
C アリストテレス①
アリストテレス(Aristoteles 384-322 BC)
アリストテレスは、ギリシアの北の小国マケドニア王の侍医の家に生まれ、十七のとき、アテネにおもむき、プラトンの主催するアカデミア学園に入学し、以後、二十年間、有能な弟子として活躍し、後進の指導にもあたった。
プラトンの死後、アカデメイアの後継者問題の末、結局はプラトンの甥が継ぐこととなってしまったため、これを機会に彼は独立し、招かれて小アジアに移り、各地を遍歴しつつ独自の研究を深めた。この背景には、マケドニアのギリシア侵攻によって、もともと排他的なアテネに反マケドニアの気風が生じてきたことも影響していた。
その後、42才のころ、マケドニア王に招かれて、14才の王子アレキサンドロスの家庭教師となった。だが、ギリシア的文化を尊重し、性格的にも穏和なアリストテレスと、世界帝国建設の野望に燃え、オリエント専制君主的な激しい性格を持ったアレキサンドロスとは、おたがいに理解し難い溝があったようであり、その交流はおよそ形式的なものにとどまったらしい。
アレキサンドロスの王位継承後、50近いアリストテレスはアテネに戻ったが、アカデメイアには帰らず、独自の学園を近郊の森、リュケイオンに創建した。彼らは散策しながらの思索を好み、《逍遥 ペリパトス 派》と呼ばれた。ここで彼は、多くの先人たちのさまざまな学説を網羅的に集大成し、ひとつひとつに冷静な検討を加え、その批判を交えつつ、その問題点を総合的に解決するという壮大な知の大帝国を築いた。そして、まさにこの時期、彼の弟子アレキサンドロスもギリシアからエジプト、果てはインド、中央アジアにまで至る大帝国を建設した。
しかし、彼が61のころ、アレキサンドロスは30そこそこにして遠征先で病死してしまった。これとともに、アテネでは支配国マケドニアへの革命が起こり、アリストテレスもソクラテス同様の不信仰罪で告発されることとなった。だが、彼はソクラテスのように不死を信じるような神がかった人間でもなく、また、アテネ市民にソクラテスの時と同じ間違いをさせたくないと考え、早々にアテネを脱出し、ギリシアの別の都市に逃れたが、翌年にはそこで62にして病死してしまった。
彼の容貌、人柄についてはほとんど資料がないが、一説には、彼はたいへんに穏和で寛大な人格者であり、つねに上品な、きちんとした服装を好み、話をするときにはやや舌がもつれたと言われる。いずれにしても、彼は、哲学的先行者と決定的に異なって、およそ神がかった独断論を排し、きわめて常識的見地から考え、また、他の人々の意見を謙虚に理解しようと努め、かつ、それに注意深く批判を加えていることである。つまり、独断的教義の説教者ではなく、知を愛し、知を学ぶ学者であった。
この意味で、彼の哲学は師プラトンの学説を引継いでいるとはいえ、ある一面に関してはむしろ極めて批判的に継承した。そしてまた、彼の名はソクラテス、プラトンと並び称されるけれども、およそ宗教的、倫理的、政治的であったソクラテス・プラトン派のみの継承発展に止まるものではなく、彼以前のおもだった哲人たちのすべてを吸収し、さらに、形而上学はもちろん、自然学や論理学、政治学、倫理学など、広大な分野に渡って独自の体系的学説を築いた。
それゆえ、彼の哲学は多岐に渡っており、その全貌を捕えることは難しい。しかし、彼の哲学的独創性が発揮されているのは、なんといっても《形而上学》の分野であり、これと関連して《自然学》や《論理学》も展開されている。プラトンは〈真実在〉を直視すると〈魂の目〉がつぶれてしまうと考え、〈論言 ロゴス の中での考察〉という方法、すなわち、〈問答法 ディアレクティケー〉を用いて探求したが、アリストテレスもまた、〈自然 フュシス 〉は〈論言 ロゴス 〉に反映されていると考え、両者を表裏一体のものとして、言語分析によって論理的に一般自然論、すなわち、《形而上学》を探求した。そして、プラトンの〈問答法 ディアレクティケー〉に対して、アリストテレスは〈窮論法 アポレティケー〉という方法を用いた。すなわち、同じ問いに対して出されている、納得しうるさまざまな見解を集め、それらの矛盾する見解相互の関係をあらためて整理しなおすことによって、問題の構造もまた明らかにし、これによって、それらのさまざまな見解によって論じられている自然の対象そのものを、アナロジカル(類比的)に浮び上がらせようとする。
