医療介護給付を押さえるには…?

なんだか真面目に考えてしまう。
給付額を押さえる(減らす)には、不正業者の摘発ももちろん必要だが、やはり国庫からの負担割合を減らすしかないと思う。
つまり自己負担を増やすということ。
介護の受け手側の意識改革まで至るには、まだあまりに時間がかかりすぎる気がする。

介護保険を導入した時点で、これから高齢者が山ほど増えてくる→介護は金になる!!ということを謳って、政府が旗振りをしてきた事実がある。
そこに目をつけて、介護はビジネスになる!と、様々な業界からの参入が増えた。
施設や事業所は一気に増えた。
ところがふたを開けてみれば、介護は真面目にやっていても基本的にはさほど儲からない。昨今はどんどん報酬自体が削られ、加算を得るための書類業務などのしばりがきつくなる一方。
だからこそ、より儲けるために抜け道を利用することが一般的になったのだろう。

詳細が分からないままなので多少異なるかもしれないが、複数人での訪問での介護報酬の二重取りや、夜中に数分の訪問での報酬の請求は、一見するとおかしいように見える。
ただ、一時期携わっていた立場から言えば。
病院ではないので、医師の常駐はない。(そもそもすべてに行き渡るような医師の数はない)。
看護師の自己判断での緊急の処置や薬の投与などは基本的にはできない。
一人では緊急時に対応しきれない可能性があったり、基本的に一人での訪問になる以上、よりスムーズな介助方法の伝達のためにリハと看護での訪問などはありだし(これで二重取りは普通はしないとは思うが)、数分の訪問であっても、24時間対応の安否確認や急変時の対応のことを考えれば、それは家族や本人の安心も含めて必要な場合も多い。
在宅で介護・看護を受けながら過ごすということは、つまりそういうこと。
病院では到底受け入れきらない患者数になっているから、数週間や数ヶ月で病状が安定すれば退院させる。その後の受け皿が施設なり在宅。
わかっている中の人はたくさんいるけれど、表だってみんな声を上げていないだけの部分も多いのではないか。

本当にこのまま患者数もどんどん増えて、膨大な医療介護費が増えていくならば、日本はどうなってしまうんだろう。

それこそ、エンディングをどうするかの議論に行き着くではないか。
…昔は姥捨山の風習が実際にあったのだ。

本当に国を挙げて理想的な整備・配置をするのならば、できれば地域の人口密集度ごとにうまく施設や訪問ステーションを配置して、同じ地域での利用者の取り合いにならないように行政や地域の病院などが率先して、しっかりと配置の面でも将来を見越して動ければよかったのかもしれない。
けれど、そのためにはたとえば住宅政策とか環境整備など福祉分野以外との垣根をまたいだ街づくりが必要になるし、お役所仕事でそれをやることは個人や課単位では予算や年度計画その他の絡みもあり、大所帯の自治体であるほど隅々まで行き渡った整備というのは難しい。
さほど規制がキツくない頃に乱立した事業所は、今、少しずつ淘汰されていっている。

そして、難病支援や介護保険の負担割合だ。
よりお金のある人から、サービスの提供を担保に、より多くの金銭が受け取れるようには、すでになっているのだ。
介護保険の自己負担割合は原則1割。だけど、残りの9割の負担が国や自治体には重すぎるから本当は負担割合をあげたい。でもそんな政策を通そうとしたら票の大半を占める高齢者のバッシングは避けられない。だから政策として今まではあまり掲げられなかった。
ただ、介護度によって、介護保険は上限の金額が決まっている。それを超えるサービスに関しては全額自己負担。
ヘルパーの利用にしても、さまざまな制約がかかるから、あえて高額な民間の家事代行サービス的なものをガッツリ併用する人もいる。
いくら介護サービスを増やしたくても、全額自己負担の壁はとても厚い。だから、お金のある一部の人しか上限を超えるサービスは受けていないのが現状だろう。

本当に給付額を減らしたいならば、介護度による限度額の上限を下げる方法もある。
そこを越えると全額自己負担。
ただ、現状1割負担でのサービス利用計画を立てている利用者には、その限度額を下げられてしまうと金銭面でどうにもならなくなる人も本当に多いだろう。だからそれを実行するとなると、悲惨な事件や介護心中なども一気に増える可能性がある。
これは選択肢としては進められない。
だからこそ、今現在元気な人たちへの介護予防が大きく叫ばれている。

逆のパターンになるのが、難病の助成などだ。
所得に応じて患者が支払う上限額が毎月決められていて、それを超える部分に関してが助成対象となる。基本的には全額自己負担にはならない。

そしてもう一つ。
健康な人も万人が使える制度として、高額療養費制度などがあるのだ。
なんとまあ、日本の健康保険制度は手厚いのだろう。
金づるになって当たり前だ。
生活保護の介護給付もある。これも、世帯分離などでやりくりする抜け道がある。
本当に必要なサービスが万人に提供される体制になっているか??声を上げたものだけが優遇されて利用できる制度になっていないか。情報弱者は蚊帳の外になっていないか。
今一度見直されるべきなのだろうけれど、そのためにはあまりにも整備しなくてはいけないことが多すぎる。
ただ、その人それぞれの生死に関する価値観は様々であり、それによって使っている給付額も大きく異なる。

富裕税は、そもそも国の富裕層が国政の大半を握っている以上、まだまだ実現は遠いだろう。
官僚の天下りも表立ってはなくなる方向でも、裏道がある。やはり減らないだろう。
ならばどこからお金を集めるか…
所得の多い人間が、介護や医療を必要とする状態になれば、いい金づるになるのもムリはないのだ。

江戸時代?に人気のあった、ねずみ小僧の話や、海外文学や映画などでもあったかと思う、弱きを助け、強きをくじくお話。
お金のありあまっているところから徴収して、本当に困っている人たちに再分配する。
それはあくまで理想論でしかないのだろうけれど、本来の福祉はそうあるべきなのでは…?

様々な制度があって、抜け道も必ずある。本来のあるべき形からはずれた物も数多くあるし、なかなかそれを修正することは、いろいろ忖度される社会では難しい。
それでも、声を上げることは大事だし、あるべき形を模索することも大切だと思うから。

考えていこう。
そして、同時に自分ならどうしていきたいかを具体的に計画も立てていけると良いのかな。

まあそうは言っても、自分が介護を受ける立場になった時にうまくいくとは、家族の協力や意思伝達の手段も含めるとなかなか難しいかもしれないけれど。
とりあえず私の考えを記録しておくためのnote。




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