼が「誰もが労働をしないで済む社会」を実現(あるいは推進)するためにベーシックインカムの導入を主張したとします。

これに対して「働かずにもらえるベーシックインカムを提唱するだなんて、無職の当人に有利なことを主張する利己的なポジショントークだ」と批判するのはどうもかみ合ってません。

だって、そもそも「働いてない」というそのポジションは彼自身が「それが社会にとって良いことだ」とする価値観に基づいて積極的に選んだポジションだからです。

つまり、「○○を大事だ」と思っている人は、その○○に関係するポジションを自然と選びがちなので、その人が改めて「○○を大事にしろ」と主張していることに対して「ポジショントークだ」と批判するのは、因果の順序を取り違えた筋違いの批判になってしまうのです。

そのポジションだからその主張をしているのではなく、その主張をするような価値観を持っているから自然とそのポジションを選んでるのに過ぎないのです。


もっとも、同じポジションの人物から同じ主張が出されたとして、それがポジショントークである可能性も当然あります。

たとえば、安定した高報酬を確保しようと思って医者になった人物が、自身の待遇をより安泰にしようとして「医療を大事にしろ」と言うポジショントークを繰り広げることはありえます。

仮にその人に真意を尋ねたとしても「安定した高報酬をあてにして医者になったんだ」という本音は当然語らずに、「病気の人を治すのが大事だと思ったからだ」と建前を語るでしょう。

あるいは、誰もが「自分の人生は良いものだ」と思いたい(裏を返せば「自分の人生は失敗だった」と思いたくない)ものです。

だから、必ずしも本意ではなくたどり着いた自身のポジションに対しても、「これは素晴らしいものなんだ」と思いたい、そういう自己暗示のために自己正当化をすることがあります。

いわゆる「酸っぱいブドウ」みたいな構造です。自分のポジションが最上で、他は大したことないんだと何とかして思い込もうとするところが人にはあります。

だから、その自己正当化の文脈で「自分の関わってる○○は非常に重要だから我がポジションの待遇を良くしろ」と声高に主張することもありうるでしょう。

これはまあポジショントークと言われても仕方がないところがあります。

そんなわけで、実際の個々の場面で「それが絶対にポジショントークではない」という保証は正直できません。

しかしながら、それは逆に、先ほど言ったようなその人の価値観から来る自然なポジション選好の可能性も想定されることから、「それが絶対にポジショントークである」という断定もできないことになります。

つまり、ある人がたとえその人自身のポジションを有利にするような主張をしていたとしても、それは必ずしもポジショントークとは限らないわけです。

にもかかわらず、その人自身のポジションを有利にする主張を全て「ポジショントークだ」と切り捨ててしまうのは、「医療が大事だ」と思って医師になった人物の医療重視意見を全て切り捨てるようなかなりの乱暴なものになるのです。

たとえ一部に現にポジショントークが混じっている可能性があると言えど、それで全部を否定することが妥当であることにはなりません。

そんな単純な判断でものごとは片付かないのです。


そんなわけで、ポジショントークなのかどうかというのは実際には外見上は区別が非常に難しいものです。なにせ「本人の意図がどうなのか」という結局は本人しか分からないものが最終的には問題になるからです。

区別が難しいのは仕方ないとしても、では実のところ何がポジショントークとそうでないものを分けているのだろうという疑問は湧くかと思います。

面白いところなのでちょっと余談的に考察しますと、それは「その対象に対して愛があるかどうか」に尽きると言えましょう。

別に題材が医療である必要はないのですが、さっきから繰り返し例に出してるのでまた医療で考えてみましょうか。

「医療をより良くするために医療従事者の待遇を良くするべきだ」と主張する医療従事者がいたとしましょう。

これがポジショントークかどうかを分かつのは、真に「医療を良くしたい」と思ってそれを言っているかどうかになります。つまり「医療に対して愛があるかどうか」ですね。

で、真に「医療を良くしたい」と思っているのであれば、あくまで「医療従事者の待遇改善」はその最終目的達成のための手段に過ぎないはずです。

ここで、もし「医療従事者の待遇改善」ではない方法で医療を良くする方法が見つかったとしましょう。なんなら確実に医療を良くするという保証まで無くとも、ただ他の有望そうな方法が提案される場面という設定でもいいです。

この時に、どんなに優れた根拠が揃っていても「待遇改善不要」の案に納得しなかったりとか、ハナから検討対象にしないようにしたりするような態度が見られた場合には、真に「医療を良くしたい」と思っているかは疑わしくなってきます。

なぜなら「医療を良くしたい」が最終目的であるならば、その手段たる「医療従事者の待遇改善」以上のより良い方法があるならば喜んでそれを受け入れるし、少なくとも他の案も前向きに検討しようという姿勢を見せるはずだからです。

手段に過ぎないはずの「医療従事者の待遇改善」に対して過剰にこだわって、有力な代替案をそれに対する妥当な反証の提示なくただ即座に拒絶する場合には、それは真の目的が「医療を良くしたい」よりも「医療従事者の待遇改善」の方になっていると考えられます。

これはまさしくポジショントークと言わざるをえないでしょう。

なので「対象に対して愛があるかどうか」。これは目的と手段のどちらにこだわってそうかがひとつの鑑別ポイントになってくると考えられます。

目的にこだわっているのか、手段にこだわっているのか。

こっそり手段(自身を含むポジションの優遇)の方によりこだわってそうであったら、ポジショントークの疑いが出てくると言えそうです。

繰り返してるようにあくまで厳密には区別は難しいのですが、なんだかんだ感覚的にこの「目的と手段とどっちを重視してそうか」はその人の態度から伝わってくるものがあると思っています。

実のところ、人は直観的に鋭くそれをとらえて「ポジショントークだ」と批判しているところもあるんじゃないかと。人の第六感は侮れませんからね。

だから、本稿では「ポジショントーク」の決めつけには釘を刺してはきましたが、その一方で、「ポジショントークだ」と批判される時には、被批判者がそれ相応の怪しい態度を取ってる時も多いと思うので、いつの間にか自身の主張において目的と手段が入れ替わってしまってないかは注意していきましょう。

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江草 令
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