とくに問題となるのは、ただそれがあるとされるような〈存在〉そのものであり、それはまた、自然一般の〈基体〉でもあり、論言一般の〈主語〉でもある。つまり。彼にとっては、この三者は同一のものだったのであり、この《形而上学》と《自然学》と《論言学》の同一視こそ、彼の哲学の最大の特徴である。つまり、《自然学者》風に言えば、彼は万物の根源は〈論言 ロゴス〉であると考えた。
そして、彼は、この〈存在〉=〈自然〉=〈論言〉に対し、〈質料〉と〈形相〉という、たった2つの概念装置を巧みに使い分け、重層的に組合せていくことによってその分析を進めていくのであり、これによって〈個物〉と〈普遍〉との関係や、〈生成〉の問題も論じられる。
『形而上学』は、さまざまな機会に、さまざまな趣旨で書かれた論文を集めたものであり、その細部の構成は独創的で緻密であるが、全体的な体系的整合性はあまり明確ではない。それゆえ、「存在」という言葉に関する用法分析も、基本的に、
A 付帯性・真偽・述語・可能現実の分類
B 実体への帰一構造
C 類種構造による最高類概念としてのカテゴリー
の三種類があり、これらの相互関係は交錯していてはっきりしない。
しかし、多少の推論も交えてこれらを整理しなおすならば、次のようになるだろう。
すなわち、まず、〈論言 ロゴス〉と〈自然 フュシス〉は構造的に対応している。それゆえ、すべての「存在」の語りは、自然の実体への帰一的言及でもある。これを〈質料〉
と〈形相〉という2つの相対位置に整理すると、
質 料 ←→ 形 相
〈主 語〉 × 〈述 語〉
∥
〈基 体〉 × 〈属 性〉
しかし、〈述語〉の〈属性〉への言及には、本質定義的な言及と偶然付帯的な言及
があり、それゆえ、〈述語〉は〈種〉と〈状態〉とに区別される。
〈 種 〉:本質定義的
〈状 態〉:偶然付帯的
次に、このような構造の〈形相〉、つまり〈述語〉・〈属性〉自体は、本質定義的な構造において、これらをふたたび〈質料〉と見ることによって、さらに高次の〈形相〉すなわち〈類〉に包摂される。たとえば、〈犬〉は〈哺乳類〉に、さらには〈動物〉に、また、〈2m〉は、〈メートル〉に、さらには〈長さ〉に、包摂される。このようにして、すべての〈述語〉は最終的にはいずれかの〈最高類概念〉すなわち〈カテゴリー〉に包摂されることになる。たとえば、〈犬〉は〈実体〉カテゴリーに、
〈2m〉は〈量〉カテゴリーに包摂される。
質 料 ←→ 形 相
質 料 ←→ 形 相
〈述 語〉 × 〈 類 〉<………<〈カテゴリー〉
〈属 性〉
そして、先の〈実体〉への帰一構造に戻って言えば、〈実体〉への言及は、このような〈カテゴリー〉のいずれかの面から行われ、〈個体〉は、〈種〉〈類〉という階層的構造を経て、〈実体〉の〈カテゴリー〉に包摂され、また、同じ〈基体〉に対する偶然付帯的な〈状態〉も、同じ〈カテゴリー〉の種類の中でのみ変化する。
〈基 体〉<〈種〉<〈類〉<〈類〉………<〈実体〉
〈状態1〉
〈基 体〉 × ↓ <同じカテゴリー
〈状態2〉
ところで、〈主語〉と〈述語〉との関係だが、〈基体〉と〈属性〉とが結合しているときには、これらを肯定的に〈主語〉と〈述語〉に配置し、また、〈基体〉と〈属性〉とが分離しているときには、これらを否定的に〈主語〉と〈述語〉に配置することが真であり、この逆をすることが偽である。したがって、真偽はただ思考の中にのみある。というのは、〈基体〉や〈属性〉の結合・分離は思考の中でのみ行われうることであり、実体はただひとつのものとしてあるだけからである。さらにまた、思考の中でも、結合・分離以前の単純対象概念(主語)や実体類種概念(述語)そのものに関しても真偽はありえない。
実 体
↑
↓
〈基 体〉 × 〈属 性〉
〈主 語〉 × 〈述 語〉
さて、このような、「ある」で結び付けられる〈質料〉〈形相〉という面から分析に交差して、働きの面からの分析がある。すなわち、そこでの「ある」そのものの様態に関して、〈可能態〉と〈現動態〉〈完成態〉の区別がある。たとえば、「彼は建築家である」といっても、彼が建築の仕事をしていないときもあるし、しているときもある。
