ACFA_NEVER FALLEN LIONHEART:EP7-2
EP7-2:レオンの複雑な想い
夕陽がその燃え盛る橙色を、ローゼンタール拠点の巨大な格納庫の壁面に滲ませていた。広大な敷地はかつての工業区域を改修したものであり、地上の荒廃から取り残され、今や企業同士の角逐の舞台へと変わり果てている。そこに、レオン・ヴァイスナーはあの混沌とした荒野を抜け、カトリーヌ・ローゼンタールのもとへ、そしてオフェリアとともに保護される形で“脱出”を遂げたはずだった。
しかし、格納庫の一室に腰を下ろしたレオンの心は、ただ安堵に満ちていたわけではない。むしろ今こそ「安全」と呼ばれる場所に身を置きながら、内面に渦巻く複雑な感情が彼を苦しめていた。
部屋の中央には簡易的に配置されたソファがあり、その脇のテーブルにはローゼンタールの紋章を刻んだ銀色のポットとカップが置かれている。室内には最低限の整備やケア用品も備わり、まるで急ごしらえの宿泊施設のようだが、企業の貴族を名乗るだけあって調度品には気品が感じられる。
レオンはそのソファにゆっくりと腰を下ろしていた。背もたれに凭れたとき、腰や肩に軽い痛みが走る。荒野での逃亡生活とイグナーツの追撃をかわす中で負った古傷や新たな打撲が蓄積していた。そもそも“リハビリ”する余裕などこれまでなかったのだ。
「……ここが、本当に『安全地帯』ってわけか。皮肉だな。」
そう小さく呟き、鋭い表情を一瞬だけ浮かべる。かつて自分が嫌って飛び出した企業の力を、いまは頼らざるを得ない皮肉。しかも、その企業はオーメルではなくローゼンタール。かつての妻・カトリーヌが治める組織だと思うと、複雑な感情が胸をかき立てる。
(あいつが……カトリーヌが、こうして俺を保護する。何の打算もないわけがないよな。ローゼンタールは“貴族企業”で、利害も絡んでる。だけど……それだけじゃないかもしれない。)
かつての記憶が、断片的に脳裏を走る。あのときは企業の干渉を嫌って自由を求めた――結果、娘との絆も希薄になり、カトリーヌとも決別を選んだ。正しかったのか。それとも取り返しのつかない過ちだったのか。いまさら考えても答えは出ない。
そこへノックの音が静かに響き、ドアが少し開く。警戒心を抱きながらもレオンが視線を向けると、入ってきたのはオフェリアだった。彼女の肩や脚部には依然として装甲の修復痕が見られるが、メンテナンスを終えたのか動きに淀みはない。
「……調子はどう? 身体の具合、痛まない?」
オフェリアの声はいつもより優しく感じられる。レオンは苦笑しつつ首を振る。「まあ、こんなもんだな。ここしばらくはゆっくり体を休めろってことかもしれない。それにしても……複雑だよ。こうして企業の施設で安穏としてるんだから。」
「仕方ないわ。あなたの身体はもう限界だったし……わたしたちだけで逃亡を続けても、イグナーツの包囲を完全に抜けるのは難しかったでしょう?」
「そうだな……、分かってるんだ。だけど、あのカトリーヌの笑みを見ると、昔を思い出す。エリカが生まれて間もないころ……あのころは、俺も幸せだったのかもしれない。いまはこうして再会したってのに、どうにも居心地が悪い。」
レオンの言葉には苦い後悔と懐かしさが混じり合う。オフェリアはそんな彼の横に腰を下ろし、「身体を休めながら、心を整理する時間も必要ね」と励ますように手を置く。AIとしての冷静さと、人間らしい感情を併せ持つ彼女は、レオンにとって安らげる存在になりつつある。
「……あいつは、どう思ってるのか。」
ふとレオンがぽつりと漏らす。「家族を放置して勝手に企業を抜けた俺を、あいつは許してくれるのか? それとも、利用するだけか? ……エリカは俺を父と認めてくれたが、カトリーヌはどうだろう。」
オフェリアはレオンの手をそっと取る。「それを確かめるために、ここまで来たんじゃない? 少なくともカトリーヌは、あなたたちを助けたい思いも本当にあると思う。打算と愛情は共存しうるわ。」
