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C アリストテレス②
b) 論 理 学
【『オルガノン organon 』】
機関、とくに、学問研究の道具、つまり、論理学のこと。
通常、アリストテレスの論理学的著作の総称を意味する。すなわち、
1:『範疇論』 =述語について
2:『命題論』 =自然と論言との関係について
3:『分析論前書』=三段論法について
4:『分析論後書』=論証について
5:『トピカ』 =推論について
6:『詭弁駁論』 =詭弁について
の6書をさす。
【定義 horismos】
(『オルガノン』各書)
その物事の〈そもそも何であったか(本質)〉の論言 ロゴス。論証 apodeixisの出発点となるが、これに自身に対しては論証されない。
〈定義〉は、最近〈類 genos〉[定義される種を含むもっとも小さな類]と〈種差 diaphra〉[その類中で、定義される種の他の種とのもっとも大きな違い]、すなわち、〈質料〉と〈形相〉とからなる。たとえば、人間は、[理性ある動物]と定義され、「理性ある」が〈種差〉、「動物」が〈類〉になる。
【三段論法 syllogismos】
(アリストテレス、古典的形式論理学)
2つ以上の前提から1つの結論を導く推論。大きく、定言三段論法 categorical s.と複合命題を含むものに分けられる。
《定言三段論法》は、2つの前提からなるものが基本的であり、これは、3つの〈名辞〉、3つの〈命題〉から成立つ。
〈名辞〉には、
小名辞S
大名辞P
中名辞M
があり、前提 protasis や結論 apodosisとなる〈命題〉は、
大前提:Π(M,P)またはΠ(P,M)
小前提:Π(S,M)またはΠ(M,S)
結 論:Π(S,P)
のように、名辞が配列される。
そして、これらの前提の組合せによって、4つの〈格 figure〉が決る。すなわち、
第一格:Π(M,P),Π(S,M)
第二格:Π(P,M),Π(S,M)
第三格:Π(M,P),Π(M,S)
第四格:Π(P,M),Π(M,S)
である。
また、〈命題〉は主語の全称/特称、その肯定/否定によって、
全 称 特 称
肯 定 A I
否 定 E O
の4つに区別され、2つの前提と結論という3つの命題の組合せによって、三段論法は43 =64の〈式 mood〉に分類される。さらに、先の〈格〉と組合せて、4×43 = 256の〈格式〉に分類される。この内、妥当なものは24個だけである。
また、より多くの前提から成立つものは、連鎖式 sorites と呼ばれ、これにはSから始まるアリストテレスのものと、Sが最後の命題に含まれるゴグレニウスのものがあった。
定言三段論法の特徴は、集合を対象とし、命題を主語述語形式で解釈することであり、個物そのものやカテゴリーの異なる付帯的な述語は扱いえない。
なお、複合命題を含むものは、仮言三段論法、選言三段論法、仮言選言三段論法があるが、これは定言三段論法とは歴史的起源を異にする。
【対当 oppositio】
(古典形式論理学)
主語と述語とを同じくする定言命題相互の関係。
〈命題〉は主語の全称/特称、その肯定/否定によって、
全 称 特 称
肯 定 A I
否 定 E O
の4つに区別される。この略号は、「肯定する affirmo」と「否定する nego」という動詞の母韻を順にとったものである。
これらの主語と述語とを同じくする定言命題相互の関係は次のように呼ばれる。
AとO、EとI =矛 盾 対当
AとI、EとO =大 小 対当
AとE =反 対 対当
IとO =小反対対当
全称肯定 特称肯定
A ←大小→ I
↑ ↑
反対 矛盾 小反対
↓ ↓
E ←大小→ O
全称否定 特称否定
たとえば、
「すべての鳥は黒い」←大小→「ある鳥は黒い」
↑ ↑
反対 矛盾 小反対
↓ ↓
「すべての鳥は ←大小→「ある鳥は
黒くはない」 黒くはない」
【帰納法 epagoge】
(『分析論後書』2-19)
epi+agoge、すなわち、あるものの方へ+導くこと。「個物から普遍に至る道」と定義される。ただし、これは、完全枚挙によるものであり、三段論法第Ⅲ格に相当する以上、実質的には演繹推論の一種である。
不完全枚挙は《パラディグマ paradeigma》と呼ばれ、これは完全な論証力はなく、ただ説得的なもので、我々にとって先の、可知的な感覚に近いものにすぎない。
なお、これは、名前の似ている《帰謬法 apagoge》、すなわち[不可能なものにおいて離れて導くこと Apagoge eis to adunaton]と混同されてはならない。