〈質 料〉 × 〈形 相〉
〈可能態〉
〈現動態〉
〈完成態〉
a) 形 而 上 学
【形而上学 metafhysica】【第一哲学】
アリストテレスにとって、理論的諸科学すべてが知をもって知を求める《哲学》であるが、中でも、自然一般の持つ自発的力能の第一のもの、すなわち〈不動の動体〉、たとえて言えば〈神〉、〈存在としての存在〉を問題とする学が第一のものであるとされた。この〈実体〉は、不生不滅不変で普遍一般的であるはずであり、この意味でも、これに関する学は、他の対象限定的な個別諸科学に先立つものなのである。これは《存在論》であるが、《自然学》にも《論言学》にも共通のものであり、それゆえ《自然学》や《論言学》からアナロジー(論言遡上)的に探求され、彼自身はこのような学を《第一哲学》《神学》と呼んだ。
そして、これらに関する一連の論文が、その著作編集において《自然学》関連のものの後に配列され、これらは『ta meta ta physica(自然学の後ろのもの)』と呼ばれた。ところが、この呼び名はむしろその内容から『自然背後学』、つまり、自然を超越する対象に関する学と解釈され、さらに、キリスト教的信仰が中心となった中世には、この『自然背後学』は《神学》へと吸収されて、このような《哲学》は、信仰を合理化し、整備する〈神学の婢(下女)〉として、〈神〉〈魂〉〈宇宙〉等に関する抽象的で壮大な空理空論の体系となっていった。
近世になって、神学の枠組がはずされると、神学、霊魂(意識)論、宇宙論の分野で、神秘主義的なものから論理論証的なものまで玉石混淆の、さまざまな独創的な構想が提出されるようになり、哲学の黄金期を迎えることになる。そして、近代には、それらの中でも実証的な説明に成功したものは次第に《科学》として専門分野ごとに独立していき、あやしげなものばかりが《哲学》の名のもとに残ることになってしまい、むしろ逆に《似而非(えせ)科学》とも呼ばれ、「形而上学」はこのような学に対する蔑称となった。(ただし、近代に正当化された諸科学も、いまだ近世の時点では、似而非科学とまったく同様の、たんなる独断的思いつきの仮説にすぎなかったことを忘れてはならない。)
現代において《形而上学》は、中世から近代にかけての《哲学》が〈神〉〈意識〉〈世界〉を取上げていながら忘却してきた、それらの根本にある〈存在〉の問題をふたたび中心に取り返さなければならないとし、主観的意識から超越した、人間が左右することを許さないその自発的力能を扱うようになった。この問題は、期せずして、さまざまに独立していった諸科学の方からも反省されるようになり、《科学基礎論》という形で、諸科学が対象とする客観的〈実在〉への接近の仕方を探求している。その問題の図式は、不思議なことにアリストテレスの発想法とよく似ており、自然 フュシス と言語 ロゴス との関係として立てられ、哲学のみならず、自然科学、社会科学、文学や芸術などの分野をも巻き込んで、活発にさまざまな議論が展開されている。
なお、日本語の「形而上」という言葉は、中国の古典『易経』の中の一節からとられたものである。『易経』において、この言葉は、やはり、自然的事物に対して、それらを転変させる不変的、普遍的力能を意味している。
【実践学 praktike/制作学 poietike/理論学 theoretike】
(『形而上学』11-7,6-1)
すべての学問は、それぞれ、その学に属する対象の原理を探究するが、これらは大きく《実践学》《制作学》《理論学》の3つに分けられる。そして、《実践学》は行為を、《制作学》は作品を、《理論学》は真理を目的とする。
《理論学》は、さらに、《自然的諸学》《数学的諸学》《神学(形而上学)》の三つに分けられ、《自然学》は離存するが不動ではないものを、《数学》は不動であるが離存しないものを対象とするのに対し、《第一哲学》は、不動で離存するもの、すなわち、〈神〉〈存在としての存在〉を対象とする。
【第一の不動の動体 proton kinoun akineton】
(『自然学』『形而上学』6-1)
