ACFA_NEVER FALLEN LIONHEART:EP7-1
EP7-1:ローゼンタールの救援
荒野を吹き抜ける風はいつもより生温く、砂の匂いに混じって微かな焦げ臭が漂っていた。いまだかつて幾度もの戦火が荒れ狂ったこの地上に、またしても不穏な気配が立ちこめる。しかし、その日はわずかに違っていた。遠方で唸るエンジン音は、オーメルの追撃部隊のものではなく、ローゼンタールの紋章を掲げた輸送機と装甲車列が近づいてくる合図だったのだ。
「……本当に、あれはローゼンタールの部隊なのか?」
岩陰に身を潜めながら双眼鏡を覗き、レオン・ヴァイスナーは半ば信じられないという表情でつぶやく。かつてローゼンタールとオーメルは企業連合の枠内にあったが、内部の勢力争いが激しくなるなかでローゼンタールは独立の意思を示しはじめているらしい。だからこそ、オーメルの巨大な影に対抗しうる数少ない企業として、今また地上にその姿を現しているのだ。
「エリカが言っていたわ。ローゼンタールのカトリーヌが動くかもしれないって。」
そばで身を屈めているオフェリアが補足する。彼女の声は静かだが、その眼差しは警戒にあふれていた。何しろレオンとオフェリアはイグナーツ率いるオーメルの追撃をかわし続けている最中であり、どんな企業の動きにも注意を払わなければならない。
「カトリーヌ・ローゼンタール……俺の、かつての妻、か。」
レオンは苦く笑って鼻先をこする。かつて“つがい制度”に従って企業にいたころ、カトリーヌと結ばれ、娘であるエリカを授かったものの、結局企業の干渉が嫌で飛び出した経緯がある。それが原因でカトリーヌとも疎遠になり、今や“貴族企業”ローゼンタールの要職についている彼女はどう考えているのか、皆目見当がつかない。
「……でも、エリカが母に話を通す、って言ったわ。もしかしたら、わたしたちを保護するための部隊を派遣してくれたのかもしれない。」
オフェリアは先日エリカとの密かな通信で得た内容を思い出す。エリカが母に掛け合えば、オーメルとは違う独自路線を歩むローゼンタールが何らかの援助をする可能性はあった。もっとも、「ローゼンタールが父とオフェリアを本当に歓迎してくれるか」は不透明で、利害で動く彼らにとってレオンたちは便利なコマでしかない可能性もある。
「どうする? あの装甲車列を信じて出て行くか? それとも……」
レオンが言いかけた瞬間、遠くから砂塵を巻き上げる車列の先頭車輌がわずかに減速し、拡声器らしき音がこちらまで届く。風切り音が混じってはっきりとは聞こえないが、“レオン・ヴァイスナー”という言葉が聞き取れた。
「……何か呼びかけているわね。」
オフェリアがセンサーを傾け、耳を凝らすように細かい周波数をチェックする。まもなく、彼女が暗号解除を行うと、女性の声が聞こえてきた。ノイズ混じりだがどこか優雅な響きを帯びている。
「……こちらカトリーヌ・ローゼンタール。レオン・ヴァイスナー、聞こえているか? 我々はローゼンタール所属の独立部隊です。敵対する意思はありません。あなたとオフェリアを保護するためにここへ来ました。無用な戦いは避けたいので、どうか姿を見せてください。」
レオンはその声に懐かしさを感じながらも、血の気が引くような緊張を覚える。「……カトリーヌ……。本当にあいつが来たのか。」
「きっとエリカが動かしたのよ。お母さんなら助けてくれるはず――そう言っていたわ。」
オフェリアがそっと背中を押すように言う。だが、レオンも彼女も未だ完全に信用できていない。カトリーヌがローゼンタールの“企業の貴族”として、どんな思惑を抱いているかはわからない。レオンたちを利用して、自社の利益を拡大する狙いがあってもおかしくはない。
けれど、このままオーメルの包囲網を逃げ回っても先がない事実は変わらない。エリカの仲介があるということは、少なくとも悪意だけで動いているわけではない可能性もある。
