再観測:ゼーゲとネツァフ:Episode 11-1
Episode 11-1:ネツァフの死骸
夕陽が低く沈む中、街は静まり返り、長き戦乱で荒れた廃墟が黄金色に染まっていた。かつての高層ビルはほとんど崩れ、瓦礫の山からは黒煙や埃が漂う。幾度にもわたる激戦と最終攻撃によって市街地の形が大きく変わった今、人々は焦土と化した街で、ぎこちなく復興のための作業を進めている。
その光景を見下ろす丘の上に、巨大な人型の“死骸”が横たわっていた。ネツァフ――かつてリセット兵器として世界を白紙に戻そうとした生体機動兵器。今は完全に機能を停止し、朽ち果てた躯(むくろ)をさらしている。その姿は荒涼とした大地に巨大な影を落とし、遠目には異形の神殿のようにも見えた。
骨格に似た有機的なフレームがむき出しになり、一部の装甲は崩れて地面に埋もれている。周囲には不気味な光を放つ未知の結晶が点在し、緑や紫にかすかに発光していた。それはネツァフの生体エネルギーが長い時間をかけて漏れ出し、地面と融合して生まれたものだろうか。
黄昏の光に照らされて、その死骸はまるで眠る巨人のように沈黙していた。だが、その存在感は圧倒的であり、半ば神格化されたような畏怖を周囲に与えている。そこに、一台の装甲車が停まろうとしていた。
装甲車のエンジン音が小さく唸りを上げながら停止し、ドアが開く。降り立ったのは、セラとカイ、そして数名の反対派兵士。彼らはこの場所に調査を行うため派遣されたのだ。ESPが導入された今でも、ネツァフの遺骸が持つ潜在的な影響を無視できないという判断である。
夕風が吹き抜け、埃を巻き上げる。セラは目元を覆いながら、その巨大な死骸を見上げた。先日の激戦とレナの死、ゼーゲの最終攻撃が街に与えた傷跡はまだ生々しい。だが、ネツァフの死骸はもっと前、リセット計画が破綻したときからそこに横たわっていたものだ。
カイが計測端末を手にし、兵士と共に辺りを警戒する。「ESPの影響がどこまで及ぶか分からないけど、ネツァフの死骸は生体的な名残を多く含んでいるらしい。以前の調査では高濃度のエネルギー反応が微かにあったから、注意して……」
セラは苦い表情でうなずく。「リセット兵器……死んだはずでも、その躯が何かを引き起こすかもしれない。こんなに大きな有機体……まだ何が潜んでいるかわからないものね」
ネツァフはかつて世界を「痛みなく消去」するための最終兵器として研究され、多くの人々がその破滅的な力を恐れ、あるいはそれに救いを見出そうとした。セラ自身、幼い頃からその計画に関わり、リセット派や反対派の間で苦しみを味わってきた。最終的にはリセットは破綻し、ネツァフは暴走の末に崩壊したが、その跡形がこうして残っている。
セラは歩を進めながら、遠い記憶に囚われる。「あの頃、私たちはリセットを止めるために必死だった。でも、もしあのときネツァフが完全稼働していたら……世界は本当に消滅していたのかな」
カイはどこか懐かしむように応じる。「かもね。承認スイッチが押されなかったからリセットが頓挫して、ネツァフも半端な形で出撃した結果、崩れ去ったんだ。今ここにあるこの死骸が、その未遂の名残だよ……」
兵士たちは周囲を警戒しつつ、死骸に近づくため足下の瓦礫をどけている。地面に染み付いた奇妙な液体、バイオ部品の破片、そして謎めいた結晶――全てがネツァフ由来の超常的な物質だと推測される。放射線や毒性が疑われるため、防護マスクと簡易的な防護服を着用した兵士が慎重にサンプルを採取する。
調査を始めたばかりのとき、丘の向こうから複数の人影が姿を現した。白衣とローブを混ぜたような奇妙な装束をまとい、手には測定器や宗教的な装飾品のようなものを持っている。その集団は十数名ほどで、セラたちに気づくと距離を取りつつ低い声で話し合い始めた。
「誰……? 新手の敵じゃないよね?」
反対派兵士が警戒し、銃を構えるが、相手側は慌てず、片手を上げて「敵意はない」という合図を送る。一人の男が前に進み、フードを外す。長い白髪に痩せた顔立ちで、年齢は四十代後半と思われる。