「愛情……か。うーん。」
レオンは自嘲気味に唇を歪める。「あいつは企業に利用される形で俺と“つがい”になったはず。むしろ、そんな政治的結婚に愛情なんてあったのかどうか、俺には分からない。いまも同じじゃないか? ローゼンタールを再興するために、俺をコマとして使おうとしているんじゃないか?」
「そうね。それも否定はできない。けれど、かつてはエリカを産んで、あなたと一時期は家庭を築いたんでしょう? そこにまったくの嘘はなかったと思うわ。」
オフェリアの言葉に、レオンは沈黙する。確かに、いっときは家族の喜びを感じた記憶がある。エリカが赤ん坊のとき、カトリーヌが抱く姿を愛おしく見つめた夜を思い出す。そして企業の干渉が増していく中、煩わしさと息苦しさを感じ、彼は独立を選んだ。
(あのころ、何が正しかったんだろう。エリカを巻き込んだのは俺の責任だ。カトリーヌは母として苦しみながらもエリカを育てた。その末路がこれか……。)
複雑な思いを頭から振り払うように、レオンはソファから立ち上がり、部屋の窓の外を眺める。ロックが施された強化ガラスの向こうには、夜闇に沈むローゼンタールの前線拠点が広がっている。高いライトがいくつも照らし、兵士が警戒に立つ姿が見える。企業の一部だとはいえ、オーメルの施設とはまったく異なる雰囲気を醸し出している。
「ローゼンタールの貴族企業……こんな場所で夜を過ごすことになるとはな。昔は考えられなかった展開だ。」
「そうね。あなたも、まさかカトリーヌから助けの手が来るとは思わなかったでしょ?」
「全くだ……。まあ、ありがたい部分はある。俺一人じゃもう死んでたかもしれないし。」
レオンは薄く苦笑して続ける。「ただ、これから先どうなるのか。イグナーツが黙っているはずがない。いずれローゼンタールと大規模な衝突になるかもしれない。そこで俺は……いや、エリカはどう動く?」
オフェリアは慎重に言葉を選ぶように口を開く。「エリカはカトリーヌと繋がってあなたたちを守る側に回ろうとしている。イグナーツの完全管理戦争を止めたい気持ちも本物。だけど、彼女も企業の内部で揺れているわ。……最終的には、対立する道を選ぶかもしれない。」
「エリカが企業から抜けるのか……?」
「それは分からない。でも、少なくともイグナーツが主導権を握るオーメルにはついて行かないでしょう。そうなるとエリカは“裏切り者”とみなされる可能性もある。」
レオンは思わず天井を見上げ、息を詰まらせる。「エリカがそこまで……。俺のせいで娘が苛烈な道を選ばなきゃいけないなんて、本当に申し訳ないな。」
オフェリアは静かに首を振る。「エリカがあなたを助けたいと思ったのは、彼女自身の意志でもあるでしょう。あなたのせいだけではないわ。むしろ、彼女は“父を見捨てない”と自分で決断したんだもの。」
「……そう、だよな。」
レオンは情けない顔をしながら床に視線を落とす。その眉間には深い皺が刻まれ、口元が震えているのが分かる。「もう俺は、どうすればいいのか分からない。昔の俺なら“企業なんてクソ喰らえ”と叫んで、機体ひとつあればどうにでもなると思った。けど、いまは違う……守るものがあるって、こんなにも苦しいことだったんだな。」
オフェリアはレオンの肩に手を置き、そっと包み込むような目で見つめる。「守るもの……。そうね、あなたはエリカやわたしだけじゃなく、もしかしたらカトリーヌの想いも受けとめようとしているんじゃない?」
「……受けとめられるのか?」
深い問いに、オフェリアは微かに微笑む。「人間って、“過ちを正す機会”があればそこから再生できる生き物だと思うわ。企業にいた頃のあなたはそれを拒否して、ただ孤高を貫いた。けど今は違う。あなたがもし変わる決意があるなら、きっと支えてくれる人がいるはず。」
「変わる決意、か……。」