【窮論法 aporetik】
〈窮論 aporia〉とは、道がないこと、すなわち、解決手段のない難問のこと。特に、ある問に複数の両立しえない合理的な見解が提出されるアンティノミー的状況を言う。
アリストテレスは、〈端的により先なるもの〉を探求する《第一哲学》においては、自然諸科学のようにさまざまな観察を仮説的に前提として《帰納法》などによって推論する〈媒介識 ディアノイア〉では不可能であり、他の解明方法によらなければならない、とした。
そこで、彼は、プラトンの〈問答法 ディアレクティケー〉という〈論言 ロゴスの中での考察〉という方法を継承発展させ、このような〈端的により先なるもの〉に関する問題を考察する際に、その同じ問題に対して出されている、納得しうるさまざまな見解を集め、それらの矛盾する見解相互の関係をあらためて整理しなおすことによって、問題の構造もまた明らかにし、これによって、それらのさまざまな見解によって論じられている自然の対象そのものを、アナロジー(類比的)に浮び上がらせようとした。このようにして論じられる問題を「窮論題 アポレーマ」言い、このような方法を《窮論法 アポレティーク》と言う。
【『詭弁駁論』 De sophisticis elenchis】
『オルガノン』のひとつ。さまざまな虚偽を上げ、これらを明らかにすることで、論敵を論破する方法をまとめている。
不正推理は、推理規則に反する「論過 paralogismos」と、内容的な「詭弁 sophismos」に分けられ、後者はさらに、6つの〈発言上の虚偽 fallacia dictionis〉と、7つの〈発言外の虚偽 fallacia extra dictionem〉に分けられる。
論 過 =形式的推論規則への違反
詭 弁
Ⅰ 発言上の虚偽
(1)同語異義 =同一の言葉を異なる意味にすりかえる
(2)文意曖昧 =文脈をすりかえる
(3)結合 =個々の語には真でも、結合語では偽
(4)分解 =結合語では真でも、個々の語では偽
(5)強調 =文章の重点をすりかえる
(6)発言形式 =語形の類似を利用して意味のすりかえる
Ⅱ 発言外の虚偽
(1)付帯性 =偶然的属性を本質にすりかえる
(2)一般・特定化=特定の例を一般的傾向に普遍化したり、一般的傾向を特定の例にあてはめたりする
(3)論理無視 =論点変更したり、感情に訴えたりする
(4)論点先取 =論証されるべきものを前提に含む
(5)不当原因 =原因でありえないものを原因とする
(6)継起逆推 =因果関係を逆に推論する
(7)一質複問 =両義的な質問で肯定も否定も不可能にする
c) 自 然 学
【4原因説 aitiai】
(『自然学』194b、『形而上学』8-4など)
〈質料因〉〈形相因〉〈始動因〉〈目的因〉のこと。
〈質料因〉とは、それから生成し、その生成した事物に内在するもの。
〈形相因〉とは、〈そもそも何であったか〉を言い表す論言(ロゴス)や類、種差。
〈始動因〉とは、始まりがそれからであるもの。
〈目的因〉とは、それのためにであるもの。
たとえば、家であれば、その〈質料因〉は、木やくぎで、であり、〈形相因〉は、住む建物で、であり、〈始動因〉は、ある建築術で、であり、〈目的因〉は、生活のためで、である。
ただし、これらは、あくまで「原因」という言葉の使われ方の分類、〈原因〉の仕方の分類であり、すべての事物につねにかならずこれらの4つがそろっているというわけではない。重要なことは、これらが言語使用の分析でありながら、存在論的な意味ももつということである。
【4原質・4原素説】
(『生成消滅論』)
月下界の可感的なものは、硬軟、粗滑など、さまざまな反対性質の中に位置付けられるが、これらの反対性質は、結局は〈冷〉と〈熱〉、〈乾〉と〈湿〉の2つの対立性質に基づくものである。そして、これらの4つの性質は〈4原質〉と呼ばれる。
何の性質ももたない純粋質料、〈第一質料〉など存在せず、したがって、すべての物体は、熱乾の〈火〉、熱湿の〈気〉、冷湿の〈水〉、冷乾の〈土〉の4つの〈原素〉からなると考えられる。
これらのものは、それ本来の場所を持ち、それゆえ、自然には、〈火〉や〈気〉は上へ、〈水〉や〈土〉は下へ直線運動し、本来の場所に近づくほど速度は増加する。
また、これらの〈原素〉は、その〈原質〉の交換によって他の〈原素〉に変化する。たとえば、冷湿である〈水〉が暖められて冷を失い、熱を得れば、熱湿である〈気〉に変化する。
乾
〈火〉↑〈土〉
熱 ← + → 冷
〈気〉↓〈水〉
湿