「我々は“真理探究の徒”。ネツァフの死骸に秘められた真理を探すため、この地に来た。……あまり騒ぎは起こしたくない。許可を得たい」
セラはその名を聞き、ハッとする。「あの集団……以前から噂があったわね。ネツァフの残骸に神性を見出すとか、精神エネルギーを固定化するとか……」
カイも表情を強張らせる。「聞いたことがある。科学者や哲学者、信者の混合組織だって。足掻きとか希望を信じるでもなく、単純に“真理”を求める……」
兵士が一歩前に出て、銃口をそちらへ向ける。「ここは軍事調査中だ。勝手に立ち入り禁止だぞ!」
白髪の男は微笑を浮かべる。「焦らないでくれ。我々は戦いを望まない。ただ、この死骸を研究させてほしいだけだ」
広大な草地に横たわるネツァフの死骸を挟んで、セラとカイら反対派兵、そして「真理探究の徒」の集団が向き合う形になった。落陽がさらに低く沈み、死骸のシルエットが闇に溶け始めている。
セラは一歩前へ進み、相手の男に声をかける。
「あなたたちは何をしたいの? ネツァフは危険な存在だったのよ。死骸だとしても、変に刺激すれば未練が残るかもしれないし、毒性だってある」
男は落ち着いた調子で名乗る。「私は“真理探究の徒”の一員、ハベルという者。君たちがESPを起動し、世界が苦痛を共有する道を選んだと聞いている。それはそれで興味深い。しかし、我々が求めるのは“ネツァフの死骸”から得られる世界の根源的な理(ことわり)……足掻きや希望という概念を超えた真理だ。ここに眠る“精神エネルギーの残滓”を解析したいのだよ」
カイが首を傾げて反論する。「解析って……そんなこと、必要ある? ネツァフはもう終わったんだ。世界をリセットしようとした危険な兵器が、無力化されてこうして転がっているだけだ」
ハベルは苦笑し、「無力化、ね。だが、ネツァフの生体技術はESPの数段先を行く可能性を秘めている。足掻きを続ける人々には刺激が強すぎるが、我々にとっては“真理”を解き明かす鍵になろう。痛みなく消えるか、苦痛を共有するか――そんな二極の先を、あるいは第三の道を見いだせるかもしれないのだ」
反対派兵士の一人が苛立ちを顕わにし、「冗談じゃない! またあんたらが変な研究をして、世界を滅ぼす気か? リセット兵器の残骸なんて、放っておいた方がいいんだよ」と声を荒らげる。彼らもネツァフによるリセット未遂の恐怖を記憶している。
ハベルは両手を軽く広げ、柔和な笑みを浮かべる。「滅ぼす? 我々は破壊や支配を望まない。単に“真理”を求めるだけだ。ESPが人々の痛みを緩和するならそれもいい。だが、痛みを緩和しても世界の理がわかったわけではないだろう? 苦しみの本質、意識の深淵……ネツァフを解析すれば、新たな可能性が開けるかもしれない」
セラは複雑な表情でうつむく。「ネツァフがもたらす可能性……それが再び戦争や破壊につながるかもしれない。それでもあなたたちはやるの?」
ハベルは静かに眼を閉じて言う。「未知は恐ろしい。だが、恐怖を理由に知を断ち切るのは愚かだ。我々はその未知を受け止める覚悟がある。そうやって“真理”に近づきたいのだよ」
僅かに沈黙が降り、カイが反対派兵を制しながら提案する。「とりあえず、我々と一緒に調査してみたらどう? 一方的に勝手にやるんじゃなく、監視の下でサンプルを採取するとか……。そうすれば、お互い変な疑いを持たずに済むかもしれない」
ハベルは口角を上げ、「賢明な案だ。我々ももともと、黙って盗掘するつもりはなかった。協力してくれるなら、それに越したことはない」と答える。
こうして、セラとカイ、反対派兵、そして“真理探究の徒”の数名が合同でネツァフの死骸を調べることになった。防護服を着込み、ガイガーカウンターや各種測定器を携えて、ゆっくりと巨体の足元へ近づいていく。
ネツァフは横倒しで、右腕が大地に埋まり、背中の有機的パーツが露出している。そこには奇妙な筋繊維のようなものが絡まり合い、金属フレームと融合している跡があり、生体と機械の混合がよくわかる外見をしていた。