「……行くか。」
しばらく逡巡したあと、レオンは意を決して立ち上がる。オフェリアも黙って頷き、彼の右腕をそっと取りながら歩き出す。装甲車列のほうへ向かい、あからさまに武装を見せず、ただ“自分がいる”と示すために砂丘を越えて視界に入る形で手を挙げた。
すると、ローゼンタールの車列から一台の装甲車が進み出て、こちらと間合いを図るように停止する。重装備の兵士たちが車外に出るが、銃を構える様子はなく、むしろ肩に背負っているだけというスタイルだ。まるで威圧しないように気を遣っているようだった。
「レオン・ヴァイスナー……それに、そちらが噂のオフェリアか。」
一人の兵士がそう言ってヘルメットを外し、頭を下げる。「失礼します。ローゼンタールに仕える部隊の者です。隊長はカトリーヌ・ローゼンタール……彼女がお待ちです。」
「わかりました……。その、カトリーヌは……」
レオンが戸惑いを隠せずに声を出すと、兵士は口元に薄い笑みを浮かべる。「カトリーヌ様に同行いただければ、詳細をお話しできます。オーメルとは相いれない形ですが、彼女の意向であなた方を保護する目的で来ています。」
そこで兵士の後方、装甲車の乗降口が開き、整った形相の女性がゆっくりと姿を現す。流麗な仕立ての黒いコートを纏い、まるで貴婦人を想起させる気品を漂わせている。その瞳は深い青で、周囲に鋭い視線を投げかけたあと、まっすぐレオンを見つめた。――カトリーヌ・ローゼンタール。彼女はかすかに微笑み、レオンに対して静かな声をかける。
「あなたは相変わらず……ね。お久しぶり、レオン。今度こそ、わたしの声に耳を傾けてほしいわ。」
その声は懐かしくもあり、どこか冷たさも孕む。しかし、レオンの胸には強い鼓動が駆け巡る。長年会っていなかったが、昔の面影が確かに残っている。オフェリアも警戒しながら一歩後ろに下がり、二人の様子を見守る。
「カトリーヌ……俺は……」
言葉にならない複雑な感情が渦巻く。かつて企業の力を利用する形で婚姻関係を結び、娘を授かったが、それゆえに束縛を嫌って別れた相手。レオンは自分の身勝手さでエリカとも離れ離れになったという負い目がある。
カトリーヌはその瞳に微かな感情を宿しつつ、しかし貴族らしい冷静な口調で言葉を続ける。
「今のあなたを責めるつもりはないわ。むしろ、あなたを見て懐かしささえ覚える。……でも、時間がないの。早く車に乗って。ここで話していると、イグナーツの追手が来る可能性もある。」
レオンは小さく息を吐き、オフェリアを振り返る。オフェリアは「わたしも同行させてもらうわ。レオンだけ連れていくなんてさせない」と目で念を押すように頷く。
「わかったよ、カトリーヌ……。」
レオンがそう言って一歩前に出ると、兵士たちも慌てて構えるが、カトリーヌは手で制止し、ゆっくりと首を横に振った。「大丈夫、警戒の必要はないわ。レオンと……オフェリア、あなたたちを守るという約束だから。」
こうして二人は兵士たちに付き添われて装甲車へ向かい、車内へ乗り込む。中は驚くほど快適な空間があり、簡易のソファと通信端末が設置されていた。カトリーヌが先に座り、彼らを招くように手を振る。
「ここなら、少しは落ち着いて話せるでしょう。あなたの姿を見られるのは久しぶりね、レオン。……元気そうで何よりだわ。」
「あいにく、元気じゃない。何度も死にそうになったし、エリカにも随分助けられた。……お前と再会するのも、正直戸惑いばかりだよ。」
レオンは低い声で返すが、そこに怒りはなかった。ただ、複雑さと照れくささが混じったような苦い表情だ。カトリーヌはその様子を見て、少しだけ微笑む。まるで昔のように優雅な雰囲気を纏ってはいるが、その内心はどうにも読めない。