物体には、全体均質的な〈同質体 ホモイオメレー〉と、さまざまな質の異なる部分からなる〈非同質体 アノモイオメレー〉がある。いずれも、これらは〈原素〉からなるのであり、このような合成には、物理的な〈混合 シュンテシス〉と、化学的な〈化合 ミークシス〉がある。
ここにで言われる〈原素〉は、今日の科学物質のようなものではなく、むしろ、液体とか固体とかいう物体の在り方を意味し、中世においては《物理学》や、《練金術》、さらには《医学》の基礎理論になった。
【澄気 aither】
(『天体論』)
月下界と違って、天界の天体は自然に永遠不変の運動をしている。運動が永遠である以上、この運動は円運動であるにちがいない。だが、月下界の4〈原素〉はいずれも自然にはその本来の場所へ向かって直線運動をし、その本来の場所で終止してしまう。また、もし、広大な天界が上を本来の場所とする〈火〉や〈気〉だけでできているとすれば、量的に〈水〉や〈土〉と均衡が保てず、月下界は存在しえなかったはずである。それゆえ、天界は、これらの4〈原素〉のいずれでもない第五原素からできているはずであり、これを〈澄気 アイテール〉と呼ぶ。
【天動説】
(『天体論』、『形而上学』12-8)
〈土〉は下へと向かう性質があり、したがって、宇宙においてはその中心へ落下し、次第に球体をつくる。これが大地に他ならならず、それゆえ、大地は唯一であり、地球は宇宙の中心に位置し、4原素からなる〈月下界〉を構成する。
残りの〈天界〉の部分は〈澄気 アイテール〉からなり、これは〈不動の動体〉としてさまざまな天体に永遠不変の運動をさせている。そして、これが永遠不変の運動である以上、終わりのない円運動あるにちがいない。実際、プラトンの弟子エウドクソスは、太陽や月、その他の惑星の複雑な運行は同心円天球の単純な回転運動から合成されることを発見し、カリッポスが修正して、33の天球でこの運動を記述してみせた。だが、上位の天球は下位の天球を動かすはずであるから、それゆえ、上位の天球の影響を打ち消す逆転天球もあると思われ、それゆえ、全部で55の天球があることになる。
これらはすべて、究極的には目的因として働き、質料のない純粋形相である唯一の〈第一の不動の動体〉によるものであり、かくして、この〈第一の不動の動体〉から天界の諸天球を経て、月下界にまでその力学的な連続影響関係が成立している。
【共通感覚 aistherion koinon】
(『デ・アニマ』2,3)
視覚に対する色、聴覚に対する音のような個々の感覚器官に応じた個別感覚ではなく、それらのいくつかで共通に把握できる感覚のこと。その座は心臓にある。というのも、我々の感覚は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つに特殊化し、それぞれ特殊な感覚器官を持つが、そのもとは同一のものだからであり、また、このようにしてとらえられる対象は付帯的なものではなく、自体的なものだからである。ただし、これを直接に捕える第六の感覚器官など存在しない。
このような共通感覚として、
第1に、運動、静止、数、形、大きさなどの知覚
第2に、だれだれのものである、のような知覚
第3に、私は見ている、のような自分の感覚の知覚
第4に、白いのは苦い、のような異なる感覚にわたる知覚
が挙げられる。
【受動理性 nus pathetikos/能動理性 /nus poietikos】
(『デ・アニマ』3)
〈感覚〉が、対象から〈質料〉を除き、その可感〈形相〉を受入れることであるように、〈理性 nous 〉もまた、対象から〈質料〉を除き、その可知〈形相〉、すなわち〈そもそも何であったか(本質)〉を受入れることなのである。しかし、一般に〈魂 プシュケー〉が人間の〈肉体〉という質料に対する〈形相〉であり、両者が自体的には同一であり、また、〈感覚〉も諸感覚器官や心臓などの肉体的なものであるのに対して、〈理性〉は〈魂 プシュケー〉の能力の中でも例外的に非肉体的なものである。
しかし、〈理性〉は、その働きによって、受動と能動の2面に分けられる。すなわち、目は可能的に感覚しうるだけで、これに作用を与える現動的な光が必要であるように、〈受動理性〉は可能的に認識しうるだけで、これに作用を与える現動的な〈能動理性〉が必要なのである。言わば、〈受動理性〉は〈質料〉にすぎず、肉体と同様に個人の死とともに滅びてしまうものである。しかし、〈能動理性〉は肉体から離存でき、不死で永遠的である。
しかし、〈能動理性〉が個人的で個々の人間に内在するものなのか、それとも、普遍的で個々の人間から離存しているものなのか、は、不明確である。