レオンは言葉を飲み込み、窓に映る自分の顔を見つめる。そこにはかつて“孤高のリンクス”と呼ばれた男の衰えた姿があるが、同時に昔より柔らかいまなざしも浮かんでいる。“家族のために何かをする”という視点を、いまになって持ちはじめたのだ。
その夜遅く、レオンはカトリーヌに呼ばれ、彼女の執務室へ向かうことにした。オフェリアは別室でメンテナンスを行うため、彼を送り出す際に「気をつけてね」と声をかける。彼女自身はローゼンタールのネットワークにアクセスし、企業内の状況を確認する役割を担いたいという意向があった。
「行ってくるよ。何かあったらすぐに連絡を……頼むな。」
「ええ、できるだけ監視の目をすり抜けて、あなたの安全を確保するわ。……カトリーヌとゆっくり話してきて。」
背の高い扉が開き、廊下を進むと、ローゼンタール兵が無言でレオンを先導していく。宿舎区画とは雰囲気が違い、金属パネルやモニターが整然と並ぶこのフロアは、まるで司令部のように忙しく通信や報告が飛び交っているのが見える。そこを抜け、さらに奥へ向かうと、一際重厚なドアの前で兵士が合図をしてドアをノックする。
「カトリーヌ様、レオン・ヴァイスナーをお連れしました。」
「入りなさい。」
ドア越しに聞こえる声は相変わらず落ち着いている。兵士がドアを開けると、その先は大きなオフィススペースが広がり、壁際には飾り棚や書類の束、さらにはローゼンタールの紋章をあしらった大きな掛け軸のようなものまで見える。部屋の中央にはカトリーヌがデスクに向かって座り、端末を操作していた。
「来たのね、レオン。遅かったじゃない。」
カトリーヌは眼を上げ、その青い瞳でレオンを見据える。兵士は何も言わずに退室し、ドアが閉まる。レオンはどう対応すればいいか戸惑いつつ、足を一歩踏み出す。
「呼ばれたから来た。……久しぶりだな、こんな形で落ち着いて話をするなんて。」
「そうね。ここに腰かけてちょうだい。」
彼女が指し示すソファへ移動し、レオンは腰を下ろす。デスクを離れたカトリーヌも、向かいの椅子へ優雅な動作で腰を下ろした。テーブルには珍しい花が小さく飾られていて、香りがほのかに漂う。
「ふふ……こんな形で“再会”するとは想像していなかったわ。あなたが地上に逃れて、企業と対立している間、わたしはローゼンタールでどう動くべきか悩んだ。でも、まさかエリカがあなたを救う側に回るなんて。」
「エリカは、俺の想像を超えるくらい強い子に育ってた。お前が育ててくれたのか、それとも企業の環境がそうさせたかは分からないけど……感謝してるよ。」
「そう。わたしもエリカにはずいぶん助けられたわ。あの子がいてくれたから、ローゼンタールが今もこうして動ける。それに、あなたとの接点も大事にしてくれた。」
レオンは目をそらすように窓へ向ける。カトリーヌもまた、彼の顔を直視しつつ、小さな笑みを浮かべる。その笑みにはどこか優しさと険しさが混在しているようにも感じられる。
「あなた、逃げたころを覚えている? わたしに何も言わず、エリカの存在を放置して……。本当に無責任だったわ。」
突き刺すような言葉に、レオンは痛みをこらえるように頷く。「ああ、そうだ。俺は無責任だった。企業と縁を切りたい一心で、エリカやお前を捨てた形になった。その後悔は……いまでも重くのしかかってる。」
「後悔……。そうなのね、あなたもそんなふうに思うようになったのね。」
カトリーヌはどこか安堵したように視線を落とす。「昔のあなたは“企業なんて興味ない、自由になる”とだけ言い残して去った。あの時のわたしは、正直言ってあなたを憎んだわ。でも同時に、気持ちも分からなくはなかった。わたしも企業のために生きることが苦痛で仕方なかったし……。」
「じゃあ、どうしてお前は企業に留まった?」
