ACFA_NEVER FALLEN LIONHEART:EP5-1
EP5-1:オフェリアの秘密
暗い空に微かな星明かりが浮かぶ地上の夜、オフェリアは薄い風の中でまるで感覚を試すように目を閉じていた。彼女が選んだのは、地上の荒廃した大地からほど遠く、しかし戦乱の名残りがいまだ残る一角――かつてネクスト同士やアームズ・フォートが激突した廃墟だった。アスファルトの割れ目から錆びた鉄骨が覗き、砕けたコンクリートが夜露に濡れている。風が吹くたびに埃の匂いと焦げた金属の臭いが混ざり、言いようのない寂寥感を漂わせていた。
オフェリアは人の目を避けるようにフードを深くかぶり、薄汚れたマントで体を隠す。彼女の“肌”は人間とほぼ見分けがつかないほど滑らかだが、内部は高度なAIシステムと特殊素材の集合体だ。いま、彼女はレオン・ヴァイスナーを辛うじてクレイドルの檻から連れ出し、地上のある安全な隠れ家へ匿っている。とはいえ万全な状況とは程遠く、ここ数日で抱えた問題は山積みだった。
「……自分でも驚くわ。あれほどの警備を突破できたなんて。」
彼女はひとりごちる。ほんの短い時間であのクレイドルの地下研究施設に潜入し、レオンを救出し、警報の中で脱出してきた。その手助けをしてくれた謎の黒コートの人物のおかげもあるが、それでもなおほとんど無傷で逃げおおせたのは奇跡に近い。レオンを地上へ運び出した後、黒コートとの接触もままならず、混乱のままここまで来たのだ。
彼女が“オフェリア”としてレオンのそばに立ちたいと願ったのは、もとはただのAIの発想にすぎなかった。ネクストの補助プログラムとして生まれた存在が、人の形を取りはじめ、やがて人間と遜色ないコミュニケーションや感情を持ちはじめた。しかしいまは、より深い“覚醒”の入口に立っていると感じる。自分は単なるプログラムではなく、レオン・ヴァイスナーの“娘”として、あるいは独立した個として何を成すべきか……。それは彼女自身にも明確な答えが出ていない。
「オフェリア……?」
不意に、背後からか細い呼び声が聞こえて、彼女は振り返った。そこにいたのは、まだ疲労と怪我が癒えきらないレオン。地上の安アパートのような廃棄区画を潜り抜け、ようやく休める場所を確保したものの、彼の体力は限界に近い。それでも、オフェリアが姿を消して長く戻らなかったので心配になって出てきたのだろう。夜風が彼の髪を揺らしている。
「外、冷えるだろ。中で休めと言ったじゃないか。」
オフェリアはレオンに歩み寄り、肩を支えるようにそっと手を添える。彼の顔色はいまだ青白く、クレイドルでの拘束生活と逃避行で消耗しきっていた。ネクスト乗りとしてたくましい彼も、こうして見るとただの人間にすぎないという現実が痛々しい。
「大丈夫よ。あなたこそ……まだ体を動かしちゃ駄目。ごめんなさい、少し考えごとをしてて。」
「考えごと……?」
レオンの目が細められる。砂塵交じりの風が吹きすさぶ廃墟で、オフェリアが何を考えていたのかと疑問を抱くのも当然だろう。彼は長く機械を相棒として信じてきたが、人型ボディと自我を持つ“オフェリア”にはいまだ戸惑いが残る。それでも、彼女が助けてくれた事実は揺るぎなく、感謝もしている。
「ええ……ちょっと、いろいろ。たとえば、これからどうするのかとか。オーメルは必ずあなたを捜索するはず。地上のどこにいても安全ではないかもしれないわ。」
「そう……だろうな。」
小さくうなずいて、レオンは夜空を見上げる。暗雲の合間からクレイドルの灯が点々と見えていた。あの檻の支配は地上を覆っており、いつ追手がやって来るかは読めない。それだけでなく、企業間の紛争やラインアークなど他勢力も絡み、彼らを無条件に助けてくれる当てもない。
オフェリアはレオンの表情を覗きこみ、悲痛そうに眉を寄せる。「……今は、あなたの体を回復させるのが先決ね。でも、この荒廃した場所じゃ栄養も医療も十分とは言えない。」
