死ぬってなんだろう(「サンショウウオの四十九日」朝比奈秋)

遅ればせながら「サンショウウオの四十九日」を読んだ。うすーくだが、下記はその内容を含むので、ご注意ください。

最初読んだときは、誰のなんの話?って思ったが、主人公が結合双生児(「児」?)なのね、とベトちゃんドクちゃんみたいな?とようやく入ってくる。それだけ難しい設定であるものの、それをしっかり読んでわかるような巧みな文章である。

それ以上に、主人公の瞬と杏が、一人称が漢字かひらがなかといった明示的な違いだけでなく、しっかり別人だと、読んでいてわかる。

しかし、物語の中では、たとえばベトちゃんドクちゃんは固有の頭などを持っているが、瞬と杏はなにもかもくっついている。それでも2人で1つ、のようなところに杏は落ち着けない。体が1つだと、そこに1人の人格しか見つけられない。事実、5歳まで濱岸杏だけが出生した、と思われていた。

では、どこが「自立した」意識であり、人格なのだろう?

そこを想像してみる小説である。

そのカギを握るように見えるのが、父と伯父である。伯父の体「から」生まれた父は、伯父が死んでも、読んでいて「それはマイペースすぎるだろ!」っていらついてしまうほど(葬式にも渋滞にはまっておにぎりを食べていたら間に合わない、四十九日の納骨の当初の予定にも間に合わない)、まるで死んでいないかのごとく振る舞う。納棺されている伯父の遺体に、渋滞の愚痴をこぼす。死んだ、ということをまったく意に介していない。

杏と瞬は、特に杏は、自分たちが「別々に」死んでしまうのだろうか、そのときどちらがどのように死に、残された方はどうなっていくんだろう、という小さい頃からの問いにぶつかる。陰と陽とが混ざり合うサンショウウオ。

最後、杏は扁桃腺が腫れても瞬に任せて問いの答えを理性的に見つけようと、伯父の残した本を夢中になって読む。
瞬はこのとき、自分が死んだ、と思う。意識が他から見つけられなくなった状態。自分が存在していることの実感をもてなくなった状態。
しかし、思っているなら意識はあるじゃないか、と。

そこに昔、瞬がまだ「発見」されていない頃、唯一「身体」を通して瞬が存在を実感したのは、認知症が進んできた祖母にちょっかいをかけるときだけだった。生の実感があった瞬間。
その祖母は瞬と杏が中学生になったころに、認知症が完全に進行してしまった。そんな祖母にこっそり会いに行った。祖母はあらゆることを忘れていたし、相変わらず「あんちゃん、あんちゃん」と呼ぶ。しかし、祖母が見ていたのは杏ではなく、瞬であった、と瞬は確信している。

最後、杏は瞬を「発見」したとき、いや瞬の意識が明確に「生まれた」ときのことを夢で思い出す。そうして、自分たちは「くっついている」のではなく、「溶け合っている」ということに気づく。サンショウウオの、陰と陽が結びつくように。
それは杏と瞬、自分たちだけでなく、まわりの家族、これまで生きていた家族、そしてさらにおおきな人類全体にまで広がっている、と思う。


とにかく、読んでみると設定や主題が難しいため、なかなか骨のある作品である。
一方で、登場人物や物語には温かいものがあり、かつなにより読みやすい文章であるため、読後感は良い。
こうした主題を直接書くのではなく、迂遠に見えるが物語に託すことで、読者を巻き込んで「みんなで考えてみよう」となるのが小説の良さに思う。

欲を言えば、父と伯父、さらに生まれてくることのなかった叔父のことをもっと知りたかった。

個人的に読んでいて一番問題意識も物語も好きだったので、今後の作品もまた読んでいきたい、と思える作品・作家さん。

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