運動の系列がある以上、みずからは動かされずして他を動かす〈第一の不動の動体〉が完成態として永遠にあり、これは、質料を持たない純粋形相として、自体的にも付帯的にも生滅変化の外に唯一のみ離存するにちがいない。このようなものは〈神〉にほかならず、それはすべてを快楽とする最善の暮らしを営み、自体的に、つまり、思惟者と思惟対象とが一致して思惟の思惟する永遠の生命であり、愛されるものとして動くことなく目的因的に下位のものを順に動かしているのである。そして、このようなものを探求する学こそ、すべての学に先立つ《第一哲学》であり、《神学》である。
また、この下には複数の〈不動の動体〉がある。これは天界の運動を永遠不変に保つ天球であり、〈澄気 アイテール〉という第五原素からなり、順に月下界にまで影響を与えている。
【存在としての存在 on he on】
(『形而上学』4-1,6-1,6ー2)
部分的諸科学は、存在のある部分、すなわち〈類〉を抽出し、これについて付帯する属性を研究しているだけであるから、研究対象の何であるかも説明することなく、かえってこれを根拠なく仮定した上で、そこから推論した〈媒介識 ディアノイア〉にすぎない。これに対して、《第一哲学》は、自然の実体そのものを研究するものであるから、そのような付帯的な存在ではなく、端的な存在としての存在を考察し、また、存在に存在として内属する所属性(自体的属性)を研究しなければならない。つまり、これは不動の実体を研究するがゆえに、生滅変化する現象的自然を研究する《自然学》より先なる学である。
しかし、これは、自然諸科学のようにさまざまな観察から推論する《エパゴーゲー(帰納法)》によっては不可能であって、他の解明方法によらなければならない。そこで、アリストテレスは言語分析的方法を採る。
しかし、端的な「がある(存在)」という言葉にも、
1:付帯性
=aがBでもある
2:真・偽
=aがBであるということが本当にある
3:述語 カテゴリー
=aはAというものに属している
4:可能的 デュナミス・現実的 エネルゲイア
=aはbになる、なっている
と、多くの使われ方がある。そして、この中でも、付帯性は偶然的で必然的連関がないために、学の対象となりえず、また、真偽も思考内での問題なので、これらは除外され、ただ述語と可能・現実の問題のみが、まさに〈実体〉に係わるものとして、《第一哲学》の扱うべきものである。
【「存在は多様に語られる to on legetai pollakhos.」】
(『形而上学』4-2)
「がある(存在)」ということは、さまざまな異なる意味で、しかし「ある」という同じ言葉で語られる。だが、これらの異なる意味に同じ言葉が用いられることは理由がある。というのは、これらはすべて、同じ自然そのもの(〈実体〉)を異なる面から語っているからにすぎないからである。すなわち、
1:実体があるがゆえに
=ex ポチがある
2:この実体の限定(属性)があるがゆえに
=ex 犬というものがある
3:実体への過程があるがゆえに
=ex 解決策がある
4:実体の消滅・欠如・性質・制作産出があるがゆえに
=ex 無駄がある、穴がある、白い色がある、画家や鉱山がある
5:これらがあるがゆえに
=ex 解決策というもの、無駄というもの、穴というもの、等がある
6:これらの否定があるがゆえに
=ex ポチはいないことがある、
解決策はないことがある
「ある」と言われる。つまり、自然の〈実体〉に対する〈帰一〉によって、「ある」と言われるのである。なお、ここで言われている多様さは、〈述語〉の問題であり、可能・現実ではない。
【基体 hypokeimenon】
(『形而上学』など)
もともとは、「下に横たわっているもの」の意味で、生成変化の根底にあって、変化しないものを指す。ここから、〈自然 フュシス〉においては、可変的な諸属性の担い手として〈主体〉であり、また、その〈論言 ロゴス〉においては、多様な諸述語の帰し手として〈主語〉でもある。
つまり、アリストテレスは、この〈基体〉という概念装置を軸に〈自然〉と〈論言〉とを結びつけ、両者に共通する〈存在〉そのものを論言遡上 アナロジー 的に浮び上がらせようとした。
【「そもそも何であったか to ti en einai」】
(『形而上学』7-4)
本質、各々がそれ自体でそれであると言われるもののこと。ラテン語では 直訳して「quid quod erat esse」と言う。