「話はあとでするとして、今は安全地帯へ向かいましょう。ローゼンタールはもうオーメルと一線を画す決断を下しつつあるの。エリカ・ヴァイスナーと協議した結果、あなたたちを保護するのが得策だと判断したわ。」
「エリカと……?」
オフェリアが口を挟む。「じゃあ、エリカはあなたに連絡して、この救援を手配したのね?」
「そういうこと。エリカは企業の指揮官として、上層部との板挟みに苦しみながらも、あなたたちを捨てない道を探っているの。イグナーツの追撃をかわしきるには、もはや彼女一人じゃ厳しい。そこでローゼンタールが動くのが一番だと判断したというわけ。」
詳しい経緯を語るカトリーヌの眼差しは、どこか誇り高い。それでも、レオンを真正面から見つめる視線には感情が波打っているように感じられた。複雑な愛情や切なさ、あるいは企業の利益を守るための計算が混在しているかもしれない。
車両がエンジン音とともにゆっくりと進み出す。外を見ると、ローゼンタールの装甲車列が整然と隊列を組み、上空には護衛の武装ヘリが控えている。まるで小さな陸上艦隊のように堂々とした移動で、オーメルも迂闊に手を出せないような威光を放っていた。
「でも、どうやってイグナーツを押さえるつもりだ? 奴のアポカリプス・ナイトはあまりにも強大だし、企業の上層部もあいつに賛同している連中が多いはずだ。」
レオンが不安げに尋ねると、カトリーヌは重く頷いた。「ええ、イグナーツが掲げるネクスト不要論とAI制御戦争は、表向きには有効だと考える人もいる。でも、ローゼンタールは貴族企業として、もう一つの理念を捨てられない。そう、人間の意志を守るという理想よ。」
「理想……か。お前ら貴族企業がそれを掲げるってのも、皮肉なもんだ。」
「ええ、皮肉かもしれない。でも、わたしは信じたいの。エリカもそこに一条の光を見出した。あなたとオフェリアを捕まえるんじゃなく、守るためにね。」
カトリーヌがレオンの言葉に微笑を返す。その笑顔はどこか切なげだが、同時に芯の強さが感じ取れる。いまだ企業内部で繰り広げられる権力闘争の中で、ローゼンタールが独自の道を進むための一手として、レオンとオフェリアが必要なのだろうか――レオンは考えるが、下心があったとしても、助けを得られるならありがたいとも思う。
オフェリアは隣で黙って話に耳を傾けていたが、やがて口を開く。「あなたがわたしたちを保護してくれるのは感謝するわ。だけど、それは本当に“わたしたちを守りたい”という気持ちがあるの?」
「ええ、もちろん。私はレオンを、いえ、あなたたち家族を守りたいという気持ちもあるのよ。昔、レオンと結ばれたのは企業の戦略だけが理由じゃない。でも、今の私にはローゼンタールの再興という責務もある。この状況を利用できるなら、企業内外の勢力を引き入れる形でローゼンタールを復活させたい。利害が一致するわね?」
はっきり語るカトリーヌに、オフェリアはわずかに瞳を伏せる。レオンはただ苦笑するしかない。“守りたい”という真心と、“ローゼンタールの復活”という利害が同居しているのは明白だ。そこにエリカの想いも絡み合い、さらにイグナーツという大敵もいる。まさに複雑怪奇な企業政治のど真ん中へ飛び込むようなものだ。
「わかった……。とりあえず俺たちは、あんたらの保護下に入り、安全な場所へ移動する。そこから先は、エリカと手を組んでイグナーツを抑えられるかどうか考えたい。」
レオンが落ち着いた声で承諾を口にする。カトリーヌは満足げに頷く。「ええ、それで十分。しばらくはローゼンタールの拠点で身を守ってちょうだい。オーメルの動向が落ち着けば、再度エリカと会合しましょう。」
「ありがとうございます。」
オフェリアが短く礼を言う。いくら利害があるとはいえ、いま救いの手を差し伸べてくれる存在は他にいないに等しい。彼女は警戒を解かずとも、ここでローゼンタールの護衛を利用するのが最善策だと判断した。
