見出し画像

夏の日,山の茶屋にて

昨年以上の猛暑となり,危険な暑さといわれた都会を逃れてここまできたのだが,アスファルトの道はやはり融けそうなほどに熱せられている。

バスを降りて数分。
暖簾をくぐると,その灼熱から解放された。
籐の椅子にするか,座卓にするかを訊かれ,籐の椅子と答える。
畳を踏んで窓際に案内されると,意外なことに窓は一面開け放たれていた。
窓の下には清流が流れ,目に映るのは山の緑。
それだけで温度がこんなにも違うのだ。
軒下には硝子の風鈴がしつらえられ,わずかな風に時折音を立てる。

画像1

卓上に FreeWifi の文字を見つけ,ノートパソコンを取り出す。
メールをチェックし,SNSをチェックし,note にアクセスする。
未読のnoteがいくつもあるが,タイトルに続く数文字を眺めただけでスクロール。都会を逃れてきたのは暑さのためだけではなかった。
あの喧騒,時の流れ,人との会話。
そのままそこにつながっているかのような SNS や note を今読むことはあるまい。
原稿の続きもあとにしよう。
ぱたりとノートを閉じる。

注文した茶と菓子がきた。
添えられたクロモジで,六分の一ほどを切り取って口に運ぶ。
甘味をおさえた餡と,なめらかな葛。
その透明感はスーパーで買うものとは違っていた。
「吉野ですか」と訊く。
「そうです。よくおわかりですね」
和服の若い娘が清々しい笑顔で答えた。

食べ終わってノートを開き,原稿の続きを書く。
先ほどの娘が器を下げに来た。
ノートの画面を覗いたのだろうか,
「作家さんですか」と訊いた。
「いえ,フリーのライターです」
「葛にはお詳しいのですか」
「いえ」
「先ほど,吉野かと訊かれたので。いままで他のお客様から訊かれたことはなくて」
「思いついただけですよ。きれいな葛だったので」
「吉野には行かれたことはあるのですか」
「何度も行っています。あなたは?」
「いえ,行ったことがないのです」
「ここの方ですか」
「娘です。夏休みなのでお手伝いしています」
「学生さんですか。和服がよく似合いますね」
「ありがとうございます」
「和服がお好きなのですか」
「はい,普段は洋服なのですが,お手伝いするときは和服がいいかと。お菓子が和菓子ですので」
洋装にしたら現代的な若い子になるんだろうか。
金峯山寺の参道を歩く姿を想像した。洋装,和装,どちらでも似合いそうだ。
「よろしかったら,吉野を案内しますよ」
「ありがとうございます」
YesでもNoでもない,先ほどと同じ清々しい笑顔だけが返ってきた。



============================

猫野サラさんの夏の水彩イラスト追加3つから。風鈴もサラさんのイラストです。

 旅の記事をいくつか(かなり?)書いていますが,こんどの山の茶屋は,全部がフィクション。モデルもなしです。

 初稿は「和服の若い娘が清々しい笑顔で答えた。」まででした。(そこで下書き保存)
それからどうなるの? で止めておくかどうか。
少し書き足し始めたら(「フリーのライターです」まで),あとは登場人物が語りはじめました。
 ここが気に入って,宿が近くにあるかどうかをきくと,ここでも泊まれますよ,という構想が後半の書きはじめにはちょっとあったのですが,それはすっかり消えうせました。不思議なものです。
 さて,吉野に誘ったあと,どうなるのか。想像にお任せします。