兵士たちは足場に注意しながら、死骸の一部を照らす。「うわ……まだ熱を持っている部分があるぞ。触らない方がいい」
カイは端末で読み取りを行いつつ、「生体組織が朽ちかけているのに、微妙なエネルギーを発散してる。ネツァフが死んだ状態でもエネルギー源が残ってるらしい」と声を潜める。
ハベルや彼の仲間は興味津々で近づき、鉱石のように変質した箇所を採取しはじめる。「ここの結晶は“リセットの痛み”が滲んだ痕跡か。素晴らしい……神秘を感じるな。ESPとは異なる在り方の精神エネルギーを保有している可能性がある」
セラは警戒を緩めない。「無闇に刺激しないで。下手すれば爆発や毒ガスが発生するかも……」と注意するが、ハベルはうやうやしく頭を下げ、「重々承知だ。大丈夫、慎重にやっている」と胸を叩く。
さらに奥へ進むと、ネツァフの“心臓部”があったと推測される箇所に到達する。リセット計画時代、選ばれた少女たちが融合し、兵器の中核を担った部分だ。いまは崩落した有機パーツが散乱し、ひび割れた空洞が広がっている。
セラが近づくと、一瞬息を飲む。かつて自分もそこにいる少女――ヒロインとして運命を背負いそうになった立場だったからだ。
「もし……これが完全に稼働していたら、私は“ネツァフの心臓”となって世界をリセットしていたのかも……」
胸を押さえて震えるセラに、カイはそっと手を置く。「もうリセットは起きなかった。それに、あなたが足掻いてくれたから……」
ハベルが半ば興奮した様子で空洞の中を覗きこみ、「これは……人の精神が直接融合した形跡がある。神経のようなケーブルが絡まった痕跡がはっきり残っている。これは貴重だ……!」と声を上げる。
セラは眉をひそめ、「それ以上近づかないで……危険かもしれないわよ。生命反応が残ってるってことも考えられるし」
しかし、ハベルは嬉々とした声で「生きているかどうかはともかく、これほど生々しい痕は初めてだ。これはまさに“真理”への道標だ……」と奥へ進もうとする。
すると、ネツァフ内部の空洞の更に奥から、わずかな振動を感じる音がした。「ドクン……ドクン……」と鼓動のような低いリズムが微かに響いてくる。
セラとカイは目を見合わせ、不安を抱く。反対派兵が警戒の構えを取り、照明を向けるが、暗く血管状の構造が張り巡らされた壁しか映らない。
「まさか……死骸なのにまだ心臓が動いてるのか?」
兵士が呟くと、ハベルは興味深そうに微笑み、「心臓ではないだろう。生命機能は完全に喪失しているはずだ。もしかすると“エネルギーポケット”が動いているのかもしれない。試しに近づいてみよう……」と歩を進めようとする。
カイは素早く止める。「迂闊だ。爆発の可能性だってある!」
ハベルは苦笑して横目でセラに視線を送る。「君たちは危険を避けたいだろうけど、私たちは真理を求める。……分かった、無理はしないさ。一緒に行こう。足元に気をつけて」
こうして、皆で慎重に死骸の内部へ入り、脈動の元を探りにいくことになる。ネツァフの外装は死んだが、何らかの有機的構造が弱く動いているかもしれない。まるで巨大洞窟のように入り組んだ空洞を進み、腐臭と化学臭が鼻を突く。
真っ暗な空洞をライトで照らすと、ヌメヌメとした膜状の物質が壁を覆っている。生体組織が腐ったような悪臭が立ち込め、一部が床に垂れて緑色の液を溜めている箇所もある。兵士たちが息を詰め、慎重に足を運ぶ。
ハベルの仲間――真理探究の徒と思しき青年が、科学的な測定器でサンプルを採取しながら興奮気味に呟く。「何という粘度……まるで生きた細胞が死後に分裂を繰り返したような痕跡だ。まだ微弱な電気活動が検出される……」
カイが一瞬顔をしかめ、「微弱な電気活動? まさか急に動き出すことは……ない、と思いたいけど……」と口をつぐむ。セラは怯えを押し殺して壁の感触を軽く確認する。手袋越しにどろりとした感触が伝わり、背筋が寒くなる。