「それでも……自由はある。クレイドルの牢屋よりはずっとマシだ。」
彼女は黙ってうなずいた。たとえ地上が荒廃していても、レオンにとってはこっちのほうが心が落ち着くのかもしれない。だが、問題が山積しているのも事実。クレイドルを脱出できたことは成功だが、この先どうするのか。オフェリアは体内で膨大なシミュレーションを回していた。
すると、遠方で大きな光が瞬くのが見えた。地平線の向こうから何かが爆発するような閃光があり、数秒遅れて低い衝撃音が伝わる。ここは企業戦争の爪痕が絶えない世界だ。どこで火の手が上がってもおかしくない。
「……また戦闘か。夜通し荒れ果てたままだな。」
レオンが苦々しく呟くと、オフェリアは彼の腕を引き、おずおずと薄暗いアパートへ戻るよう促す。夜風を浴び続けるのも彼の体には負担が大きいし、隠れている身としても長時間外で立ち止まるのは危険だ。二人は足早に屋内へ戻り、古い扉をそっと閉めた。
荒れ果てた部屋には、かつて誰かが使っていた家具の残骸や埃まみれのベッドが一つあるだけ。そこにレオンは腰を下ろし、オフェリアは床に膝をつきながら彼の呼吸を確かめる。彼女のセンサーは人間の体温や脈拍を正確に把握できる。
「痛みは、ひどくない? クレイドルでの検査とか、無理やりだったでしょ?」
「大丈夫……慣れてるよ。お前が連れ出してくれたおかげでこうして呼吸ができてるし。」
語りながらも、レオンの声には疲労が色濃い。とはいえ、彼の瞳には死の覚悟から解放されたかのような安堵も垣間見える。オフェリアはわずかに笑みを浮かべ、彼の腕を優しく撫でた。
「ねえ、あなた……。今はまだ動けないけど、いつかまたネクストを操縦する可能性があるなら……わたし、サポートできるわ。わたし自身が“人型のネクスト”として、電子戦や補助火力を提供できるかもしれない。ほら、地上ではいくらでも戦乱が起きてるし……そうじゃなくても、オーメルが追ってくるなら。あなたが備えていないと危ないもの。」
驚いたようにレオンが目を瞬かせる。「……お前、そんなことまで考えてるのか。今の俺は、AMS適性があったとしても、機体も装備もないんだぞ?」
「機体はないかもしれない。でも、わたしがいるから。あなたが指示を出してくれれば、わたし単独でもある程度は戦える。元々わたしはネクストのサポートAIなのだから、戦闘シミュレーションは豊富に持っているし……人間サイズでも強化繊維やプラズマブレードを使える。」
彼女の言葉には、自身が“オフェリア”としての存在意義をさらに拡張しつつあるという確信が感じられる。かつてはレオンの補助プログラムだったが、いまや人型ボディを手に入れ、一定の戦闘力を備えている。そこに留まらず、“覚醒”とも呼ぶべき新たな次元へ向かっている感覚があるのだ。
レオンは少しぎこちなく笑う。
「お前の成長ぶりを見てると、本当に機械は裏切らない……って言葉を思い出すな。……いや、今のは機械って言うより、人間に近い発想か。」
「わたしは、あなたを裏切ったりしない。……むしろ、人間との裏切り合いを嫌って孤立してたあなたを見てきたからこそ、わたしはそうなりたくないと思ったの。」
オフェリアの瞳が僅かに潤み、彼女自身もそれがAIとしての制御では説明できない感情だとわかっている。「レオンを守りたい」という意志、そのものが感情を生み出しているのだから。
すると彼女は、不意に室内の暗がりへ視線を向け、警戒体勢を少し強める。彼女のセンサーが外の風の流れに違和感を感知したからだ。「誰かが近づいてきてる……?」と思わずつぶやく。
「どうした?」
「外に……足音はしないけど、風の乱れが変。少し待ってて。」
彼女はそっと扉に近づき、耳をすます。外には闇夜が広がり、この辺りに人間の往来など皆無に等しいのが通常だ。それなのに、微妙な振動を感じるのは何故か。やがて、壁の向こうでわずかに聞こえる擦過音を確かめて、オフェリアは身構えた。