車両の窓から見える風景が、いくらか平穏になってきた。隊列の中心にいる彼らは、周囲を守る複数の装甲車や小型ネクストらしき車載ACユニットに囲まれ、まるで安全地帯を移動しているかのようだ。オーメルの追跡部隊はドラゴンベインやアポカリプス・ナイトといった大兵力を動かしているが、ここまで大胆に動きづらい状況になったのはローゼンタール側も相応の準備をしている証拠だ。
オフェリアはハッと気づき、「そうだ……」と声を上げる。「このままローゼンタールの拠点に行けば、わたしとレオンの存在を企業全体へ誇示する形になるのかしら。それって大丈夫なの?」
「あなたたちを直接見せびらかすつもりはないけれど、いざというとき“ローゼンタールが保護している”事実を切り札にできるわ。エリカとも話をつければ、イグナーツに対抗する有力なカードになる。少なくとも、裏切り者として処分される心配はないはず。」
カトリーヌが指先で端末を操作しながら答える。どうやら通信網を使って何かの準備を指示しているらしい。兵士が彼女に報告し、どこか別のルートを使うよう提案している声が聞こえる。オーメル部隊との交錯を避けるための措置だろう。
窓外には、遠くに錆びた鉄塔のようなものが見え始めた。かつてのアルテリア施設のひとつかもしれないが、ローゼンタールの拠点へはあれを迂回する形で向かうようだ。赤茶けた大地をふらつく装甲車列は、やがて無人の廃港湾区へ通じるルートを選ぶ。
レオンは深いため息をついて天井を仰ぐ。「なんだか、あっけないな。これまでオーメルに追われ続けて苦労してきたのに、ローゼンタールが来たら割とすんなり保護される形に……。」
「うかうかしていられないけどね。いずれまたイグナーツが行動を起こすでしょうし、ローゼンタール内部だって皆が味方なわけじゃない。……あなたにも気まずい顔を向ける幹部がいるかもしれないわ。」
オフェリアが静かに指摘する。レオンは苦い顔のまま肩をすくめる。「だな……まあ、ともかく俺たち二人だけじゃどうにもならなかった。少なくとも少しは休めそうだ。」
その言葉を聞いたカトリーヌがちらりとレオンを見やり、口角を上げる。「あなたが心から休められるかは分からないわ。私たちは“保護”する一方で、あなたの技術や知識も欲しいから。」
「……やっぱりか。」
「ええ、隠すつもりはない。あなたは単なるAMS適性の高いリンクスじゃない。技術者としても才能を持っている。ローゼンタールにとっては、あなたを味方につける意義は大きいのよ。」
さらりと言い放つカトリーヌの目は、かつてローゼンタールの貴族企業としてエリートの地位にいたときと同じ強い意志を秘めている。そこに情もあるが、企業家としての打算も決して消えていない。それが彼女の本性だ。
レオンは複雑な思いで目を伏せつつ、すぐに口を開く。「まあ、今さら隠しても仕方ないな。……でも、お前もロクに俺に会おうともせず、エリカを遠ざけたよな。」
「それはあなたが望んだ自由を尊重したから。わたしだって好きでエリカを遠ざけたわけじゃない。それが当時、ローゼンタールを守るのに必要だったからよ。……ごめんなさいね。今でもそう思ってる。」
カトリーヌは最後の言葉だけは少し寂しげに口にする。オフェリアは二人の空気を感じ取り、胸の奥がぎゅっと掴まれるような感覚を覚える。レオンとカトリーヌはかつて家族だった。しかし企業の制度と利害が、それを壊してしまったのだ。
車両がゆっくりと揺れ、隊列の先頭に続いて右折をする感触が伝わってくる。兵士からカトリーヌへ「予定ルートへ入りました。目標地点まであと二十キロほど」と報告が入る。彼女は小さく頷き、「続けて」と指示を返す。
「あと少しで安全地帯に到着するわ。そこはローゼンタールの前線拠点みたいなものだけど、オーメルも迂闊に手が出せない場所。ラインアークとも近いから、もし交渉が必要になれば利用できるわよ。」