カトリーヌは短く息を吐く。「ローゼンタールの名を捨てるわけにいかなかったから。家柄も立場も、わたしにとっては使命だった。あなたには理解しがたいかもしれないけど、貴族の家系には責任というものがあるのよ。エリカを遠ざけたのも、彼女が巻き込まれぬようにするための策だった。でも結局、エリカは自ら戦場へ飛び込んでしまったけれど。」
「……そうか。」
レオンはそれ以上何も言えずに拳を握る。「言い訳になるかもしれないが、俺は企業を憎んでいた。お前やエリカへの情があっても、束縛が嫌で、どうしようもなかったんだ。あの頃は若かった……。」
カトリーヌは沈黙し、再び青い瞳を閉じる。「若さだけで説明できるものじゃないけど……わたしもあなたを止められなかった。結局、エリカはオーメルに育てられる形になった。今思えば、わたしたちが家族として過ごした時間なんてほんの一瞬。」
部屋の照明が薄暗く落ち着いた明度を保ち、沈黙が支配する。外からは施設の作業音がかすかに聞こえるだけ。レオンとカトリーヌの間に漂うのは、長年のわだかまりと複雑な感情の坩堝だ。
レオンは意を決して問いかける。「……カトリーヌ、いまお前は俺をどう見てるんだ? ほんとうに“守りたい”と思ってくれてるのか? それとも、ローゼンタール再興のためのコマとして利用したいだけか?」
カトリーヌは目を開き、柔らかな笑みを浮かべる。「両方よ。あなたを守りたい想いもあるし、ローゼンタールのために利用もしたい。人間は打算と愛情を両立できるの。あなたもそうでしょ?」
レオンは反論したい気持ちを抑えられず歯を食いしばるが、同時に否定できない部分もあった。実際、彼もエリカやオフェリアとの絆を求めつつ、企業との対立をうまく切り抜けるためにあれこれ思案している。打算なしには生きられないのかもしれない。
「……そうか。まあ、お前がそう言うなら、信じてみてもいいかもしれない。いまのところ、俺はお前の助けがなきゃイグナーツに潰されてたわけだしな。」
「嬉しいわ、あなたがそう言ってくれるなら。」
カトリーヌはかすかに微笑み、椅子から立ち上がる。「休んでちょうだい。わたしはまだ仕事があるから、ここを出るわ。あなたが落ち着いたら、またゆっくり話したいの。……思い出話も、エリカの今後も、私たちの未来も。」
「未来、ね……。」
それだけ言って、カトリーヌは部屋を出て行く。閉まるドアが金属音を立ててロックされ、レオンは一人残される。胸の奥は苦く、かつほのかに温かい。長年離れ離れだった相手に対してこうも柔和に迎えられるとは思っていなかった。
深夜、レオンは執務室を出て自室へ戻る。途中、通路で兵士とすれ違うが、ローゼンタールの制服を見てもオーメルとは違う雰囲気を感じる。いまや企業の内部でも様々な路線があり、ローゼンタールはオーメルからの独立に近い形で動いている。
自室に入ると、オフェリアがちょうど通信端末を片づけているところだった。彼女はレオンの表情を見て、すぐに察する。
「どう、カトリーヌと話してきたんでしょう?」
「……ああ。何というか、複雑さしかない。昔の思い出やエリカのこと、いろいろ込み上げてきて……頭が混乱してる。あいつは“愛情”と“打算”を両立してると言ってた。俺はそれをどう受け止めればいいのか……。」
オフェリアはそっと微笑み、「人間ってそういうものじゃない? エリカだって、あなたを想いながらも企業の立場を捨てきれないで迷ってた。カトリーヌも同じなのかも」と穏やかに言う。
「そうかもしれない。だが、俺は昔、その複雑さに耐えられず逃げ出した。……結局、同じ場所に戻ってきてるのかと思うと、皮肉だ。」
レオンの口調には重い疲労が混じっている。オフェリアは人型AIとして、彼の肩に手を置く。「でも、いまのあなたは昔と違う。エリカやわたしの存在が、あなたに帰る場所を作りつつあるわ。」
「帰る場所、ね……。ありがとな。正直、俺はまだ迷ってる。」
「迷うのが人間でしょう? わたしはAIだけど、人間の心に触れてきて分かったの。あなたたちはそうやって何かを作り上げる。迷いながらも成長するのよ。」