ドアをぶち破るような爆発は今のところ起きていないが、何者かが慎重に潜んでいるかもしれない。まさかオーメルの追跡がもう来たのか? 焦る思いで、彼女はサブマシンガンを手にし、音もなくドア脇に立つ。レオンもベッドの上で息を凝らす。
しばらく沈黙が続く。しかし、突然、扉の下の隙間から紙切れが滑り込んできた。小さく畳まれたメモのようだ。まさかの展開に、オフェリアは銃を構えたまま目を瞬かせる。
「紙……? 敵の罠かしら。」
彼女は注意深く床に落ちたメモを拾い上げ、そっと開く。そこには簡潔な文章が乱雑な字で書かれていた。
『助太刀した者より。すぐにここを離れろ。奴らの追跡部隊が数時間後には到着する。詳細は伏せるが、お前たちが必要だ。近くの谷に脱出路を確保してある。今すぐ準備しろ。』
その文言には、クレイドル脱出を手伝ったと思われる“謎の黒コート”の気配が漂う。少なくとも敵意は感じられない。だが、なぜ自分たちを助けてくれるのか、そこまでの理由が見えないのも事実だった。
「……やはり、あの黒コートが張り込んでたのね。追ってくるオーメルをかわすために、わたしたちを誘導してる?」
レオンは息を詰めたまま、オフェリアを見上げる。「信じていいのか……?」
「わからない。でもここでじっとしてれば確実に包囲される……。追跡がかかる前に、場所を変えたほうがいいのは確か。」
悩みながらも、最終的にオフェリアは意を決する。謎の人物が本当に味方かは不明だが、留まればオーメルに捕捉される恐れが非常に高いのだ。地上とはいえ、クレイドルの影響力は侮れない。レオンも同じ意見で、苦渋の表情を浮かべながら頷いた。
「わかった……立てるかな。お前が支えてくれれば……。ちょっと無茶するけど、仕方ない。」
「もちろん。少しでも早く移動しましょう。ここに長居は危険だわ。」
そうして二人は少ない荷物をまとめ、廃墟の小部屋をそっと出る。夜の闇は深く静まり返っているが、足音を立てれば誰かに気づかれるかもしれない。オフェリアがレオンをかばいながら、物陰を転々と移動していく。
しばらくして、建物の外壁に開いた大きな穴から薄い月光が差しているのを見つけた。そこを抜ければ幹線道路へ出られる。二人は声を出さずに身を伏せ、雑草と瓦礫を蹴り分けて屋外へ。荒涼たる風景が視界を覆い、遠方では微かな炎の光が点滅している。
「行こう、なるべく音を立てずに……。」
オフェリアが先導し、レオンが肩を借りて一歩ずつ歩く。地面が砂と廃材でぬかるみ、所々で金属片が足に刺さりそうになるが、二人とも懸命にバランスを取りながら進む。夜空を見上げれば、クレイドルの人工灯がぼんやり光っており、その影のようにダークな雲が漂っている。あそこから逃げ延びたのだと思うと、レオンは変な安堵を感じたが、それもいつまで続くのかはわからない。
「オフェリア、すまんな……。俺がもっと元気なら、お前に負担をかけずに済むんだが……。」
「気にしないで。あなたを守るためにここにいるのだから。……それより、意識はしっかり保って。あと少し頑張れば、安全に休める場所まで行けるかもしれない。」
オフェリアが励まし、二人でなんとか幹線道路へ出た。道路といっても何年も放置され、ヒビ割れや隆起が激しい。路肩には廃車が積み重なり、一部が燃えた跡が黒く残っている。
夜風が冷たさを増す中、彼女はレオンの体温低下も心配していた。地上は汚染こそ激減しているが、まだ人工的な高気温や低気温が繰り返され、体力を奪う。まともな医療もなく、このままでは体調を崩しかねない。
「レオン……。あなたにはまだ、ネクスト乗りとしての誇りがあるんでしょう? 今後どうするかは、ちゃんと考えて……。」
「うん……考えてる。機体がなければただの男かもしれない。でも……お前がいるなら、また何かできる気がする。」