レオンはカトリーヌの説明を聞きながら、苦笑する。「随分と用意周到じゃないか。全部エリカから話を聞いたのか?」
「半分はエリカ、半分はわたしの独断。イグナーツが暗躍しているのはローゼンタール内でも把握してるの。いずれオーメルが全てを呑み込むなら、わたしたちは手を打たなきゃならない。」
「手を打つ方法……それが俺とオフェリアの保護か。」
「それだけじゃないわ。いずれ、あなたを中心に何か大きな動きが起こるかもしれない。家族としての絆を回復して、企業全体に新しい道を示すのかもしれないし、最悪の場合は戦うことになるのかもしれない。……私はそのどちらでもいいの。ローゼンタールが生き延びられるならね。」
カトリーヌの言葉に、オフェリアは僅かに目を細める。彼女のなかには確かに情と理が混在している。家族を想う気持ちが嘘ではないと感じられるが、同時にそれを利用する強かな面も見える。だが、それが“企業の貴族”としての当たり前の姿なのかもしれない。
「わたしは、あなたがわたしたちを利用するのも仕方ないと思う。ただ……あなたが本気でエリカを守りたい気持ちがあるなら、わたしたちも協力したいわ。」
オフェリアが言うと、カトリーヌは一瞬だけ目を見開き、やがて微笑む。「ありがとう。エリカを守りたいのは本心よ。あの子はローゼンタールにとっても大切な存在だし、わたしの……娘でもあるもの。」
ほのかな温かみが、車内の微かな振動とともに揺れ動く。レオンとオフェリア、それにカトリーヌ。三人それぞれに背景があり、互いにわずかなわだかまりや疑念を抱きつつも、ひとまずは同じ車両に乗って共に移動しているという現実がある。かつて考えられなかった不可思議な“再会”と言ってもいいだろう。
日が完全に沈む頃、隊列はやがて巨大なサイロのような施設が立ち並ぶエリアに入り込む。老朽化した倉庫やパイプラインが延々と続き、遠目には廃棄されたインフラに見えるが、実はローゼンタールが改修している秘密の前線拠点のようだ。兵士たちがゲートを開き、装甲車列を続々と中へ誘導する。
車両から降りると、重い金属の扉が閉じられ、外の世界から遮断される。足下にはコンクリートの固い床が広がり、大型のモニターや発電装置が設置されている広い室内。まるで地下要塞かのように頑丈な構造だ。
オフェリアとレオンが顔を見合わせる。兵士の一人が軽い敬礼をしながら言った。
「ここが暫定的に安全な場所です。外はオーメルの巡回があるかもしれませんが、ローゼンタールの旗の下では強行侵入はできないでしょう。どうぞ、しばらくはこちらで休息してください。」
「助かるよ……。身体も限界だったから……。」
レオンが呟くように感謝の意を伝える。オフェリアはなお周囲を警戒しながらも、こちらに向けられる視線が敵意のないものだと感じ取り、少し安堵した。
そこへカトリーヌが上品に歩み寄り、長い髪をかき上げるように整えながら、わずかに微笑んでみせる。
「さあ、あなたたちには部屋を用意してる。できる範囲での治療設備もあるわ。それと、今後の方針を話し合うには、休養が必要でしょう。……まぁ、昔はあなたの世話をするのが私の日課だったけどね。」
「カトリーヌ……」
レオンが言葉を詰まらせると、彼女はそれ以上何も言わずに小さく首を振る。「思い出話は今度にしましょう。まずは安全を確保して、あなたが安定してからでも遅くないわ。」
二人の関係に込み上げる複雑さを、オフェリアもそっと察した。人間同士のかつての愛情があり、それが企業の都合で壊れ、子どもであるエリカを遠ざけてきた――何という苦い歴史だろう。それでも、ローゼンタールの貴族として冷たさを装いつつ、カトリーヌは今こうして助けてくれている。
オフェリアはレオンを支えつつ、カトリーヌの後に続いて通路を歩く。床には薄暗い照明が埋め込まれ、所々に監視カメラのレンズが光っている。乾燥した空気の中、時折機械が稼働する低い振動が伝わってきた。
