あいうえおnote【え】
スーパーでの買い物の帰り。3歳の娘が銭湯を指差して、言った。
「まま、まま。あのお家はちゃんとサンタさん来るね!」
煙突
その言葉に、自分がこの子と同じくらいの齢だった頃を思い出した。クリスマスが近づく頃、絵本でサンタクロースの存在を知った私は、泣きながら母に尋ねたことがある。
「まま、うちにはえんとつがないからサンタさん来ないの?」
本気で心配する私を笑うこともなく、母は優しく答えてくれた。
「サンタさんはね、魔法が使えるの。だから煙突がなくてもお家に入って来れるのよ」
その言葉に安心して、当日はいつもよりも早く眠りに就いた。もちろん、翌朝サンタさんはうちに来てくれた。
私は幼い頃たいそう臆病で泣き虫な子で、何かと泣きじゃくっては母の手を煩わせていた。幼稚園のお泊まり保育や夏休み明けの登園は母と離れたくないと泣き、家にいる時は姉と喧嘩して泣き、宿題をすればお絵かきがうまくできないと泣いた。その度に母は私を膝の上に乗せ、同じ目線で向き合っては「どうしたの?なにが悲しいの?」と尋ねてくれた。そうして最後には必ず「大丈夫、大丈夫」と、頭や背中を心地よいリズムで叩いてくれたものだった。
以前幼稚園で働いていたという母の手は、もう何人も、私が生まれる前からたくさんの子ども達を同じようにあやしてきたのだろう。染みついたリズムが背中でポンポンと刻まれると、私の泣きたい気持ちは魔法のように消え、そこには安寧と慈悲だけが静かに広がっているのだった。
・・・
妊娠が発覚した時、真っ先に感じたのは不安だった。子どもはほしいと思っていたし、そのことを夫とも話していたから、想定外のことではなかった。だけど、怖かった。私が他の立派なお母さん達と同じように、この子を育て上げることができるのか。人より不器用で要領の悪い私が、人と同じように子育てをできるのか。
何より、大勢の人から「おめでとう」と言われているのに自分だけがこんな気持ちになっていることが、自分には子育てをする資格がないと言われているようで、孤独で寂しかった。
とは言え子どもが生まれるとそんな不安と向き合う余裕もなくなり、日々は文字通り飛ぶように過ぎていった。毎日が発見や学びの連続で、自信こそないにせよこの愛しい我が子は私が育てるという覚悟が、確かに芽生えた。
・・・
子育てに関して、いちばんの頼れる先輩だったのは母だった。私が直面する悩みは大抵が母にとって経験済みであったし、母に抱かれるとよく泣く娘がすぐに泣き止んだ。
「私が抱っこしても、全然泣き止んでくれないの。抱っこが下手なのかな」
母の腕で眠る我が子を見つめながら苦笑まじりに零すと、母は昔私にしてくれたように娘の背を叩きながら、言った。
「抱っこに上手いも下手もないわよ。それに菜月だって、私が昔いくら抱いても泣き止んでくれなかったのよ」
「え?」
「あなたは昔、本当によく泣く子だった。自分でも覚えてるでしょう。臆病で人見知りで、お母さん何度も不安になったわ」
母の話す自分の様子は、確かに記憶があった。だけどそのことで母が不安になっていたなんて、初耳だった。
「昔は今ほどいろんな情報もなかったし、菜月が泣き虫なのは私のしつけがよくなかったんじゃないかってずっと不安だった。でも成長のスピードなんて、人それぞれだからね。あなたはこうしてちゃんと、立派な子に育ったわ」
「成長のスピードは人それぞれ」。何度も不安になって、インターネットや本を読み漁って見かけた言葉。だけど私を育て上げた母が口にすると、それは説得力をもった言葉としてすとんと私の中に落ち着いた。
「大丈夫よ。お母さん菜月がいい子に育つようにってたくさん愛情注いで育てたんだから。どうやってこの子を育てたらいいかは、あなたの身体がちゃんと知ってるはずよ」
その言葉は、この上なく私に勇気を与えてくれた。泣いている子どもをあやすのも、子どものなんでなんでの質問にうまく答えるのも、この愛情を余すことなく子どもに伝えるのも、母のように上手くできないのがずっと悩みだった。だけど私は母の娘で、そのノウハウを一身に受けて育ってきたのだとすれば、もう何も不安になることなどなかった。
「...お母さん、ありがとう」
母に抱かれる我が子を見ながら、私はなんて幸せな娘で、なんて幸せな母親なんだろうと思った。
・・・
「ままー?」
繋いだ手を引っ張られ、我に返る。銭湯の煙突を見上げながら、ひどく懐かしいことを思い出していた。
「ねえまま、あれサンタさん入るとこだよね!」
こちらを見上げて笑う娘に、しゃがんで目線を合わせて私も笑う。
「そうだねえ。よく見つけたね!」
頭を撫でてあげると、娘は誇らしげに笑みを深くする。しかしそれも束の間、あの頃の私と同じことに気づいてしまったようで、娘は不安な顔になり私に尋ねる。
「まま、おうちにはえんとつないからサンタさんこない...?」
そのかわいらしさと懐かしさに笑みが零れる。
「菜々花、いいこと教えてあげる」
「なあに?」
「サンタさんはね、魔法が使えるの。だから菜々花のところにも来てくれるよ」
「ほんとー!?」
笑顔を取り戻した娘に愛しさが込み上げ、再び頭を撫でる。意図したわけではないが、自分の話し方はかつての母のそれにそっくりで、その事実に嬉しくなった。この子をどうやって育てたらいいかは、私の身体がちゃんと知っている。母の言葉に間違いはないと思った。
「菜々花、おうち帰ったらサンタさんにお手紙書こっか」
「うん、書くー!」
いつかこの泣き虫な子が大きくなって、母になる時がくるかもしれない。その時にこの子が道に迷わないよう、私もたくさんの愛情を注いで育ててあげよう。
そんなことを考えながら、娘と手を繋いで家路につく。母との思い出を現在に繋いでくれた煙突は、かつてと同じように煙を長く棚引かせながら私達の帰途をいつまでも見守っていた。
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