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君に届け。無伴奏チェロ組曲

 気息を整え,舞台袖からチェロを抱えてステージの中央にひとつだけ置かれた椅子に進む。客席に向かって,私は一言お願いをした。

「卒業演奏の曲はバッハの一番です。急なお願いで申し訳ないのですが,その前にアリアを無伴奏で6小節だけ弾かせてください。」

 私が何を弾きたいか,クラスメートはもちろん,教授たちも瞬時に理解したようだ。客席から音が消えた。
 ヴァイオリンより1オクターブ下で,控えめなヴィブラートのF#音が静かに響きだした。

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 私が未結と出会ったのは,4月になって初めて大学に行くバスの中だった。駅前から2つ目の停留所で乗ったバスにはすでにかなりの人が乗っていた。空き席を探していると,「ごめんなさい,チェロの方,こちら空けます」という声が後ろから聞こえた。座席に立て掛けてあったヴァイオリンケースをひざの上に移す女性がいた。
 空けてくれた座席に腰かけ,チェロを脇の通路に置く。
「ありがとうございます」
 大学に着くまで交わした会話はそれだけ。

 先にバスを降り,キャンパスの坂道を上がっていく。ふと振り返ると,ヴァイオリンの女性が同じように坂を上がってくる。追いつくのを待って一緒に歩きながら聞いた。
「音楽科ですか」
「はい,新入生です」
「あ,僕も新入生です。たけちゆうせいといいます。よろしく」
「たけちさん?」
「高いに,市場の市でたけち,ゆうせいは野球の菊池雄星と同じゆうせいです」
「私はくにもとみゆ。くには旧字の國で,もとはほん,未来のみに,結ぶでみゆです」
未結は空に指で文字を書きながら説明した。
「そうですか,いい名前ですね。先ほどは席をありがとうございました」
「混んできたのに荷物を座席に置いてはいけませんよね」
「でもヴァイオリン抱えて窮屈だったでしょう」
「いえ,好きなヴァイオリンをだっこしてるんですから」
「そうかあ,チェロは座席ではだっこできないなあ」
未結は「そうですね」とメゾソプラノで笑うように言った。

 レッスンは異なるが,いくつかの講義では一緒になる。サークル活動のオーケストラでも一緒だった。とはいえ,2回生までは特に親しいわけではなく,クラスメートのひとり,という感じだった。
 それが変わったのは3回生。アンサンブルのレッスンが始まってからだ。アンサンブルの相手は誰でもよいが,曲目は課題曲のいくつかから選ぶ。複数のアンサンブルを掛け持ちしてもよい。どちらかで合格すれば単位がもらえる。とはいえ,掛け持ちする人はそんなにはいない。私は,モーツァルトの弦楽四重奏と,もうひとつ,未結とピアノの鵜野さんの三人で,ベートーベンのピアノ三重奏曲第7番を選ぶことにした。

 レッスンは厳しかった。「大公」と呼ばれるこの曲は,ピアノが主体で,ヴァイオリンとチェロが一体となってピアノと対峙していく構図になっている。ピアノにはソリスティックな表現が求められ,ヴァイオリンとチョロにはリズム・表現のあらゆる点で一体感が求められた。レッスンでもそれを幾度となく指摘された。
 しかし,それだけに,練習は楽しかった。モーツァルトではチェロはベースの役割だが,大公ではヴァイオリンと対等になる。ヴァイオリンとチェロがいかに息を合わせ,バランスをとるかがカギなのだ。三人で練習する以外に,未結と二人で練習することが多くなった。お互いの呼び名が,「國本さん」「高市君」から「未結さん」「ユウ君」に変わった。

 夏。オーケストラの合宿が信州松原湖で行われた。日中はパート練習と合奏。夜はフリータイムだ。

「未結さん,暗譜できた?」
「第一楽章だけならね」
「じゃあ,外で練習しよう。暗譜したつもりだけど,一応楽譜持ってく」

 松原湖は夏でも涼しい。星空のもとでの練習もいいだろう。ふたりは長湖の東にあるヤルヴィホールの玄関先で練習することにした。民宿から歩いても10分ほど。ホールは借りられないので外だ。玄関には灯がついており,扉と屋根が反響板の代わりになる。椅子は大変だけど持参。
 第一楽章をひと通り通した後,手直しをしながらもう一度最後まで行って,広場のベンチで休憩。空がよく晴れている。

「星がきれいだねえ」
「あ,あれ,彗星じゃない」
「ほんとだ,そういえば,何とかって名前の彗星が来てるって言ってた」
「ゆうせい?」
「ははは,違うよ。ジャコビニだったかな」
「あの彗星,長い尾がやわらかそう。つかまったらどっか遠くへ行けるかなあ」
「そうだね,でも彗星だから,また戻ってくるよ」

「こうしてると,恋人どうしみたいだね」
「あら,いけない?」
未結は楽しそうに笑った。
「未結さん,くにはどこだっけ」
「くに?」
ちりばめられた星を見ながら続ける。
「えーと,出身地。実家のあるとこ」
「実家・・・・ ないの」
「え?」
未結の顔を見る。未結は空を見上げたままだ。
「私,なぜだか知らないけど,孤児だったらしくて。今の親に引き取ってもらって。あとから聞いたんだけど。だから,そこが実家でもいいんだけど,本当の親がどこかにいるかと思うと,なんだかそんな気がしなくて」
「ごめん」
星空に目を戻す。
「いいの,もう慣れたから。本名だって知らないし。でも,今の父が,未来に結ぶって名前をつけてくれたの。いいでしょ。」
未来に結ぶ。
その未来を守ってあげたい。口には出せなかったけど,彗星を見ながらそう思った。