やがて到着した居室は思ったより広く、簡易ベッドやソファ、シャワールームなど最低限の生活設備が整っていた。倉庫然とした外観からは想像できない快適さだ。カトリーヌが振り向き、兵士に向けて合図をする。
「当分はここを使って構わないわ。必要があれば備品も揃える。オフェリアさん、あなたのメンテナンスに必要な機材も用意できるはず。何かあれば遠慮なく言ってちょうだい。」
「ありがとうございます。助かります。」
オフェリアは短く頭を下げる。レオンも疲れを隠せずソファへ腰を下ろし、大きく息をつく。「……ああ……本当に助かるよ。迷惑ばかりかけて悪いな。」
カトリーヌは少し視線を落とし、「迷惑と言えば、そうね。でも助けたいと思ってるの。あなたがいないと、わたしも、エリカも、前に進めないから」と答える。その最後の言葉にはほんの微かな震えが混じっていた。
しばし静寂が訪れる。兵士たちは一礼して部屋の外へ退き、ドアが閉じると、部屋にはレオン、オフェリア、そしてカトリーヌだけが残る形になった。薄暗い照明が三人の影を壁に映し出し、どこか幻想的に見える。
オフェリアが気を利かせて、一歩後ろに下がるようにして立つ。ここは二人が言葉を交わすべき場だという空気を感じ取った。
「……レオン。」
カトリーヌはふっと微笑むが、その瞳にはいろいろな想いが宿っている。「あなたが地上でこんなにも苦労していたと、実はエリカから聞いて驚いたわ。でも、不思議ね。あなたは昔から、常に自分の道を貫いてきたんだもの。」
「貫いた? 俺はただ、企業に束縛されるのが嫌で逃げただけさ。そのせいでお前やエリカを巻き込んだ。むしろ悪かったと思ってる。」
自嘲混じりに呟くレオンに、カトリーヌは首を振る。「責任はどちらにせよ私にもあったの。ローゼンタールの再興を優先するあまり、あなたとの繋がりを軽んじた。エリカをあなたから遠ざけたのは、私が決めたことでもあるし……。」
その言葉に、しばしの沈黙が訪れる。二人の間に流れるものは、長い年月を隔てた苦い過去と、残された未練。そして、いまは偶然にも助け合う立場となり、未来を見据えなければならない。
「……俺たち、やり直せるのか?」
レオンが吐き出すように問いかける。カトリーヌは微笑むが、その微笑みは悲しげだ。「わからないわ。でも、いまはあなたを手放すわけにいかないの。エリカとあなた、そしてオフェリアが揃えば、世界を変えられるかもしれないもの。」
「世界を……。」
「そう、大げさかもしれないけど、イグナーツの計画を阻止して、ローゼンタールを一度復活させるためには大きな力が必要。その力の中心になれるのが、あなたとエリカなんじゃないかと思うの。」
彼女の視線が横に立っているオフェリアへ向けられ、少しだけ柔らかい表情になる。「あなたにも感謝してるわ、オフェリア。レオンを守ってくれて。そしてエリカにもいい影響を与えてくれた。」
オフェリアは深く頭を下げる。「わたしも、あなたを完全には信用してないけど、ありがとう。レオンが生きているうちは、わたしも心を尽くすわ。」
カトリーヌは満足げに微笑み、「それでいいわ。信用なんて、これから一緒に成し遂げることで少しずつ築けばいいのよ。」と言い残し、スタスタとドアへ向かう。去り際にレオンへ振り返り、「少し休んだら私の部屋に来て。あなたと改めて話したいから」と小声で告げた。
レオンは肩をすくめ、「ああ……」とだけ答える。ドアが閉まると部屋はひときわ静寂に包まれ、三人いたはずの空間が急に広くなったように感じられた。
「……どう思う?」
レオンが途方に暮れたような声でオフェリアに尋ねる。オフェリアは考え込むように数秒黙り、やがて率直な言葉を選ぶ。