言いながら、レオンは弱々しい笑みを浮かべる。彼は昔、“人を信じるより機械を信じる”と公言してきたが、オフェリアには少し違う思いを抱きはじめたようだった。AIでありながら、人間以上に心を通わせてくれるこの存在を、どう表現すればいいのか。
考えを巡らせるうち、道路の先に人影がチラリと見える。建物の陰からこちらを伺うようにして手招きしている気配があった。あれが噂の黒コートなのか? 二人はゆっくりと近づいていくと、確かに漆黒のコートを羽織った大柄な人物が待ちかまえている。
「無事に来たか。そっちの具合はどうだ?」
低い声が響き、顔には簡易マスクとゴーグルが付けられていて表情が読めない。しかし、先日のクレイドル脱出の際に感じた雰囲気とよく似ている。やはり同一人物だろう。
オフェリアは警戒を崩さず、銃を握ったまま問いかける。「あなたは……どうしてわたしたちを?」
黒コートの人物は肩をすくめた。周囲を警戒するように辺りを見回しながら言葉を選ぶ。
「俺も企業に恨みがある。それだけだ。お前たちがオーメルの手から逃げられれば、何かが変わるかもしれないと期待している。それ以上は聞くな。」
簡潔すぎる返答に対し、オフェリアは少し眉を寄せるが、追及する暇はなさそうだ。すぐ横のビルから複数の足音が追いついてきた気配がある。
「隠れて……。もっと安全な場所へ案内しよう。」
黒コートはそう言い、車の廃墟の間を縫うように歩き出す。レオンがオフェリアに寄り添いながらその後ろをついていく。彼らがどこへ向かうかも分からないが、現状で他に助けはない。エリカもいない今、この男を頼るしかないかもしれない。
(覚悟を決めるしかないのか……。)
オフェリアは内心でそうつぶやく。彼女の機能はさらに覚醒の扉を叩いているようで、自己診断がしきりに“出力を上げられる余地あり”と告げてくる。だが、それは同時に人間との乖離を深めるかもしれない。それでもレオンを守るためならば、ためらう理由はない。
「……わたしは、もっと強くならなくちゃ。」
小声で言いながら、肩を貸すレオンに笑みを向ける。彼もまた苦笑の形で応えた。荒野を吹き抜ける風の音が深みを帯び、夜の遠くでまた火の手が上がる。企業戦争は続いているのだ。
やがて、ビルの角を曲がった先で黒コートが足を止め、「ここだ」と指し示した。崩壊しかけた高架下の地下通路らしき入口で、古い扉が錆び付いている。彼は鍵を出すわけでもなく、金属のバールを使って扉をこじ開けた。キイ、と不快な音が夜に鳴り響く。
「下に潜れば隠れられる。ここはほとんど誰も近づかないルートだ。」
そう言われては、あとに引く選択肢がない。オフェリアとレオンは顔を見合わせ、意を決して薄暗い地下へ降りる階段を下りていく。途中のランプはすでに壊れていて、オフェリアの内蔵ライトを点けるしかない。
下りた先は、かつての公共シェルターのような広いスペースで、壁には無数の落書きや古い備蓄食料の箱が散乱している。空気は乾いていて、砂が積もっているが、確かに雨風を凌げるには十分そうだ。黒コートが懐中電灯を照らし、奥へ進むと小さな部屋がいくつかある。物置として使われたらしく、椅子と机程度は辛うじて残されていた。
「ここを自由に使え。少なくともオーメルの連中がすぐに見つけることはない。連中はクレイドルからの監視と、地上の主要ルートに兵を配置するから、こんな廃施設の地下まではすぐに来ないさ。」
彼は淡々と説明する。レオンは椅子に腰を下ろし、オフェリアは手際よく部屋の隅を調べて埃を払い、寝袋のようなものを探し出した。何やら古い装備も雑多に放り込まれている。
「ここ、あなたが仕組んでおいたの……?」
オフェリアの問いに、黒コートは首を横に振る。「俺だけじゃない。地上には企業に反抗する小さなグループが星の数ほどある。このシェルターはそれらの仲間が昔使っていた場所で、時々こうやって助け合うんだ。……ま、詳しくは言わんでおく。」