これは論言 ロゴス においては〈定義 horisumos〉される。しかし、定義は、定義される対象がその中に含まれてはならず、むしろ、その中で意味されているようなものでなければならない。つまり、事物の定義は、最も近い〈質料〉(最近類)とその〈形相〉(種差)という形で述べられる。そしてこれは、〈実体〉にかぎらず、さまざまな〈述語〉に関しても言えることである。そして、定義は過剰であっても、不足であってもならない。
ただし、「これ」と個物で指し示すことができるのは、ただ〈実体〉だけであって、それゆえ、〈そもそも何であったか〉は、ただその〈論言〉が〈定義〉である場合にのみ、つまり、〈定義〉となることが問題として語られる場合にのみ、すなわち、対象を本質的側面に着目して論じる場合にのみ存在する。それゆえ、〈そもそも何であったか〉ないし〈定義〉は、〈実体〉に関してが第一義的、自体的であって、他のカテゴリーの述語に関しては派生的、付帯的な意味でにすぎない。つまり、前者は本質定義的的な〈そもそも何であったか to ti en einai〉であるが、後者は偶然付帯的〈どんなであるか to ti esiti〉にすぎない。しかし、どちらも論言において「ある」と言われるのは、どちらもが自然において同一の実体に言及している帰一的な関係にあるからである。
【出一 pros hen】
【論言遡上によっての一 kat'analogian hen】
(『形而上学』4-2、『カテゴリー論』など)
〈自然 フュシス〉と〈論言 ロゴス〉は並行しているが、しかし、けっして単純に1対1対応しているわけではなく、その関係は大きく次の三つに分けられる。
1:〈シュノーニモン(同名同義)〉
=名前も本質の定義も共通であるもの
ex 人間も牛もともに「動物」と言われる
2:〈ホモーニュモン(同名異義)〉
=名前は共通だが本質の定義が異なるもの
ex 動物のさそりと星座のさそりがともに「さそり」と言われる
3:〈パローニュモン(異類同義)〉
=ある同一のものからの派生によって名前が共通であるが、その名前の類は異なるようなもの
ex 栄養は健康を保つがゆえに、
薬は健康をもたらすがゆえに、
体力は健康のしるしであるがゆえに、ひとしく「健康的」と言われる
とくに、第三の関係が〈基体〉と〈カテゴリー〉の関係から重要となる。すなわち、自然の同一の〈基体〉が、共通名で呼ばれつつ、その名はその着目面によってそれぞれの類に従った語形変化などの文法的規則に従う。
このような同一体からの派生構造を〈出一〉と言う。そして、これを逆に〈論言 ロゴス〉の側から言えば、さまざまな論言からさかのぼって、それらに意味される論言外の共通同一の実体が浮かびあがるという効果があり、それゆえ、このような表現方法を〈アナ- ロゴス(論言遡上)〉(「類比」「帰一」)と言う。
とくに、このような方法で表現されるものとして「存在」が重要である。つまり、「ある」という言葉は、ひとしく同じ〈自然 フュシス〉の実体そのものとの関係において言われ、すなわち、それ自らが実体であるがゆえに、また、この実体の限定であるがゆえに、また、実体への過程であるがゆえに、また、実体の消滅・欠如・性質・制作産出であるがゆえに、さらには、これらであるがゆえに、また、実体やこれらの否定であるがゆえに、「ある」と言われる。
【実体 ousia】
(『形而上学』5ー8,7-2,7-3、『カテゴリー論』5,7-3 など)
第一の意味としては、純粋な質料である個々のもののことであり、いかなる〈主語 hypokeimenon〉の述語ともならず、また、いかなる〈基体 hypokeimenon〉の中にも存属せず、ただ「これ」としてだけ指し示される、具体的な特定の〈まさにそれ(個物) to de ti〉であり、これは「第一実体 prote ousia」と呼ばれる。
しかしまた、第二の意味としては、この第一実体をその中に含む〈種 eidos〉、さらにそれを含む〈類 genos〉を指し、このような〈形相 eidos〉、または、〈質料〉と〈形相〉の両者からなる複合体は「第二実体 deutera ousia」と呼ばれる。その中でも〈類〉よりは〈種〉の方が〈第一実体〉に近いがゆえに、いっそう〈実体〉であり、かくして、実体の程度に関して、個物から最高類概念 カテゴリー まで、序列付けられる。