「じゃ第二楽章いこうか」
「え,覚えてるの?」
「楽譜持ってきたわよ。玄関,明るいから見えるし」

星空の下での二人きりの練習。いつまでも続けていたかった。

 4回生になると,卒業曲の候補を2曲決めてレッスンに入る。後半になるとどちらか1本に絞って卒業曲とする。卒業コンサートは3日間。ソロが2日間で,3日目は,レッスンの成績によって教授が推薦したアンサンブルのグループが出演する。それに私たちの「大公」が推薦された。卒業コンサートは2月。11月になると,レッスンの合間を縫って三人でさらに磨きをかけることにした。
 ところが,12月の中旬になって,未結が大変なことを言い出した。
「卒業コンサート,間に合わないかもしれない」
「え? できてるのを磨くだけでしょ」
「そうじゃなくて,わたしの手が」
「え?」
「最近貧血気味だなあと思って,診察してもらったら,急性白血病かもしれないって」

スッと血の気が引く。

「だいじょうぶ,今なら治るっていうんだけど,今度精密に検査して,本当にそうだったら,治療に入って,当分ヴァイオリンは弾けないって。ごめんね」

 翌々週,精密検査の結果が出た。やはり急性白血病。私はそれを見越して,ある用意をしておいた。

「未結さん,今のうちに録音しよう。大学のホール借りて。鵜野さんもやろうって言ってくれた」
「録音?」
「卒業コンサートで弾けないなら今のうちに」
「そうね,卒業コンサートでそれを流すわけにも行かないでしょうけど,せっかく練習したんだから」

 録音の日は1月8日と決まった。大学のホールは,空いていて,聴衆を入れないなら学生がわずかな使用料で使うことができる。録音も同期の友人に頼んだ。
 聴衆がいない分,客席の反響の具合が違うが,そんなことは言っていられない。録音とはいえ,やり直しはしない。ライブとして,一発勝負の気構えだ。
 未結の体調にはすでに変化が現れていた。終楽章まで持つだろうか。

 1月8日がきた。
 借り切った大学のホール。本番同様,私は黒,未結は赤,鵜野さんは水色のステージ衣装。客席が暗くなり,ステージが本番用の照明に変わる。袖から三人でステージに進み,客席に向かって礼をする。
 第1楽章。ピアノがソロでテーマを弾きはじめる。そのあとチェロとヴァイオリンが合流して,ヴァイオリンにテーマが移る。

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 楽章の合間,未結に少しずつ疲れが見えはじめた。しかし音楽が始まると疲れを感じさせない生き生きとした音が出てくる。細かいパッセージも完璧にこなす。精神の集中が体力を上回るのだ。
 ヴァイオリンとチェロが右手と左手になってピアノの両手としのぎを削る。終楽章の最後の和音はフォルテシモ。ダウンボウの弓が弧を描いて宙に静止する。
 客席から無音の拍手が聞こえた。
 椅子から立とうとした未結のバランスが崩れた。鵜野さんが駆け寄る。
「ありがとう,大丈夫だから」
蒼白だった顔に赤みがさしてきた。

 卒業コンサートを前に,病室に未結を見舞った。
「やっぱり間に合わなかったね。ごめんね」
「大丈夫だよ。治ったらまた何度でも機会があるから」
「でもふたりとも卒業しちゃうね。わたしも元気になれば卒業できそうだし」
「未結さんは当面仕事は無理だねえ」
「ねえ,ユウ君も星だよね」
「うん,雄星だもんね」
「そしたら,つかまってっていい?」
「どっかいっちゃうかもよ」
「だって,また戻ってくるんでしょ。というか,病気が治ったら,あなたのところに戻りたい」
「うん,きっと治るよ。」
「ユウ君のバッハ,聞きたかったな」

 窓の外に粉雪が舞った。


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 祈りを込めたアリアの6小節。未結に届け。
 終止形にアレンジした6小節目が終わる。静寂の客席。ほとんど間をあけずに,無伴奏組曲第一番のプレリュードに続ける。すべてを暗譜している。目を閉じてバッハの世界に没入する。
 プレリュード最後の重音のフェルマータが消えると,客席から少し咳払いが聞こえた。
 アルマンド,クーラントに続き,ゆったりしたサラバンドで,不意にヤルヴィホールでの練習と星空が浮かんだ。未結を守っていこうと誓ったあの彗星に捧げるサラバンド。
 メヌエットからジーグへ。最後の小節,分散和音を駆け降り,G音が四分音符で響いた。
 未結に聞こえただろうか。

 拍手を受け,立ち上がって挨拶をしようとしたとき,思いがけず客席のあかりがあがった。前方の聴衆が何かを察して後ろを振り返る。視線が一ヶ所に集まる。

 いつのまに来ていたのか,鵜野さんが手を添える車椅子に,拍手する未結がいた。


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フィクションですが,ヤルヴィホールは実在します。

クラシック音楽に疎い方は,ヤルヴィホールがどんなところかご覧になり,大公の冒頭, 無伴奏チェロ組曲の最後あたりを聞いて,もう一度読んでいただけると情景がより鮮明になるかと思います。
無伴奏チェロ組曲第一番は,たとえばロストロポーヴィッチのもので,プレリュードの末尾が1分55秒のあたり,サラバンドが7分54秒あたりです。


嶋津さんの Night Songs コンテスト*Muse* に応募しました。

構想のもとは,広沢タダシさんの『彗星の尾っぽにつかまって』