ドクン……という鼓動が近くなったように感じる。セラはライトを奥へ向けると、そこにやや広い空間があり、まばらに発光する結晶の塊が床や天井を飾っていた。まるで洞窟の鍾乳洞のように垂れ下がる結晶や、青白く脈動する水たまりが散在している。
部隊が広い空間に踏み込むと、視界の中央でドロリとした塊が蠢(うごめ)いているのがわかった。大きさは人間数人分だろうか。そこから「ドクン……ドクン……」と鼓動音が響き、まるで心臓のように収縮と拡張を繰り返している。
兵士が息を呑み、銃を構える。カイが困惑しながら読み取りを試みる。「これは……生体エネルギーを放出している。ネツァフの生命維持装置の一部が死後も惰性で動いているのか?」
ハベルは目を輝かせ、「まさに未知の結晶と有機体が融合した“コア”じゃないか。神経中枢の残滓かもしれない……素晴らしい」と興奮する。
しかし、セラは嫌な直感を抱く。この脈動が万が一、暴走したらどうなるか。「危険だよ……下手に刺激しないで。破壊するか、慎重に封じ込めるか……」と提案するが、ハベルは首を横に振る。
「封じ込める? もったいない。これこそ真理の宝庫だ。ESPの比ではない発見だよ。近づいてサンプルを取り、データを集めよう。後で保管すればいい」
脈動する有機塊を前に、グループが二分される。セラとカイ、反対派兵は危険視し、“破壊あるいは封印すべき”と主張する。真理探究の徒のハベルは“解析してこそ価値がある”と譲らない。
「もしこれがネツァフの最後の『起動要素』だったら、また大惨事が起きるかもしれないのよ!」
セラが声を荒らげると、ハベルは微笑して首を振る。「起動要素だろうと何だろうと、結局は人間が使い方を誤らなければいい。それに、君たちがESPを起動した時点で、既に世界は大きく変わったんじゃないか? 恐れるだけでは進めないよ」
反対派兵士が銃を上げ、「俺たちはネツァフが復活するような事態を絶対に許さない。退いてくれ! ここは封印だ!」と圧をかける。
ハベルの仲間は穏やかな態度を崩さず、「我々は何も争う気はない。だが、封印する前に、ほんの少しデータを取らせてほしい。そんなに数分もかからない」と頼むように言う。
カイが横から割って入り、「サンプルなら少し取るだけでも危険だ。爆発や毒が出るかもしれない。せめて、僕らが監視する中で最小限にして……」と譲歩案を示す。
妥協案として、ハベルたちはごく少量のサンプルを採取し、すぐ撤収するという約束で事が進んだ。兵士たちが警戒の体勢を取り、カイとセラがモニターや検知器を起動して監視する。
ハベルの仲間である科学者らしき女性がそっと有機塊の側面に器具を差し込み、粘液をスポイトのように吸い出す。「すごい……生体電位がまだ活発だわ。まるで呼吸するかのように活動を繰り返してる」
セラは汗を浮かべ、(本当に大丈夫なの……?)と息を詰める。反対派兵も銃を構えて、万が一暴れ出したらすぐに撃ち込む構えだ。
ところが、女性が器具を抜いた瞬間、塊の表面がビクンと大きく痙攣(けいれん)した。「……!」
カイが端末を見て驚きの声を上げる。「エネルギー値が急上昇してる……これ、やばいかも……!」
次の瞬間、粘液がドロリと噴出し、女性の防護服にかかる。彼女は悲鳴を上げ、「熱い……!」と身をよじる。どうやら強酸か高熱を帯びた液体らしく、防護服を溶かし始めた。
兵士たちが慌てて彼女を後方へ連れ退き、消毒液を噴射して応急処置を試みる。塊はさらに大きく鼓動を打つと、断末魔のようにゆっくりと崩れ落ちるようにしながら、体表の筋繊維が剥がれ、腐敗臭を広げる。
「下がれ! 崩落するぞ!」
セラが声を張り上げ、全員が一斉に後退。轟音とともに塊が完全に崩壊し、トロリと溶けるように床へ広がった。強烈な臭いと湯気が立ちこめ、皆、吐き気をこらえながら出口へ急ぐ。
塊が崩れ落ち、空洞全体が揺らぐ。天井の有機パーツや結晶が次々と落ちてきて、まるで洞窟が崩れるような騒音を響かせる。セラ、カイ、兵士、ハベルたちは必死に出口方面へ走り、一部の人が転倒しそうになるが、どうにか間に合って抜け出す。
