子育てとかぶる時。
認知症の人の食事介助。
コミュニーケーションのまともにとれない相手には、指示はうまく入らない。
そして、こちらの感情は伝わる。
子育ても一緒だよね。
イライラしてるとそれが子供に伝わってグズグズしやすくなって、そのままだとどうにも進まないから、途中でこちらが諦めモードになって、子どもに付き合ってしまう。そうすると嘘のように子供も機嫌がなおったりは、昔あるあるだった。
(もちろん、そうでない時もたくさんあって、その時はあきらめて他の人にバトンタッチしたけどね。私は、保育園や家族のおかげでなんとか子育てしてきたな。)
感情の伝播、というのはやはりあるようで、こちらのピリつきは相手に伝わる。ご飯を食べさせていても、食事に集中しなくなったり、吐き出したり、口を開けてくれなくなったり。
そうすると余計にイラッとはするんだけど、そこは逆効果なので。
あ、いまダメか〜、ってこっちが諦めモードになっていったんご本人のお話になんとなく相槌を打ちつつ様子を見る。
相槌を打ちながら、会話に成り立つような成り立たないようなやりとりをしていると、少しするとご本人の機嫌がなおって、満面のニッコリ笑顔で「ありがとう」なんて言われたりもする。
これがまたなんとも可愛いんだよねぇ…。
こちらは苦笑しつつ、さあ、ご飯食べよう?と促すと、すんなり口を開けてまた食べ始めてくれる。
時折、会話は簡単な内容ならわかるのかわからないのか…うまいタイミングで「うん」「わかった」「そう?」などの言葉が出てくることはあるので、その時はもしかしたら通じてるのかもしれない。
なんだろう、離乳食とか1〜2歳くらいの小さい子供とかぶるのは、その無邪気さ、なのかな。
相手を困らせようとか嫌がらせをしようとかそういう他意は全くないんだよね。
ただ、相手の気分をなんとなく感じとって反応してるだけみたいな。
それがわかると、途中で諦観モードで相手をすることができる。
もちろん、食べ終わったらこちらはかなり疲れるんだけど、そういえば子育てしてる時も、言う事聞いてくれなくて結局子供に合わせつつ買い物とかご飯食べさせたりとかしてたなあとも💦
認知症の親は、時々親の顔も覗くんだけど、その頻度は減っていって、なんだか子供に帰っていくみたいな感じもするんだよね。
ある意味、最後に親に手をかけて一緒に過ごす時間を作れて、親孝行をできるようになった今の時代は幸せなのかも。
もちろん、距離感は大事だし、うまくサービスを利用して、自分の休む時間や一人時間をちゃんと確保してあげないと共倒れになってしまうけどね。
ブラピの映画で、生まれた時は老人で、徐々に子供の姿になっていく男の話があった。ベンジャミン・バトン、だったかな。
かなりの衝撃的な話だったけれど、認知症は見た目は年がいっても、心は子供に帰っていくという意味では似てるかも、と思ったものだ。
なかなか難しい介護の仕事の中で、私たちは、きっと諦観をうまく使っているのかもしれない。