うつ病は完治できるのか~人生と愛情の体験談ーパワハラ克服編

この記事は、前記事の続き。


うつ病を自力で克服できた僕が、


どんな体験をして、どんなことを考え、


どこからどんなことを学び取ったのかを、


同じように悩む身近な人に向けて書いていく、といったものだ。



基本的にN=1の話であり、「※あくまで個人の感想です」なのだが、


スピリチュアルや自己啓発、疑似科学にできるだけ傾かないような本から


色んな事を吸収してきたつもりなので、何かしら役に立つんじゃないかと思っている。


誰かの役に立てたらうれしい。


逃げても逃げてもパワハラ


みなさんは、人生何度かの転職の中で、


どこの会社に行ってもパワハラ上司にぶち当たった経験はあるだろうか。




僕はある。



前職では、うつ病と適応障害の診断書を持って行って「会社休みたいです」


と言ったら、「こんなもんお前の心が弱いだけじゃ、いいからはよ営業いってこい」と診断書を破られてしまい、


もう理不尽なパワハラはごめんだ!と逃げた先に待っていたのはゴリゴリのパワハラ系上司であった。(ちなみに見た目もゴリラみたいだった)


序列でしか人間関係を築けず、


大声を出す、人格を否定する、マウントを取るのは日常茶飯事、


挙句ヘルメットの上からハンマーで殴られたりと、


戦後の日本なら大活躍できそうなタイプに、またしてもぶち当たってしまった。


僕は思った。


「どうせパワハラする人、嫌な人ともうまくやっていかなければいけなくなるのが避けられないなら、自分の認識を変えることで克服できないか、、、?」



まず考えたこと


うつ病になったときのことを振り返ると、僕はいい人だった。


いやいまでも頑張っていい人であろうとはしているんだが、


つまり従順であった。


誰かに何かを言われると、それがどんなに極端な主張であったとしても、


「もしかしたらそういう側面もあるかもしれないな」

「あの人から見たら僕はそのように見えているのかもしれないな」


という風に、すべてを柔らかく受け止めていた。


間違っても反発などしなかった。


色々な本を読んで、ここに落とし穴があるのではないか、と考えるようになった。



まずやったこと


『レジリエンスの教科書』や、『嫌われる勇気』なんかを読み返していて、



「その指摘は本当に俺の抱えている問題だろうか?」


ということを意識するようになった。


アドラー的な言い方をすると、


「その命題は俺の課題か?」


を問う、ということになる。


例えばこんなシチュエーションがあったとする




「お前は朝からそんなもん食って、やせる気ねぇべや、デブがよー」


あなたが朝おにぎりを食べていると、上司からそんなことを言われた。


そして大変嫌な気持ちになり、



「別にいいじゃないですか」


とバツがわるそうに上司の目を見ずぼやく。。。







この時、まず二つのことを考える。



つまり、「僕」のことを、「やせる気がないデブ」だと思っているのは、


上司の認識の問題(上司の課題)なのか、僕の改善すべき課題なのか、ということだ。


こういう時、基本的にほぼすべての嫌味や罵倒、いじりなんかは「上司の認識の問題」である。


誤解しないようにしたいのは、僕がたとえ今すぐやせないと3日後には死ぬ、みたいな状況だったとしても、


「嫌な気持ちになる」時点でそれは「嫌な気持ちにさせた」上司の問題であって、僕の課題じゃないんだ、ということだ。


なぜかと言えば、デブを改善すること、朝からおにぎり2つとからあげくんのレッドを食べないことが僕の真の課題であったとき、


それを言われても嫌な気持ちにはならないからだ。


これは、仕事のミスを直接指摘されて、次から間違えないように気を付けていこう、とか、間違えながら学んでいけばいいよ、と言われたときにいやな気持ちにならないのと一緒で、


すでに指摘を自分の課題として胸の内にとどめているとき、心には強いバリアが発生するので気にならない。


嫌な気になったり、家に帰って言われたことを反芻してしまう時点で、それは言ったやつの言い方だったりなんだりが問題なんだ、ということを、


頭の中できっちり仕分けることで、自分の心が抱え込む領域をぐっと軽くする、というようなことを意識していたと思う。



難しい話でごめん。



さらに続く。


パワハラに隠れた意図を感じ取る


パワハラをする人の気持ちを考えたことがあるだろうか?


僕はある。


基本的に人を見下す姿勢というのは取るべきではないと思うし、


パワハラを擁護する気は更々ないのだが、


どうしてパワハラをしてしまうのか、ということを考えると、


「そのような愛情表現で育ったから」

「歪んだ愛着のまま育ってしまったから」


のどちらかであることが本当に多い。


つまり、彼らとしては一生懸命愛情を伝えているつもりで、


純粋な気持ちで相手に親切にしてあげているのに、


でも僕たちから見たら猛烈にパワハラしている、


という構造なのだ。


パワハラをまるっと受け入れてしまうと彼らの増長は止まらないため、


どうしても避けられない時は、「あの人はそういう愛情表現になっちゃう人だから」という理解のフィルターをかけてあげることで、


パワハラで見えなくなってしまった彼の「伝えたい意図」の部分をうまくくみ取って、そこに対して返事をしてあげられるようになる。


僕はこれをやってみようと思ってからだいたい2,3か月くらいで劇的に対応力が身についた。


嫌なら逃げる


パワハラのメッセージを直接受け止めないということ、


パワハラしてくる人の愛情の形をくみ取って、意図を受け止めるという訓練をある程度していくと、


パワハラ上司とうまい距離感を保ちつつ、でも完全に懐には入らないよ、


というちょうどいい距離を保つことができるようになった。


訓練し始めてから大体半年くらい経ってのことだったと思う。


そのころになると向こうもある程度察していて、


こちらがうまくパワハラをいなすものだから、


パワハラしずらい相手として認識されているようで、


同時期に後輩がどっと入ってきたことも重なって、そのあとは


ハラスメントを受けなくなっていった。


とはいえ、僕としては、


パワハラする人を放置したり、彼らに恭順してしまうと、


組織の一員として、パワハラする存在を認めているという意思表示に


なりかねないという気持もあって、


パワハラされて嫌な思いをしているならさっさと離れるのが吉だと思っている。


やっぱり、人間的に尊重のない組織というのは僕は碌なもんじゃないと思うし、


資本主義や、経営者の崇高な理念みたいなものに騙されてはいけないと思う。


だから、嫌なら逃げることは、僕は全力でお勧めする。




チーターに襲われて全力で逃げたガゼルを


臆病者だと笑う者はいない。


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