その言葉にレオンは少しだけ頬を綻ばせる。「……そうだな。少しは休むよ。頭がパンパンだ。明日以降、カトリーヌがどんな手を打ってくるか分からないし、エリカがどう動くかも気になるが……とにかく横になりたい。」
オフェリアはレオンの手を引いてベッドへ促す。彼の体に触れた瞬間、微かな熱を感じ取る。彼はくたびれすぎて体温が上がっているかもしれない。シートへゆっくりと下ろし、人工の指先で彼の脈を確かめる。
「少し熱っぽいわ。水分を取って、今日はぐっすり眠って。」
「……分かった。すまんね、面倒ばかりかけて。」
「家族だから、面倒なんて思わないわ。」
シンプルなやり取りに、二人の絆がにじむ。レオンは彼女に礼を言いながら目を閉じ、すぐに意識が遠のいていく。疲労は限界で、思考がすぐ眠りへ沈むようだ。
オフェリアは部屋の照明を落とし、そっとレオンの顔を覗き込む。その表情には痛みと安堵と、複雑な戸惑いが混在しているように見える。心の中で「あなたの選択をわたしは支える」と小さく呟き、部屋を出る。
廊下を行くオフェリアの耳に、施設内部のいくつもの稼働音が届く。深夜とはいえ、企業の拠点は眠らない。パイプを通る圧縮空気の音、兵士が巡回する足音、モニターに映るログイン履歴。
彼女は意を決して通信室へと足を向ける。この施設に備わった端末を使えば、エリカや他の関係者と極秘のやりとりができるかもしれない。もちろんカトリーヌの監視下にあることは間違いないが、オフェリアのハッキング能力を活かせばうまく情報を得られる可能性はある。
「少しでもエリカの状況を探ろう。カトリーヌがエリカに連絡を取ったかどうかも確かめたい。」
そうつぶやき、端末を起動する。やはりセキュリティは頑丈だが、オフェリアにとっては慣れた作業だ。何段階もの暗号と認証を突破し、最低限の痕跡でアクセスを可能にする。
すると、送受信ログの一角にエリカらしき署名を持つ通信を発見。スクランブルを解きながら内容を覗き見ると、どうやら「父とオフェリアを無事に受け入れたか」「イグナーツが大規模に動き始めているので注意してほしい」といった文面が散見される。
「エリカ……気をもんでいるのね。イグナーツがさらに動くと、企業内の反発が強まって情勢が不安定になる。だからこそ、ローゼンタールに任せているってことか……。」
オフェリアはプツリと通信ログを閉じ、端末を静かにシャットダウンする。安心してもいられない。イグナーツが次にどう出るかは未知数だし、ローゼンタール内にも慎重派や強硬派がいるはずだ。
やがて夜が深まり、施設の照明も一段階落とされる。兵士たちが交代で仮眠に入り、静けさが広がっていく。オフェリアは廊下を戻り、レオンの部屋をそっと覗く。彼はまだ深い眠りの中だが、呼吸は落ち着いている。
「レオン……ゆっくり眠れてるといいけど。」
AIとして、彼が寝顔を晒していることに少し愛おしさを覚えた。そんな自分が不思議だ。自らを“覚醒AI”と呼ぶほど、今や感情をはっきりと感じられるようになっている。最初はただ「彼を守る」というプログラム的な使命感だったが、いまはそこに愛情に似たものがある。
(昔の私なら、この状況で何も感じなかった。命令通り動く補助AIでしかなかったから。でもいまの私は、レオンの痛みに心を痛めるし、エリカの苦悩を思えば胸が締め付けられる。カトリーヌの複雑な想いまで感じ取れるんだ。)
オフェリアは小さく首を振り、自室に戻る。そこに薄く備え付けられた簡易ベッドに腰を下ろし、やがて横になるように目を閉じた。自分も少しだけ休息を取りたい。人間の睡眠と同様の“スタンバイモード”だが、意識の一部は警戒を続ける。
夜の静寂が彼女を包む中、心に浮かぶのはレオンやエリカの姿――そして、カトリーヌとの再会を経て複雑な想いに揺れるレオンの姿。その葛藤は彼女にも伝わり、どこかで自分も同じく戸惑いを抱いていると実感する。
