「世界の終り」側の住民として
卒業論文が終わりました。
前回も書いたように、わたしは村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で卒業論文を執筆していました。執筆に際しては色々な文献を読みあさり、何回も原文に立ち返って、、などとにかく読書量が異常だったことを覚えています。
死ぬほど色々と読んだという思い出補正?なのか、わたし自身かなり作品や作品世界に対しての思い入れが強くなってきたなということに最近気がつきました。とはいえ卒業論文は学術的、自分のお気持ちを書くことはできません。
ということで本記事では、卒業論文に書けなかった個人的な思い入れを書いていきたいと思います。
まず、本作は「ハードボイルド・ワンダーランド」(以下「HW」)と「世界の終り」(以下「EW」)というふたつの世界に分けられています。HWは科学的モチーフがたくさんある近未来的な現実世界、EWは中世ヨーロッパ的な幻想的、テーマパーク的な世界です。HWの主人公「私」が脳内で作り出した世界がEWとなっています。EWの主人公は「僕」ですが、ふたりはいちおう同一人物です(なんですがHW→EWへの移行の際に「僕」に「私」の記憶は引き継がれず、当然ながらEWの街の基本情報も「僕」は理解していません。自分で作ったのに)。
基本情報はwikipediaなどを見ていただいたほうがはやいかもしれません。
このふたつの世界ですが、どちらも分析してみて圧倒的に楽しかったのはEWのほうです。EWは平和な世界です。HWのように都合の悪い人間を暴力で押さえ込むこともないし、科学神話に取り憑かれた人間もいない。性欲とかに代表される恋愛感情もそもそもありません。なぜなら街の住民は心を失っているから。「心配」はしますし「僕」に対して善意で助言をしてくれたりもしますが、それ以上のことはしないんですね。言うなれば言葉を額面とおりにしか受け取れないわけです。
とまあ、分析しだしたらキリがないのですが、わたしはEW側の人間だなと思いました。EWの街のなかにいる、「僕」じゃなくて普通に、なんの疑問も抱かずに平和を享受している一般住民。
わたしの周りの現状って、すごい平和なんですよ。
ふわふわ生きていてもそこまで責められることもなく、周囲の人間は優しいし頼りになるから頼り切ってしまえばわたしは安全だし、恋愛とかいう概念も諦めたから心乱れることもないし。
周囲の人間という「壁」に守られているおかげで恐らく今のわたしの世界の安全が保障されているのでしょう。
加えて、EWは心や影を否定することで完璧な街ができています。
弱いものに割を食わせることによって街の平和は成立しているというわけです。
わたしは今でこそメイクをばちばちにして服装も研究して所謂おしゃれな人の類型に入れていますが、昔(それこそ大学1、2年頃)のビジュアルはかなり雰囲気が変わっており、それでまあまあ嫌な思いをしました。別に普通にかわいかったのでブスいじりはされてないんですが、如何せん量産型、男ウケの方向性のビジュアルをしていたのでまあ恋愛方面で色々あったわけです。それがほんとうに嫌になって、大学3年あたり?からかなり方向転換をしました。リアルタイムで見ていた人々からは「なにこいつ」と思われたでしょう、しらんけど。
でまあ、今のビジュアルになって、変な男が寄ってこないという最高のアドを手に入れてしまったわけですね。初対面の男からは基本怖がられますので恋愛なんて存在しないわけです。すごくラクになりましたね、もともとキャラじゃないのに異性からかわいいかわいい言われてちやほやされたくないんですよ。
わたしは今のビジュアルのおかげで世界が平和になったと思っていて、逆にその対極的な存在である昔のビジュアル(初期ビジュと言っています)はわたしにとっては災いでしかないと遠ざけるようになりました。
初期ビジュを否定して、それに割を食わせて生きることによって今のビジュアルと現状を強固なものにしているんですよね。
だからたぶん、EWで影や一角獣にあたるものが、わたしにとっては男ウケする初期ビジュなのだろうなと思います。それを徹底的に遠ざけ、否定することで、わたしの心の強さというのは保たれているわけです。