すでに夜の帳(とばり)が下り始める空の下、彼らは息を弾ませながら外に飛び出す。背後からは大きな破砕音と腐臭、粘液の湯気が吹き上がってきた。ネツァフの死骸の一部がついに完全に壊れ、内部構造が自壊したのだ。
ハベルの仲間だった女性は腕にやけどを負ったが、命に別状はない模様。反対派兵が防護服を確認し合い、セラとカイは顔を見合わせて安堵の息をつく。
「危なかった……やっぱり危険すぎるよ」
セラは肩を落とし、ハベルに向かって睨むように言う。「あなたたちの採取が原因で崩壊を早めたんじゃないの?」
ハベルは苦い表情ながらも、握りしめたサンプル採取器を見せて「確かに刺激してしまったかもしれないが、得られた情報は大きい。すまない、怪我をさせる気はなかった……」としぶしぶ謝罪した。
しばし余震のような振動が治まると、死骸全体は大きく姿を変えていた。外装の大部分が落ち、その下にあったフレームや筋組織がむき出しになっている。宛ら巨大な廃棄物の山でありながら、生体の名残がグロテスクに絡まった不気味なモニュメントと化していた。
反対派兵がライトを照らし、周囲を捜索する。「安全確認! 奥の空洞は崩落して完全に潰れたようだ。これでもう内部を探索するのは無理だ……」
カイは端末を確認しながら「でもよかった。あの塊が暴走して爆発とかしなかっただけマシだ」と胸をなで下ろす。
セラは複雑な眼差しで死骸を見つめる。かつてリセットを夢見た巨大兵器が、今や朽ちた肉塊となり、敗残の丘に横たわるだけ。足掻きはこうして勝利したはずなのに、レナを失い、ゼーゲも散華し、多くの命が犠牲になった。その茫然とした思いが胸を重くした。
一方、ハベルとその仲間たちは命の危険を冒したかいがあり、わずかながらも腐敗したネツァフ組織のサンプルを手に入れた。興奮に顔を輝かせながら、端末にデータを入力している。
「これほど神秘的な生体と機械の融合は他になかろう。ESPにもない特異な“精神エネルギー結晶”が含まれてる可能性がある。私たちの研究が大きく進展するはずだ……」
セラは眉を顰めつつ、「あなたたち、この街の苦しみを知ってる? ネツァフがどれだけ人を傷つけたか。そんなものを研究して、また何を起こそうというの?」と問い質す。
ハベルは穏やかに微笑んだまま、「起こすかどうかは、まだ分からない。我々はただ、“真理”を知りたいだけ。ネツァフの悲劇を繰り返す気はない。むしろ、その先にある救いを求めているのだ」と語る。
カイが歯がゆい思いで口を開く。「…でも、その“救い”がまた新たな支配や兵器になる可能性を否定できないよ。足掻きや希望を信じる立場からしたら、一歩間違えばリセットや未知の軍勢みたいになりかねない」
ハベルは肩をすくめる。「それは君たちESP派も同じだろう。苦痛を共有し合ってみんな仲良くなる一方、個の自由が損なわれる危険がある。どの道も等しく恐ろしく、等しく可能性に満ちているんだよ……」
最終的に、両者の協力関係はぎこちないながらも成立し、真理探究の徒が最低限のサンプルを確保する形で事態は収束した。反対派兵が周辺を封鎖し、ネツァフの死骸への立ち入りを厳しく制限しながら、調査を続行する。
夕暮れが深まるころ、ハベルたちは装甲車を持たないまま、徒歩で街外れへ向かう道を選んだ。再会を約束したわけではないが、「また機会があれば情報交換をしよう……」という言葉を残し、穏やかに微笑んで去っていく。その背中には、どこか危うい思想の影が見え隠れしていた。
一方、セラとカイ、そして兵士たちは車に乗り込んで帰投を開始する。ネツァフの死骸は大きく崩落したが、今後も調査や監視を続ける必要がある。もし未知の軍勢や他の組織がこの死骸を悪用すれば、新たな災いが生まれるかもしれないからだ。
装甲車が荒地を走り、丘を下る途中、セラは車窓から振り返る。その視線の先には、暗いシルエットがもう一度くっきりと浮かび、ネツァフの死骸が夕暮れの輪郭に溶け込んでいた。
セラはこみ上げるものを抑えられず、小さく呟く。