【「自然は真空を嫌う」】
(『自然学』3)
物質は連続的であり、自然には真空のままではありえない。すなわち、〈空虚〉は物質から独立にも、物質に占められる空間としても、物質の内部にも存在しない。
これは、《原子論》者らの〈空虚〉の存在を否定するテーゼである。
【自然の階段 scala naturae】
(『動物誌』8、『動物発生論』2)
自然は無生物から生物へと連続的であり、この連続性ゆえに、両者の境界もはっきりしないし、その中間のものもある。すなわち、無生物よりも植物の方が、植物よりも動物の方が生物らしく、また、植物の中にも、生命の程度に応じて異なっており、たとえば、海中の生物のように、植物とも動物ともつかないものもいる。いずれにしても、このように自然は、その完全性に関して、連続的な階層的秩序を構成しているのである。ただし、自然の種は不動不変であり、この連続性も進化によるのではない。
このような発想はのちにさらに整備され、無生物物質から植物、動物、人間を経て、神にまで至る秩序の体系の実在が広く信じられた。
【「なにものもむだには自然は作らない outhen maten he physis poiei」】
(『政治学』『天体論』)
[自然は合理的、合目的的であり、むだなものはなにひとつ生じず、存在しない]ということ。
アリストテレスは、多くの自然観察、とくに生物からこのような確信を強く受け、この言葉をこのんで用いた。しかし、近代以降では自然は死せるただの物質となり、必然という機械論的説明に終始して、このような目的論的説明は非科学的であるとされることになった。
d) 倫 理 政 治 学
【知慮 phronesis / 徳 alete】
(『ニコマコス倫理学』2ー6)
〈徳〉は正しいものを目的とさせ、〈知慮〉は目的への手立てを正しいものにする。たしかに〈徳〉は〈知慮〉なしにはありえないが、ソクラテスの言うように、〈知慮〉がそのまま〈徳〉なのではない。それゆえ、〈徳〉とは、道理によって、あるいは、知慮ある者が尺度とするだろうものによって決定されるような、我々にとっての中庸に成立する決断の所持 hexis priairetikeである。
【無抑制 akrasia】
(『ニコマコス倫理学』7)
悪であることを知りながら、情念に動かされて、悪への手立てを知慮しつつ、悪をなすこと。つまり、よりよい判断がありながら、自制できずに行動してしまうこと。
これは、ソクラテスの主知主義、すなわち[徳は知であり、悪は無知である]という説に抵触する。また、そうすると、無知慮な無抑制は、悪への手立てを知慮しないように、それをなそうとするのであるから、かえって徳であることになってしまう。さらにまた、確信は翻させうるが、無抑制は翻しようがないがゆえに、確信して悪をなす者は、無抑制ゆえに悪をなす者よりましということになってしまう。
しかし、知っているということは、知っていてその知を用いている現動態的な知ばかりでなく、ただ知っているだけでその知を用いていない可能態的な知の場合もある。また、乾いた食物は健康によい、と知っていても、どれが乾いた食物なのか知らないというように、その知の内容も、普遍的に知っているだけで、その特定の対象ではわからないということもある。さらに、睡眠中や泥酔中、興奮中は知っていながら知っていないに等しい。さらにまた、認識の三段論法とは別に、欲望に基づく実践の三段論法が働いている場合もある。いずれにしても、〈無抑制〉とはこれらのような場合であると思われる。
【実践三段論法】
認識の三段論法においては、その結論は魂が肯定すべきものとされるのであるが、実践の三段論法においては、その結論は我々がただちに行うこととなる。たとえば、甘いものは食べるべきであり、これが甘いならば、食べる能力があり、妨げられないならば、ただちにその人は食べるという行動をする。
【「人間は自然的に社会動物である anthropos pysei politikon zoon」】
(『政治学』『ニコマコス倫理学』9-9)
動物の中でただ人間だけが論言 ロゴス(言語)を持ち、また、各個人は社会から切り離されては自足的ではありえないがゆえに、すべての人間は社会への欲求がそなわっている。つまり、人間は、論言 ロゴスを用いて社会を形成し、これによって社会の正義を打ち立て、秩序をあらしめ、この中でこそ、知慮や徳をいかすことができる。それゆえ、むしろ社会は個人より自然上は先なるものであり、社会から切り離された、知慮や徳のない人間は、最も冷酷で野蛮、貪欲な劣悪動物であるにすぎず、人間と呼ぶに足らない。