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D 帝国期ストア派
ストア派は、BC 300年頃、キュプロスのゼノンによって創立された学派であり、次第にプラトンやアリストテレス哲学との折衷主義の専門学術化が行なわれていったが、しかし、AD1Cになってふたたび初期の倫理的な禁欲精神にたち戻る傾向が生じ、奴隷から皇帝まで多様な人々に深く学ばれた。また、彼らの中にはラテン語で著作を残した者もいたために、中世を通じて頻繁に読まれ、大きな影響を与えた。
ストアの思想は、論理学、自然学、倫理学の三つの面からなるが、この後期ストア派においては、とくにその倫理的側面が強調され、物理学や自然学は、ただ世の成行きを予見して、それらに驚き、とまどわされることがないようにするためのものとされ、ときにはそれらの自然学や論理学にうつつをぬかすことはむしろよかなぬこととされるほどであった。その倫理は禁欲的、自制的であって、自らの責任を大とし、また、善に対してはそこに深い義務感を見出し、これに忠実に従うことを指導原理とした。
セネカ(Lucius Annaeus Seneca c5/4-65)
スペインのコルドゥバのローマ市民である富裕な騎士の家庭に生れ、父もまた修辞学者として有名であった。この父によって、彼はローマに行き、修辞学や哲学を学んだ。そして、いくつかの官職を経たものの、心身を病んで数年間、エジプトで養生の生活をおくった。
三十才の時、ローマに戻って財務長官となり、元老院や法廷で弁論を行なうようになると、彼はその巧みさにいちやく名声を獲得した。しかし、この名声は嫉妬深い皇帝や元老院議員たちの前では災いでしかなかった。彼自分を神と思い込んでいる狂帝カリグラには、とがなくして処刑されそうになり、また、次のクラディウス帝の時には、皇后の陰謀にはめられコルシカ島に流されたりもした。この時期、彼は学問や詩作に慰めを見出そうと努力する一方、また、皇帝にへつらった赦免歎願も行なっている。しかし、それは認められず、流刑の日々は8年におよんだ。
皇后の不義が発覚して処刑された後、49年、新皇后は彼を召還し、十二才になる自分の子供の教育にあたらせた。この子供こそ、後の暴君ネロにほかならない。そして、54年、皇后は皇帝を毒殺し、自分の子供を帝位につかせる。セネカは自分に無罪の刑を負わせた皇帝の死と、自分の教え子の皇帝就任を大いに喜んだ。そして、彼はさらに出世し、56年には、執政官補佐にまで成上がり、ネロを芸術に没頭させ、政治の実権を押え、善政を行なった。しかし、これに皇后が抵抗したため、ネロとともに彼女を暗殺した。彼は、人生の絶頂に立ち、豪奢な生活を送った。
ところが、60年代に入ると形勢はふたたび逆転してしまった。彼は元老院で孤立した。彼は莫大な財産を皇帝に譲渡し、隠退した。その後は、哲学と交際とに過した。しかし、65年、ネロへの反逆の陰謀に加担したとの嫌疑をかけられ、ネロによって自殺を命じられ、果てた。
政治的運命に翻弄され続けた彼にとって、なにものにも動じないストアの思想はつねにひとつの理想であり、そしてまた、それゆえ、つねにその理想と現実とのギャップに心を痛めていた。とくに教え子にして主君であったネロに関しては、早くからその人格的問題点に気づき、これを正道にもどすべく、残忍さを諌め、寛容であるように説いたりもしてはいるが、その後の歴史が示すように、効果はなく、かえって彼自身もネロに殺されるにいたってしまった。
エピクテトス(Epiktetos c60-c138)
ローマにおいてネロ側近の者の奴隷であったが、その間にも師についてストア哲学を学び、その後、解放されて、多くの庶民の弟子を育てた。そして、哲人としての名声が高まると、彼のもとには多くの政治家や実業家たちも集まってくるようになった。それでも、彼は以前からの非常に質素な生活を続けた。しかし、1C末の哲学者追放の難にあって、後年はギリシア半島西岸の都市に移り、弟子たちに哲学を教えつつ、孤児の養育を行なったりもした。
彼は観想的哲学者というより、実践的な哲人であった。著書もなく、ただ弟子の手による語録が残るのみであるが、その思想は、初期ストア哲学の根本である禁欲にたち戻るものであり、ひたすら耐えることを説いている。そして、政治的・社会的転変の激しい時代にあって、何事も心の持ちよう次第と考え、宇宙の意志のあるがままに自分も意志することで心の平静を保ちうるとした。
マルクス・アウレリウス・アントニウス(Marcus Aurelius Antonius 121-180)
彼はローマの名門の家庭に生れたが、彼が8才の時に父が亡くなったので、総督や執政官、元老院議員などをの重職を歴任した祖父のもとで育てられた。彼は病弱であったために学校ではなく家庭教師に学んだが、勉学に励むとともに身体も鍛練して健康を獲得した。彼は少年の時から当時の第三代賢帝ハドリアヌスに目をかけられ、彼の学んだ師も当代一流の学者たちであった。かくするうち、彼はとくに哲学に関心を深め、そのころローマで広く行なわれていたストア派に学んだ。
彼が17才のとき、ハドリアヌスが没し、第四代賢帝アントニヌス・ピウスが継いだが、この賢帝は先帝の遺言に従って彼とルキウスという人物を養子に迎え、さらに、マルクスを将来の自分の後継者と定めた。彼もこの養父を敬愛し、26才のときには皇帝の娘と結婚し、養父をたすけて国政に参与するようになった。
しかし、彼が40才の頃、この賢帝も亡くなり、彼が第五代賢帝として皇帝になったが、彼は先々帝の遺志を重んじて、義弟ルキウスも同じ皇帝とし、二人の共治とした。もっとも、ルキウスはあまり政治に関心なく、形式的なことにすぎなかったようである。しかし、両者は友愛と尊敬とを交わし続け、マルクスは長女をルキウスの妃にしてもいる。
ところが、それまで版図を拡大し続け、パクス・ロマーナ(ローマの平和)をほこってきたローマは、彼の治政には一転して外憂の時代になった。東方で反乱が相次ぎ、パルティア(ペルシア)は宣戦布告してくる、ゲルマン民族は侵入してくる、さらに、連中の持込んだペストが帝国中に蔓延するという有様である。マルクスはみずからの財産を処分して軍資金を調達し、直々にそれぞれの戦線におもむき、これらの防戦にあたった。主著『自省録』はこの出征地で書かれたりもしている。また、彼はアテネの哲学校に基金を提供したり、貧しい人々の援助に努力したりもしている。彼は平和を望み続けたが、その在任中はほとんど戦乱の対処に追われ、ゲルマンとの対戦後、58才にして伝染病で死んだ。
彼は、プラトンが望んだ哲人王を実現した歴史上、唯一の人物であり、実際、彼はその期待にそうだけの充実した善政を行ない、後世にもほまれ高い。
彼のストア的思想は、エピクテトスの著作を通じて形成されたらしく、そこにはそれほどの独創性はないが、しかし、それを実践において深く探究し、自らの指導原理とした点に関しては、なんぴとにもひけをとるものではない。