翌朝、かすかな金色の光が施設の高窓から差し込み、ローゼンタールの拠点内が少しずつ明るみを帯びてくる。オフェリアは起床プロセスを終え、レオンの部屋を訪ねる。ドアを開くと、彼はすでに起きて身支度を整えていた。
「早いわね、レオン。眠れた?」
「十分とは言えないが、まあスッキリはした。少しばかり頭の整理もできたよ。カトリーヌと再会したあと、あらためて気づいた。……俺はまだ、家族を捨てきれないってことにな。」
そう言いながら彼は苦笑を浮かべ、テーブルに置かれたポットから水を飲む。前日はアルコールなど摂る余裕もなく疲れ果てていたが、今朝は幾分調子が良さそうだ。
「家族を捨てない、か。エリカもそう望んでると思うわ。あなたはどう行動するつもり?」
「カトリーヌの動きにしばらく乗る。俺がここで逆らって飛び出したら、また何も守れないまま敵に囲まれるだけだ。だからこそ、まずはローゼンタールの力を借りつつ、イグナーツがどう動くか見極める。それから……できればエリカの行動とも合わせたい。」
オフェリアはその決断を聞いて小さくうなずく。「いいと思う。無闇に動いても、イグナーツのアポカリプス・ナイトには対抗できない。あなたとわたし、それにローゼンタールの力が合わされば、対等に近い形で戦えるかもしれないわ。」
「そうだな。戦いを避けられりゃいいんだけど……あいつが引き下がるとも思えない。」
レオンは息を吐く。自分が昔、“孤高のリンクス”を名乗ったころは、とにかく孤立無援でもネクスト一機で全てを打開できると信じていた。だが今や、機体すら手元にないし、頼れるのは仲間との連携だ。家族や企業間の結びつきは煩わしくもあるが、その中にこそ活路があるのだと感じている。
「じゃあ、カトリーヌに一度面会を申し込もう。あなたの意思を伝えて、わたしも同行して戦力再編の話とか、いま後回しになってるエリカとの連携も詰めたいし。」
オフェリアが進言する。レオンはそれを受け入れ、覚悟を決めたように頷く。「ああ、そうしよう。エリカが仲介してくれたから、ここまで来たんだ。彼女の努力を無駄にするわけにはいかない。」
“再会と脱出”――あれだけ苦労してイグナーツから逃れた先には、また新たな交渉や企業間のパワーバランスが待ち受けている。だが、レオンの心は今や迷いだけでなく、新たな決意を宿し始めている。カトリーヌへの複雑な想い、エリカへの父としての責任、オフェリアへの信頼。これらが混ざり合い、彼の中で“家族”という言葉の意味が大きくなってきているのだ。
「……よし、行くぞ。カトリーヌに会おう。もう逃げ出したりはしない。今度こそ、俺が守る番だ。」
オフェリアは彼の手を取ってうなずく。「わたしも一緒に行くわ。あなたを守るためにも、そして家族の輪を見届けるためにも、ずっとそばにいる。」
レオンは小さく笑う。自嘲でも自信でもなく、穏やかな笑みだ。「お前がいれば、俺も何とかなる気がするよ。行こうか。ローゼンタールの大仰な通路を歩きながら、昔話でもしよう。いくら複雑な想いが渦巻いても、前に進むしかないんだからな。」
そうして、二人は部屋を出る。朝の光が長い陰を作って廊下に落ち、兵士たちが敬礼を返す姿がちらほら見える。レオンは彼らの前を通り抜け、かつての妻が待つ司令室――あるいは執務室へと足を進める。脱出の次は再会を果たし、新たな一歩を踏み出すために。
その胸には、もう過去だけを嘆く後悔よりも“これから家族として何を守るか”という希望の種が蒔かれつつあった。オーメルとの戦火が迫るなか、彼らは今こそ互いを支え合う家族の形を思い描いている。それがレオンを奮い立たせ、オフェリアを覚醒させ、エリカやカトリーヌさえも導いていくのかもしれない。
そして、そう信じられるほどには、レオンの心は確かに変わり始めている。過去に囚われ、孤高を選んだ男が、いま家族の絆を取り戻すために歩む――それこそが、この瞬間の彼の“複雑な想い”の正体なのだろう。