「あれが……私たちの戦いの象徴だった。リセットもネツァフも、もう終わったはずなのに……まだこんな形で人を惑わせるのね……」
カイは運転席に隣りながらハンドルを握り、悲しそうに笑う。
「世界の苦悩は尽きないんだろうね。レナの散華やゼーゲの最後もあって、街はまた一つ苦しみを乗り越えたけど……まだ先がある。ESPがどんな未来をもたらすのか、〈ヴァルハラ〉や真理探究の徒が何を目指すのか……僕らは足掻き続けるしかない」
セラは腕を組み、目を伏せながら、レナの最期の笑顔と、巨大な死骸が溶けるように朽ちていくイメージを重ねる。どちらも、壮絶な力を秘めながら滅びへと向かったという点で共通しているように思えた。死骸はまだ遺されているが、それもいつか完全に崩れ落ちるだろう。
夕闇が深まる市街地の入口まで帰投した頃、ESPによって痛みを共有する街の住民が、それなりに穏やかな表情で暮らしを続けているのがわかる。負傷者は多いものの、絶望や混乱は最小限で済んでいるのだろう。
一方、セラの胸には引っかかるものがある。(本当にこれでいいのかな……足掻きの価値が薄れつつあるなら、レナが散華した意義はどうなるの……?) と自問する。EPSNETの助けを借りて心の痛みを緩和する世界は、一見優しさに包まれるが、同時に従来の“足掻き”を形骸化する恐れも感じ取れる。
装甲車を降りると、ドミニクが出迎えてくれた。彼の表情は沈んでいるが、どこかESPによって微弱に和らげられた空気もあるようだ。
「どうだった? ネツァフの死骸、まだ動くのか?」
カイが首を振り、「一部が崩壊したけど、完全な死骸として事実上の無力化だよ。けど、中に残っていた有機塊が危険だった。真理探究の徒が少し持ち帰ったけど、どうなるか……」と答えると、ドミニクは舌打ちするように低く唸る。
「そんな連中に近づいてほしくない。だが、力で排除しきれないのが現状だ……とにかく気をつけろ。レナが散華して、ゼーゲも壊れちまった俺たちの街には、もう大きな切り札がない。ESPだけじゃ守りきれないかもしれない……」
ネツァフが完全に沈黙し、死骸が大きく崩れ落ちた姿は、一つの時代の終わりを象徴するかのように見える。しかし、その生体エネルギーや結晶は、なお世界に謎と脅威を残している。「真理探究の徒」は新たな火種を抱えながら、ネツァフの欠片を研究しようとしているし、人々の苦痛を和らげるESPも、いつかは制御を失うかもしれない。
街はレナの散華を嘆きながら、束の間の平和と再建を進めるが、ネツァフの亡霊はこうして尚生々しく留まり、未知の軍勢〈ヴァルハラ〉や真理探究の徒、そして足掻きを選んだ人々の運命に絡もうとしている。
セラとカイは車内でそれぞれ思索にふけりながら、(レナが生きていたら何を思うだろう……この死骸から、まだ新たな戦いが起きるなら、私たちはどう立ち向かうのだろう)と胸を抉られる。けれど、レナの足掻きを継いだ自分たちは、決して諦めない。ネツァフが終わっても、新たな“足掻きの価値”を信じて進み続けるのだ――。
薄闇に沈む街の外れ、ネツァフの巨大な死骸は、どこか静かな威厳を放ちながら暗闇に溶け込んでいた。時折、崩れた骨格が小さな音を立てて落ち、緑や紫の結晶が朧(おぼろ)に光を放つ。かつてリセットを企んだ亡霊が今、壮大な墓標となり、そこに集う様々な思想や勢力を呼び寄せる。
そんな光景を遠目に見つめるセラは、レナの散華と自身の足掻き、それらがもたらす未来を思い、心を静かに燃やしている。
「ネツァフの死骸」は終わりであり始まり。リセットの時代が完全に終焉した今、なお世界を脅かす影と、そこから拓かれる新たな真理。この大いなる死骸に隠された真実が、今後さらなる物語を紡いでいくのだろう。
だが、ネツァフをめぐる謎と真理探究の徒の出現によって、新たな波乱が近づいていることを人々はまだ知る由もなかった。懸命な足掻きの先に、未来は如何に姿を変えていくのか。その行方は、足掻き続ける者たちの手に委ねられている。