〈形相〉はたしかに不生不滅で定義可能だが、両者からなるものは生成消滅するがゆえに、その生滅変化の基体である〈第一実体〉に関しては定義されえない。また、〈実体〉の特徴は、同一でありながら、反対の性質、たとえば、白と黒、善と悪なとを受け入れることができるということである。
【質料 hyle / 形相 eidos】
(『形而上学』第8巻など)
〈実体〉とは、〈質料〉や〈形相〉、さらに、これら両者からなる複合体を意味する。
〈質料〉とは、生滅変化の〈基体〉であり、〈形相〉は、この〈種差 diaphora 〉である。また、〈形相〉には、〈種〉という意味もあり、〈種〉とそれを含む〈類 genos〉という形で、〈質料〉と〈形相〉とは重層的な構造をなし、事物の〈定義〉は、最も近い〈質料〉(最近類)とその〈形相〉(種差)という形で語られる。
つまり、〈質料〉とか〈形相〉とかいう表現は、対象固定的なものではなく、着目する面やレベルによって多分に相対的なものである。また、〈質料〉と〈形相〉は、そもそも、自然においては実体として同一のものの可能的な面と現実的な面との二面なのであり、これらの結合・分離は思考においてのみ行われうることだから、両者がどのように結合・分離するのか、を問うことは無意味である。
【第一質料 prote hyle, prima materia】
(『生滅論』『形而上学』5-4,5-6)
なんの〈形相〉も持たない純然たる〈質料〉。
しかし、このような万物の〈共通物質 ソーマ・コイノン〉は、たんなる思考の抽象物にすぎず、真に実在するのは端的な究極の〈基体〉、すなわち、火・土・空気・水の4原質のいずれか、ないし、すべてであり、すべてのものは、究極的にはこれらの〈質料〉のいずれかに還元されうる。
ただし、逆に、〈形相〉に最も近い〈質料〉もまた究極の質料に対して〈第一質料〉と呼ばれることもある。
【自体的 kath' hauto / 付帯的 syumbebekos】
(『形而上学』(4-1,5ー18,5ー30など)
ある〈属性〉がその〈基体〉の〈そもそも何であったか(本質)〉に係わるか否か、によって、〈自体的〉なものと〈付帯的〉なものとに分けることができる。
〈自体的〉な〈属性〉とは、
1:その個体を特定する本質そのもの
ex ソクラテスのソクラテス性
2:その個体が本質として含んでいる質料
ex ソクラテスの人間性
3:形相の本質そのもの
ex 人間の人間性
のことである。
これに対して、〈付帯的〉な〈属性〉とは、[ある物事に属し、それの真実を語るが、しかし、必然的でもなく、多くの場合でもない属性]のことである。つまり、特定の場所と時とにおいてのみ、その主語・基体に属するのであって、偶然の不定な原因によってであるにすぎない。
しかし、〈自体的〉と〈付帯的〉の中間に、〈自体的付帯性 syumbebekos to kath'hauto〉、すなわち〈特質 propria〉というべき〈属性〉もある。つまり、[その基体に必然的にすべての場合に属してはいるが、その本質とはおよそ係わりのないような属性]のことである。たとえば、〈三角形〉は、〈3つの角を持つ図形であること〉が本質であり、〈3つの内角の和が2直角であること〉は本質とはなんの関係もないが、すべての三角形は必然的にこのような属性を持っている。
【我々にとってより先なるもの proteron pros hemas / 端的により先なるもの proteron haplos】
(『分析論後書』、『形而上学』5ー11)
〈我々にとって先なるもの〉は、認識により近いもののことであり、我々にとってより明らかで、可知的である。ただし、この中でも、〈論言において先であるもの〉と〈感覚において先なるもの〉は異なる。論言においては普遍的なものの方が先であるが、感覚においては個別的なものの方が先である。また、論言においては〈種差〉の方が先であるが、感覚においては〈類〉の方が先である。つまり、事物は〈質料〉〈形相〉の重層的な構造によって、感覚的で個別的な〈まさにそれ(個物)〉から、論言的で普遍的な〈カテゴリー〉まで連続的な階層をなす。