「正直、あの人はあなたを大切に思っているし、エリカのことも本気で心配している。でも、それを貴族としての打算と同時に進めているようにも見えるわ。つまり、わたしたちを利用する意図は濃厚。」
「だよな……。だが、利用されるばかりじゃなく、俺も家族のことを取り戻したい。企業に振り回されるのはもうたくさんだ。エリカも、あの子もきっと望んでるはずだ……家族の再会を。」
レオンは手の甲で顔を覆うようにしばし天井を見上げる。オフェリアはそんな彼を見つめつつ、小さく微笑む。いまや彼らにはカトリーヌとローゼンタールの協力が不可欠だし、エリカとも連絡を取り合いながらイグナーツと対決しなければならない。そのためには多少の打算や利用は受け入れざるを得ないということだ。
「じゃあ、わたしたちは“利用される”覚悟で恩恵を受ける……というか。“脱出”が完了した今、次は“再会”を形にするための準備ってところかしら。」
オフェリアがそうまとめると、レオンは苦笑しながら枕を掴み、ソファに身を沈める。「まあ、俺はとりあえず少し体を休めたいよ……カトリーヌの部屋に行く前に、頭を整理しないとな。」
「うん。あなたはちゃんと休んで、無理しないで。わたしもメンテナンスしてくるわ。自分の身体が壊れちゃったら守れないから。」
そうして二人は廃れた企業研究所とは段違いの快適な居住空間で、ひとときの安息を取ることにする。カトリーヌの意図が何であれ、今はこの救援が得られるのは大きい。オフェリアは部屋の端末をざっとチェックし、明らかに監視されている気配を察しながらも、巧妙にハッキング防御をしてプライバシーを保つ施策を取り始める。
(これからが本当の正念場かもしれない。カトリーヌがいる以上、エリカとも本格的な交渉が進むだろうし、イグナーツの追撃も激化する可能性が高い……。)
その思考を振り払うように、オフェリアは深呼吸のような動作をする。人型AIでありながら、疲労感を抱えたままでは動きが鈍る。彼女も自分なりに“休む”必要があるのだ。
ガラスの窓辺に立ち、外を見やると、ローゼンタールの兵士が警備する様子が映る。数台の装甲車と数十人の兵士が配置され、上空にはドローンが巡回している。まるで要塞のような厳重な陣形だ。おかげで当面、イグナーツが強行突入することはないだろう。
「レオン、ゆっくり休んで。わたしもメンテ後に戻ってくるわ。」
「ありがとう、オフェリア……。お前は本当にずっと助けてくれるんだな。」
「……家族だもの。」
その短いやり取りに、二人の関係性が凝縮されていた。かつてはただのリンクスと補助AIという間柄だったはずが、今や信頼で結ばれ、人間以上の絆を持つ存在となりつつある。
こうして、ローゼンタールの救援によって強制的な脱出が完了し、レオンとオフェリアは新たなステージへと足を踏み入れた。カトリーヌとの再会は心をかき乱すが、エリカの意志を汲みながらイグナーツに立ち向かうため、ここでしばしの準備を整えなければならない。
一方で“再会”と言う言葉が示すのは、単にレオンとカトリーヌだけではない。エリカを交えた家族の復縁、そしてオフェリアを含めた不思議な家族形態の可能性までが示唆されている。意志の共鳴はこれから激しく動き出し、それとともに戦火もさらに拡大していくのだろう。
廃ビルの亡霊のように彷徨っていた二人が、いまローゼンタールの要塞で一時的な避難を許された。それは“脱出と再会”と呼ぶには不完全なものの、確かな転機と言えた。夕陽はすっかり沈みかけ、窓越しにオレンジの光が残り火のように揺らめく。彼らの心に巣食っていた孤独は、徐々に解消されていく兆しを見せていた。
そしてその先にあるのは、企業の枠組みをも揺るがす大きな波乱。カトリーヌとの再会が引き起こす化学反応は、エリカとレオン、さらにオフェリアをも巻き込みながら、新しい世界を切り開いていく――そう予感させる熱量が、今の静かな時間に潜んでいた。