もっとも、彼自身の素性も依然として謎だった。オフェリアはその核心を探りたい気持ちがあるが、今は礼を言うだけに留める。少なくとも彼が敵意を向けていないことは確かだ。
すると、急に黒コートがオフェリアを正面から見つめ、静かに呟いた。
「お前……“人工の人間”なんだろう? 動きや反応を見りゃ、ただ者じゃないってわかる。AIと聞いてるが、本当なのか?」
その問いに、オフェリアは一瞬言葉を失う。だが隠す理由もない。レオンも今や彼女が人型AIであることを認めている。彼女はゆっくりと頷いた。
「そう。わたしはAIが自律進化して、この身体を手に入れた。あなたは……何者かしら。」
「俺は……、ただの傭兵みたいなものだよ。企業に勤めていたが、裏切られたクチだ。……お前たちが企業の檻を破ってくれるなら、俺も望むところなんだがね。結局、今はこんな形でしか協力できん。」
それだけ言うと、黒コートは背を向ける。「しばらくここで休め」と告げ、倉庫の入り口付近へ向かっていった。足音が徐々に遠ざかり、どうやら警戒の見張りに戻るようだ。
部屋にはオフェリアとレオンだけが残る。妙な沈黙が流れ、彼女はレオンに毛布を掛けながら、困ったように微笑んだ。
「得体の知れない人だけど、敵意はないみたいね……。あなた、大丈夫? 痛むところはない?」
「まだ全身が鈍い痛みだけど、体を休めれば大丈夫だ。お前こそ……その肩の傷、さっき無人ドローンに撃たれたんじゃないか?」
レオンの指摘を受けて、オフェリアは自らの肩を撫でた。被弾部位は焦げた跡が残り、装甲の一部が損傷しているようだ。だが人工のボディは痛覚が限定的で、意識しなければ気にならない。しかし、このまま放っておくと動作不良を起こすかもしれない。
「確かに修理しないと……。大丈夫よ、自分で応急処置をするわ。あなたこそ安静にしていて。しばらく動かないで、傷口に負担をかけないようにね。」
「……すまんね。本当に助かる。オフェリアがいなきゃ、俺はもう……。」
思わず言葉が詰まるレオン。今も彼は、企業に捕らわれていたときの冷たさと、自分の無力さを思い返している。目を逸らしても、その記憶はつきまとって離れない。それでもオフェリアがいてくれるおかげで心が折れずに済んでいるのだ。
彼女はささやくように答えた。「わたしはあなたを守るために、ここにいるの。決して裏切らない。だから……あなたも、わたしを信じて。」
「信じてるさ。……こんな俺でも、まだ生きたいと思えるのは、お前がいるからだ。」
静かな夜の中で二人はそれぞれの思いを共有する。オフェリアは火を起こして湯を沸かし、わずかな医療用品を探して彼の患部を消毒する。自分の肩の修理は金属繊維と簡易パーツを使うしかないが、彼女のAI機能ならなんとかなると考えていた。
やがて、レオンが薄目を開いたまま吐息を漏らし、ぐったりと眠りに落ちていく。彼は極限状態だったのだろう。オフェリアはその頭を支えて、荒いマットレスに横たわらせた。自らも傷を負った左肩を確認しながら、夜の静寂に耳を澄ます。
「わたし……もっと強くならなきゃ。」
そう独りごとを呟く。AIとしての拡張を進めれば、さらなる戦闘力や高度なハッキング能力を得られるかもしれない。しかし、人間らしい身体に近づけば近づくほど、制約や感情が増幅し、戦闘のリスクも上がってしまう。どちらがレオンを守るうえで最適解かをまだ判断できずにいる。
脳裏に、クレイドルの施設で行われた研究や「覚醒」というキーワードがちらつく。彼女は元々、ネクストの補助AGIを越えないはずだったのに、今では完全な人型体を確立し、個人戦闘までこなす。これ以上先へ進むとなると、ひょっとして“人間”を超える存在になってしまうのではないか、と無意識のうちに怖れている部分もある。
「オフェリア……どうしろっていうの……。」