しかし、〈端的に先なるもの〉、〈自然 フュシス において先なるもの proteron tei physei 〉は、このような個別普遍階層とは別のものである。つまり、〈始源 アルケー〉、すなわち〈原因〉により近いものがより先と言われる。しかし、原因には、上の〈質料因〉〈形相因〉の他に、〈始動因〉〈目的因〉があり、〈始動因〉〈可能態〉に関してより先なるものと、〈目的因〉〈完成態〉に関してより先なるものは逆になる。
いずれにしても、探求の方法には、仮説的な〈始源アルケー〉から出発し、推論によって展開していく〈媒介識 ディアノイア〉と、既知の物事から出発し、論言遡上 アナロジー によって〈始源 アルケー〉へと遡っていく仕方があるが、我々は、後者の〈我々にとってより可知的なもの〉を先にし、〈端的により可知的なるもの〉へと遡っていくべきである。
【カテゴリー kategoriai】
(『形而上学』『カテゴリー論』)
結合によらないで言われること(文ではなく自立語)すなわち〈述語〉が意味するのは、
1 実体 ex 人間、馬
2 量 ex 2m、3m
3 質 ex 白、文法的
4 関係 ex 2倍、半分、より大きい
5 所 ex 学校、市場
6 時 ex 昨日、去年
7 姿勢 ex 横たわる、座る
8 所持 ex 靴をはいている、武装している
9 能動 ex 切る、焼く
10 受動 ex 切られる、焼かれる
のいずれかである。
つまり、さまざまな〈述語〉は、〈種〉〈類〉という本質定義的な階層構造をたどって、最終的には、これらのいずれかに包摂されることになる。それゆえ、これらは〈最高類概念〉なのであり、これらを「カテゴリー」と呼ぶ。
しかし、このような構造は、〈自然 フュシス〉と〈論言 ロゴス〉との対応によって、実体そのものの存在論的構造をも反映しているのである。つまり、自然の〈実体〉はこの〈カテゴリー〉という多様な面を持ち、変化はそれぞれの同じカテゴリーの中でのみ、〈実体〉では生滅として、〈量〉では増減として、〈性質〉では交代として、〈所〉では移動として、起こるのである。
ただし、アリストテレスが挙げている〈カテゴリー〉の数は6だったり、8だったりと箇所によって異なっている。つまり、彼の意図したところは、これらをすべて網羅することではなく、あくまで、この論言的構造を存在論的に位置付けることにあったのだろう。
【可能態 dynamis /現動態 energeia /完成態 entelecheia】
(『形而上学』第9巻など)
「○○である」という言葉は、その働きの面から次の三つの場合に分けられる。
〈可能態〉=その働きを能力として未だ秘めている状態、○○になる
ex 「彼がこの計画に当たる建築家である」
=彼がその建築の仕事の能力を秘めているということであるから
〈現動態〉=その能力が働きつつある状態、○○になりつつある
ex 「彼がこの工事の建築家である」
=建築の仕事をしつつあるということであるから
〈完成態〉=その働きの目的が達成された状態、○○になっている
ex 「彼がこのビルを建てた建築家である」
=すでに建築の仕事を完成しているということであるから
〈現動態〉と〈完成態〉は、完成を含むか否かで明確に区別されるべきものであるが、〈可能態〉との対比においては、同義的に用いられることもしばしばある。
【第三人間 trotos anthoropos】
プラトン的《イデア論》に対するアリストテレスの批判の中心的論理。
すなわち、プラトンは、[イデアは現世界の事物から離存する]とし、[現世界の事物は、イデア数の媒介によって、イデアを分有する]とした。
しかし、たとえばソクラテスという現世界の人間と人間のイデアとがあるとすると、両者を媒介し、両者から離存する、言わば人間性ともいうべき第三の人間が必要になる。ところが、このように考えるならば、さらに、現世界の人間からも、人間のイデアからも、さらに、第三の人間からも離存する第4、第5の人間が必要となり、無限後退をしなければならなくなってしまう。
それゆえ、アリストテレスは、プラトンと似た《形相論》を継承しつつも、[〈質料〉と〈形相〉との結合・分離はあくまで思考の中でのみ行われうることであって、自然においては同一の実体の異なる二面にすぎない]とし、プラトン的な《二世界説》を排して、むしろ、唯一の実在する自然のみを問題とした。