だらだらと書きましたが、わたしの心や現状のありかたは恐らくかなりEWの街の構造と似ているんだと思います。ですし、わたしは今の現状に非常に満足しています、変わらないでと毎日願うほど。EWの住民も、「僕」や「影」、発電所の人間を除いてはみんなそうです。与えられた街の現状に満足し、変わらぬ生活を文字通り永遠に送ることを前提としています(まあわたしは不死ではないのですがそれは言葉遊びということで)。
HWの「私」が無意識に作り出した世界がEWならば、EWは「私」ないし「僕」にとっての理想郷であって然るべきです。にも関わらず「僕」はそこは自分のいるべき世界ではないといい、一旦は壁の外に出ることを目論む。
結局「僕」は壁から出ず、森で少女と暮すことになったわけですが、本作の原案となった「街と、その不確かな壁」、その焼き直しの「街とその不確かな壁」では主人公の行動は違っています。「街と、」の僕は壁を壊し脱出、「街と」の私は「イエロー・サブマリンの少年」に夢読みを引き継いで脱出、というようにどちらも街からの脱出をして物語が終了します。
「街と」のほうは壁に対してなにかするというわけではないんですが、「街と、」のほうでは「僕」の一存で壁が消滅するんですよね。壁が消滅したということは、(明記はされていないけど)壁によって守られていた街のありかたが変わってしまう可能性もあるわけです。
わたしが街の住民だったら、それはすごく嫌だなと思いました。
弱さを否定することで強さが成り立つならばそれはよいことだし、なにより平和主義なのだから、人間関係もなんでも余計なものは欲しくないのです。
だから、この平和の象徴みたいな壁が壊されるのがどうしても嫌だった。読みながら「やめて!!」とかなり思ってしまいました。
わたしの価値観は一般的にみたらそりゃあ間違い寄りかもしれませんけど、そのおかげでわたしの平和は保たれているのです。それを壊す「僕」の神経が、街の住民側であるわたしには理解できないし、すごく嫌いだなと思いました。だからわたしは3作品のなかで「街と、」がいちばん嫌いだし許せないし駄作だと思ってしまいます。(駄作云々は村上春樹も言っていますのでゆるしていただいて。。。あと文章構成的にもそんなに好きくなくて、物語の進め方がご都合主義的だなとは思ってしまいますね)
そういった観点から見ると、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」も「街と」も、主人公は直接壁と対決していないわけなので、住民側からするとかなり安心なんですよ。べつに主人公が街を出たり森に行ったからといって「壁」に象徴される世界の大枠が変わるわけでもないので。なのでこの2作の主人公は個人的に好感度が高いです。代役用意してくれたので「街と」のほうが好きかもしれない。
ただまあ、主人公は全員ちゃんと自分の心と向き合って行動しているわけで、それはすごいなあと素直に思います。EWなんてもうすごい平和だし絶対そこで暮せば悩みとかもなにもないんですよ。この平和に安住せずに思考を止めないぞという姿勢を示した主人公たちは立派だなあとほんとうに思います。
現状が壊れることへの恐怖が大きくなっている状態で本作に出会えたことは、わたしにとってはかなり運命的だったのかなと感じています。
恐らく今のわたしは、「弱い」存在でいるべき初期ビジュ概念がちやほやされていたり、周囲の人間から肯定されてしまうと、自己構成の部分でかなりぶっ壊れてしまいそうなので、もうすこし強くならなきゃいけないかもしれないなとも思います。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は、「私」と「僕」の和解の物語ともよく解釈されています。
わたしはまだ、街から出ることが怖いですが、いずれ「私」がいたHW側の世界の過去のわたしとも和解できるようになりたいなと思います。ちょっと時間がかかるかもしれませんが、大人になって、優しく(というのもちょっと違いますが)なれて、過去のわたしの嫌な経験も全部含めて許せるようになれれば、本作の「僕」みたいにしっかりと行動ができる、思考を止めない人間になれるのかなと思います。