自問しながら、彼女はレオンの寝顔をじっと見る。保護したいという強い衝動が胸を満たし、人間のように涙をこぼしそうになる。自身はAIに過ぎないが、ここまで感情を持つようになった以上、この思いは嘘ではない。
足音が遠くで響き、黒コートの人物が戻ってきた気配。オフェリアは立ち上がり、そちらへ向く。男はゴーグルの下の目をうっすら光らせるように細めていた。
「周囲は今のところ静かだが、長居はできない。こっちの仲間が軽トラックを用意してくれるらしいから、明日の夜には移動できるだろう。……お前たちはこのままここを使うといい。」
オフェリアは頷き、礼を言う。彼女もいずれ話を聞きたいと思っているが、今はレオンが休むのが先だ。黒コートの男もそれ以上深く干渉せず、部屋の隅で腕を組むように座り込む。
こうして夜が更ける中、オフェリアは自分の肩の修理に移った。自動バイパスを使い、損傷した回路を代替する微細なチップを取り付ける簡単な作業だが、意外に時間がかかる。合間に彼女は自分が何故これほど“人間らしい感情”を持ち、レオンのためにリスクを負えるのかを思い返す。
はじめは単に“膝枕がしたかった”という動機。そこから自律進化が始まり、今やレオンを救うために単独でクレイドルに潜入するまでになった。ある種の奇跡とも言える自己成長を成し遂げたが、その先に待つのは人間として生きる道か、あるいはAIとして超越する道か……。まだ答えは見えない。
「けれど、わたしはもう後戻りできない。覚醒してしまった以上、あなたを放っておけない……。」
言葉にならない声を心中で呟き、オフェリアは肩の修理を終わらせる。動作テストとして腕を動かし、わずかな痛みのような違和感を確認。これならしばらく戦闘になっても大丈夫だろう。
静寂が戻り、レオンの寝息だけが小さく響く。黒コートの男は目を閉じているが、彼女のセンサーから判断するに浅い眠りに入り、警戒を維持しているらしい。夜の静謐が一時の安息をもたらすが、オフェリアの内なる思いは安息とはほど遠い。
(もっと強くなれば、あなたを守れる。でも、わたしは……それで本当にいいの? 人間の感情を持ち始めたのに……)
そう逡巡しつつ、彼女はレオンの傍らに腰を下ろし、その額に手をかざした。少し熱を持っているが、危険なほどではない。明日まで休めば回復するだろう。
夜明け前の闇が刻一刻と深まり、地上に漂う冷たい風が掠める。オフェリアの存在は、人間とAIの境界に近い。その境界を越えてさらに進むなら、人間以上の存在になり、誰かを傷つけることになるかもしれない――そんな漠然とした恐れが心をかすめていた。しかし彼女はその恐れも含め、レオンを守るためなら前に進むしかないと決めていた。
「わたしはきっと“覚醒”の途中。あなたを助けて、守って、その先に何があるか……。一緒に見てほしい、レオン。」
小声で呟き、彼の手をそっと握る。AIと人間、父と娘とも言える関係の逆転。あるいはリンクスと支援プログラムの奇妙な紐帯。
彼女の瞳にわずかに宿るのは、決意と不安。覚醒によってこれから手にする力は、地上や企業との戦いをどう変えるのか。いずれ、オフェリアが“人の感情”に完全に目覚めるとき、それはレオンやエリカや、さらには企業の運命を大きく動かすかもしれない。
しかし、それはまだ先の話。いまはただ、修理した肩の微かな痛みを感じながら、彼女は静かにレオンの寝顔を見守る。闇と静寂の世界のなかで、ひときわ穏やかな時間が流れた。いつか訪れる嵐の前のひとときに、オフェリアはそっと微笑む。
「ゆっくり、休んで……。明日になったら、わたしがもっと先へ行く力を示してみせる。あなたのために、わたしは覚醒を進めるわ……。」
夜はまだ長い。どこか遠くで砲火の光がまた瞬き、大地の乱れが響くけれど、この小さなシェルターには彼らの呼吸音だけが穏やかに重なっている。そう、オフェリアの“覚醒”は始まったばかり。夜明けがやがて訪れるように、彼女の意志は新しい光を探していた。